迷い人は眠らない

寄賀あける

 1 

 コーヒーに角砂糖を入れていた隼人はやとが、ふと顔をあげた。

「ボクの領域に誰かが迷い込んだ」

「うん? 今日は予約、入ってないよ?」

「バンちゃん、馬鹿なの? 迷い込んだんだよ。予約客なわけない ―― あぁ、砂糖、いくつ入れたか判らなくなった……一から始めようかな」

「もう五個入れたよ。それ以上入れちゃダメ」

「バンちゃんのケチ……」




 敷地をぐるりと囲む高木こうぼく、公道から続くのは優雅なカーブをえがくアプローチ。イングリッシュガーデンが広がる奥には白い建屋があるが、それはしょくさいが吹く風に揺れた時、わずかに姿を見せるだけだ。この敷地の中だけは時間の流れが違っていて、別世界が広がっている。


 けれどやはりここも、ひとつながりの世界だとアプローチの入り口に立てられた看板かんばんかたっている。細い丸太に板を打ち付けただけ、板は木目がかされて、左右は木目に沿ってくずれている。その看板には『美容室ペレグリン』と黄色い文字で書かれていた。


 佳代子かよこはその看板を見た時、そうだ、せっかくだから綺麗きれいにしてからにしよう、と深く考えもせずアプローチに足を踏み入れて行った。綺麗にしてから何をするのか、それはまだ考えていなかった。


 初めて来た街だ。飛び乗った電車の終着駅だった。職場に向かうはずだったのに、なぜか反対方向の電車に乗った。


 駅を出ると霧が出ていて、全てが曖昧あいまいに見えた。でも綺麗、そう思いながらそぞろ歩いた。


 どこに行くあてもなく、彷徨さまよい歩いているうちに霧がどんどん深くなり、辿たどり着いたのがこの美容室だ。


 アプローチは手入れの行き届いた庭を楽しめる作りになっていた。ある意味『美容室』は別世界への入り口かも知れない。今までの髪型から新しい髪型に変わる、生まれ変わる場所かも知れない。そこへの導入に、この夢の中で見るような花咲く庭はさわしい、佳代子はそう思った。


(わたしも生まれ変わりたい。今のままでは、このままでは……)


 生活に埋もれて、自分を見失う。もう見失っている。唯一の心の支えも、もう見えない。


 煉瓦れんが敷きのアプローチの終点はちょっとした広場になっていて、木のベンチ、アイアンと陶器とうきタイルのティーテーブル、そしてテーブルとそろいのチェアー二脚が置かれていた。庭をながめながらお茶を楽しむのだろう。その先に、白い板張りの建屋があった。


 庭によく似合うその建物の屋根は大きく傾斜し、窓があるがきっと二階ではなく、せいぜい屋根裏部屋だ。


 白いドアのかたわらには、やはりこの庭や建物に似合うベルが取り付けられている。佳代子はらされた細いチェーンを引いて来訪を知らせた。チリン、と可愛らしい音がする。


 こんな音で中に聞こえるのかしら? それより、本当にここは美容室? 美容室って、たいていガラス張りで中が見える。ここにはメニューや料金の表示もない。


「はい、美容室ペレグリンです」

 急に声がして佳代子を驚かせる。どこかにスピーカーが取り付けられているのだろうか?


 佳代子が戸惑っていると、

「本日はどのような?」

と訊いてきた。


「あ……髪を、カラーをお願いします」

「お客様、ご予約いただいておりますか?」

「いいえ」

「お待ちください。美容師に確認して参ります」


 ひょっとして随分ずいぶん、場違いなところに来てしまった? 予約が必要な美容室は多いけれど、呼び鈴を鳴らして店員を呼ぶ美容室なんて、かなり高級なのでは? このまま帰ってしまおうか?

「お待たせいたしました ―― 幸い本日は予約に空きがございます。お客様さえよろしければ、お通しするよう美容師が申しております」


 どうしよう……いまさら料金を聞くなんて恥ずかしい。

「ただし、お客様にご確認したいことが二点ほどございます」

「確認?」

「はい。二点とも美容師についてとなりますが、無口と申しますか……気のいた会話の一つもできません。もちろん、サービス提供に必要なことはキチンと申し上げますので、その点はご心配いりません。よろしいでしょうか?」

「はい」

 むしろ黙っていてくれたほうがいい。


「もう一点、こちらのほうが重要です。美容師の、見た目に少々、なんがございます。腕は確かですので、お客様がそれをお気になさらないのでしたら、必ずお望みのスタイルに仕上げる事を保証いたします」


 見た目に難? 男性だか女性だか知らないが、あらかじめ了承を得なくてはならないなんて、一体どんな容姿なのだろう? 具体的に聞かないとなんとも言えない。

「あの、見た目に難とおっしゃいますと?」

「珍しい目の色をしております。しかも、右と左、別の色です」


 オッドアイ……話には聞くけれど、会うのは初めて。そんなに嫌じゃない、と佳代子は思った。

「気になりません」

「では、お通しいたします」

「あ……」


 やっぱり先に料金を聞こう、どうしても気になる。

「あの。料金はおいくらほどになりますか?」

「当店は一律で頂戴ちょうだいいたしております。どのメニューでもお客様の満足度に応じてお支払いいただいております」

「満足度?」

「はい。仕上がりをごらんのうえ、お客様が適正と思われるがくをお支払いください」

「そうとう、技術に自信があるのね」

「いかがいたしますか? お入りになりますか、それとも?」

そんな自信家ならば、ひょっとしたらを分けてくれるかもしれない。

「お願いします」


 そう言い終わるとともに、ドアが内側に開かれる。薄ぼんやりした照明の中、ドアを押さえているのは若い男性だ。


 色白で、端正な顔立ち、茶髪にはメッシュが入っている。白いウイングカラーのシャツは、袖にゆったりとひだを取ったものだ。クロスタイに黒いベスト、スラックスも黒、美容師と言うよりはレストランのボーイのようなで立ちの彼は、まだ二十はたち前に見える。


「お入りください」

 夢の中を歩くような心持の中、足を中に踏み入れる。後ろでドアが閉まる音がし、急に部屋が明るくなる。


 見渡すと部屋は円形で、窓がないのか、壁際かべぎわには闇があるだけだ。中央部分だけスポットライトで照らしているようにも見える。


 建物の外見とそぐわない気もするが、見上げると光が差し込んでいる。傾斜した屋根にあった窓からの光だろう。


 さらに進むと奥に、足元まで見えるほど大きな、美しい縁取りが施された鏡が置かれ、その前に瀟洒しょうしゃなデザインの椅子が置かれている。ドアを開けてくれた男が椅子の前まで進み、腰かけるよう佳代子をうながした。


「お荷物とお召し物をお預かりいたします。少々お待ちください。美容師がじき、参ります」


 佳代子が椅子に座ると、グルッと椅子を鏡に向かわせて回し、男はどこかへ行ってしまった。どうやって椅子を回したのだろう。あのデザインで、回転させる機能を持たせるなんてできるとは思えない。そう言えば、高さを調整できるようにも思えない。でも事実、ぐるりと回ったのだから、私には判らない仕掛けがあるのかもしれない。そんな事を考えながら、佳代子は鏡に映る自分を見詰めた。


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