第3話 服の袖を握る真夜
香介はぎくりとした。
一ノ瀬真夜。彼女のことはよく知っている。
といっても、直接話したことは数えるほどしかない。
最初に真夜と会ったのは、真夜の奨励会入会試験のときのことだ。
奨励会入会の条件は、いくつかあるが、一番の難関は奨励会員と指して一局でも勝利を挙げることだ。
試験官になる奨励会員も手を抜かない。なぜなら、受験者に勝てば、奨励会員の昇級のために必要な勝利にカウントされるからだ。
香介は相手が同い年の女の子だと聞いて、油断した。もともと、将棋は女性は軽んじられがちだ。
女性棋士もいないし、競技人口の差からか、女性で将棋が強い人はアマチュアレベルでも少ない。残念ながらそういう現状がある。
しかも、真夜の序盤の指し手はいかにも手慣れていなかった。将棋のルールを覚えたのも8歳のことだという。
香介はそのとき10歳。4歳で将棋を覚え、最年少の9歳で奨励会に入会して、周りからは神童だと思われていた。
だから、これは楽勝だ、という香介の驕りも理由のないことではなかった。
ところが、香介優勢で進んでいたはずの終盤、真夜が予想外の手を指した。
香介は最初、それをただの悪手だと思った。ところが、しばらくして、真夜の指し手の意図に気づいたとき、驚愕した。
完全に逆転されていたのだ。真夜の手は神がかっていた。
そのままあっという間に真夜の勝利で終わった。あの日、「負けました」と言った自分の手が震えていたのを、今でも覚えている。
その真夜が香介についに段位でも追いついた。香介が三段リーグで足踏みをしているあいだに、彼女も三段になったわけだ。
女性の三段は史上四人目。しかも中学生で三段まで上がった例はない。
「史上初の女性棋士誕生まであと一歩! って大手新聞にも記事が載るんでしょうねわ」
透子がしらけたように言う。透子もかつては同じように注目されていたが、成績の低迷でしだいに忘れられつつあるのは否定できない。
香介としても、焦りを感じる。かつて同世代で「天才」と呼ばれていたのは、香介だった。
けれど、今は――。
「天才っているのねえ」
透子がしみじみとつぶやく。その「天才」が真夜を指しているのは明らかだった。
しばらくして、透子は「あっ」とつぶやいた。
「もちろん朝宮くんも天才だけれどね」
慌てた様子で透子が付け加える。気遣ってくれたのだろう。
けれど、そのことが、香介が「二番目の天才」あるいは「秀才」になった事実を残酷に突きつけていた。
「どう? 夕飯でも食べてく? 奢るからさ」
透子の提案に、香介は首を横に振った。
「いえ、今日は遠慮しておきます」
「そう。また、いつでも声をかけてよ、美味しいもの食べさせてあげるから」
透子はふふっと笑った。
鈴橋三段にしても透子にしても、他の三段たちの多くも、ずっと年下の香介に優しい。彼ら彼女らも、年齢制限に怯え、焦りを感じているはずだ。そして、香介はプロ入りにあたり、最大のライバルでもある。
それなのに、みんな香介のことを気遣ってくれる。
(俺はダメだな……)
自分は完全無欠の天才だと思っていた。でも、そうではない。自分の弱さを受け入れられなければ、この先、プロになっても活躍できないだろう。
香介は明らかに優秀なプロ棋士の卵ではある。
だけど、一番にならなければ、意味はない。香介は父親に――朝宮二十世名人にそう言われて育ってきた。
廊下に出ると、人だかりができていた。
その中心にいたのは、一人の少女だった。
美しく、可憐で、小柄な少女だ。ワンピースの清楚な私服姿。
一ノ瀬真夜二段……いや、三段だ。
周りを取り囲んでいるのは、マスコミ関係者だ。三段への昇段がこれほど注目された例は他にない。
真夜がちらっとこちらを振り向く。ショートカットの髪がふわりと揺れた。
どうやら、取材攻勢に困っているらしい。将棋連盟の関係者もたまたま近くにいないようだった。
香介はため息をついた。真夜に近づくと、声をかける。
「すみません。一ノ瀬三段は、これから予定がありまして」
一斉に、記者たちがこちらを振り向く。そのうちの何人かは見慣れた顔だ。
スポーツ紙や大手新聞の文化部には、将棋担当の記者がいる。彼らは将棋会館にも頻繁にやってくるのだ
読日新聞の記者が「おっ」という顔をする。香介とは顔見知りだ。
「朝宮くんじゃないか。ちょうどいい。二人並んでツーショットがほしいね」
「なんで一ノ瀬さんとツーショットが必要なんですか。恋人でもあるまいし」
香介が呆れて言うと、真夜が「恋人……」と小さくつぶやいた。真夜は美人だし、学校でも人気がある。たまたま同じ学校に通っているから、よく知っている。
自分なんかと恋人扱いされるのは、迷惑なことだろうと香介は思った。香介は将棋には自信があるが、将棋にしか自信はない。
勉強は得意な方だが、スポーツはからきしダメだし、容姿も平凡。女性にモテるとは思えない。
だが、記者はにやりと笑った。
「最大のライバル恋人だったら、もっと盛り上がるんだけどね」
「ライバル?」
「君たちは二人とも、中学生棋士になるかもしれない。将来は名人や竜王のタイトルをめぐって戦うと思うと、この先が楽しみだ」
「そうなるといいんですけどね」
香介は複雑な思いで言う。真夜だけが活躍して名人や竜王になり、香介はぱっとしない……という未来を想像してしまったのだ。
ちなみに名人や竜王は将棋の八大タイトルで、これを獲得することは棋士にとってもっとも名誉なことだし、そして、賞金の金額も数千万円にも及ぶ。
「ま、ともかく二人並んでよ。中学生三段の天才少年少女、二人の輝かしい未来を記念して」
記者に言われるがまま、香介は真夜の隣に立った。言う通りにした方が、早く解放されるだろう。
突然、真夜の小さな手が香介に伸ばされた。そして、香介の服の袖をぎゅっと握る。
「えっ……」
香介も、周りの記者たちも、みんな驚きの声を上げる。
「あ、あの……その……」
真夜はかあっと顔を赤くしていた。
<あとがき>
そろそろ真夜と香介の交流が始まります……!
面白い、続きが気になる、二人のイチャイチャに期待! と思っていただけましたら、
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