第二話 新兵の着色

 新たな年度を迎える本日、会場で新たなる軍人が目の前に連なる。女性も混じっているのを少し物珍しい心地で見ていたが同世代にも居るのを思い出した。一人一人の面持ちを確認していると一際目を惹く女性が居た。淡い茶色の髪をした女性だ。彼女の顔は他の軍人とは違う雰囲気を醸し出していた。進行役の声も、指示者の話も耳に入らず、ただひたすらにかのじょが何故あれほど他とは違う面持ちをしているのかを考えていた。

 昼食時、今日も軽食を頼んだ。席に座って野菜を食べていると過去の友人が新米の軍人に十七歳からの三年間の最も血生臭い地獄をさも時代が悪かったというように語り出すのが聞こえた。己が加害者である事を棚に上げ時代や国を盾に身を守る。なんと愚かしいことか。ぼくは覚えている。恐怖の目付き、血の濃ゆい臭い、己の子供を守りたい親の発言、耳を劈く嘆きの声、ぬめり滴る感触が全身を蝕んだ。野菜を半分も食べられずに御盆を返す。いつもであれば全て胃に捩じ込みご馳走様と配膳係に伝えてから事務室なりトイレなりに向かうが今日はそんな一言も言えずに走る様にトイレへ行った。食べた物も胃液も血液さえも影に満ちる便器に溜まって悪臭がする。見た目と臭いが再度記憶を起こして吐き出してを今日も暫く繰り返していた。

 書類仕事を一通り終えた後、其れを確認してもらうため、事務室を出る。渡り廊下の両側には柱が均等に並んでいた。その間を縫って突風が吹き付けた。咄嗟に書類を庇った。庇いつつ閉じてしまった目を開ける。すると数輪のコスモスが風に吹かれている。例年まではなかったように思うその光景がぼくの目に色を灯していた。目の前は可愛らしい色に包まれた。ついしゃがみこんで片手を伸ばした。風が和らいで緩やかに、予測不可能な動きをしつつ揺れている。手に鮮やかな色が触れては離れた。手の奥に人が見えた。新兵達が基礎体力作りをしている。すぐに全員が体制を崩したが、一人は違った。やはり彼女だ。休憩時間であろに、ナロープッシュアップを行っている。地に手を付けるなど本来嫌だろうが、彼女はそんな事は惜しまないようだ。こんな短時間ではあるが、彼女には好意を抱き始めている。書類仕事が少しばかり楽しくなってきた。また彼女の頑張りを見れるだろうか。

 自由時間になろうともやはり仕事を行い、いつもであればお茶を挟みながら作業をするが今日は集中して居た。恐らくだが彼女に触発されているのではないかと思う。努力を怠らない姿に感銘を受けたのだ。間接的ではあるがぼくもかのじょの上司に値する。きちんとした振る舞いをせねばならない。白い紙と黒い習字用具に身を投じた。

 はためいていた赤色の国旗が降りるのを眺めた後、夕食を摂りに食堂へ行く。未だ集中状態が続いており、配膳係に笑顔で対応する事が出来なかった。いつも以上に心配をされて夕飯はサラダに角煮が二つ、お米のメニューになった。野菜を食べ終え脂身に苦しみつつもお米で補い、昼食よりも健康的に食事を摂ることができた。完食したお皿を返す列に並ぶと前方にかのじょが居た。独特の甘い香りはオレンジ色になった杏を彷彿とさせる。香水で作られた様な人工的な匂いには感じられない。夏の実家を思い出した。かのじょが御盆を返した後にはぼくは自然と穏やかな顔になって笑顔で礼を述べる事が出来た。自分がこれほど奇怪な人間で有るとは知らなかった。

 白いタイルに足を踏み出し風呂場に入る。白い明かりに照らされたまま頭を洗った。身体を洗っていると過去の友人が仲間を連れてやって来た。かれらは頭を洗い始め、ぼくはゆったりと湯船に浸かって身体を温める。するとかれらは口にした。

「やっぱ新人ってダメだわ、革命んときの話したらすげぇビビンの。」

「あんなんでビビってんの?それじゃ軍人務まんねぇだろ」

笑っている、ゲラゲラと汚らしく唾を散らしながら。務まらないのはかれらの、ぼくらの方だ。軍人は国の為に、国は国民の為に、国民は国民の為に在り。国民をまともな理由もなく残虐し、殺害し、奴隷にしたぼくらこそ本来軍人は愚か生命体で有ることすら許されたものでは無いだろう。今はただ死ぬまで命を尽くして仕事をし、定年後は他の仕事をこなしつつ両親に心を尽くすのみだ。そそくさと白い風呂場から逃げたぼくは黒い漢服に身を包んで武道場へ向かった。

 到着後は気功を丹田へ落とす事に注意して整備の確認や準備運動を行った。全ての作法を終える頃には頭に浮かんでいた嫌悪感や罪悪感が落ち着いて、まるで他人事の様に思えてしまう。今日から航友会見学が三週間に渡り行われるので来席日数の多い二十人を中心に乗り切る予定だ。その面子と打ち合わせをしていると新兵がちらほらと訪れた。中には、茶色のTシャツを着たかのじょが紛れている。打ち合わせが終わると十人ほどの見学者が居た。ざっくりと太極拳の説明をしていると皆から真剣な眼差しを感じる。

「待っている間に準備運動をして下さった方もいらっしゃいますね、とても善い心がけですよ。」

今後行う事になる人も居るであろう太極拳における準備運動をともに普段よりもゆっくりとしたペースで行なった。途中で茶色の漢服に身を包んだインス大将がいらっしゃって、皆に指導を始めた。開脚の度合いを見てみる事になり床に座る。会員は百八十度に開く事が出来たが見学者は九十度に開くか否かと言ったところだ。インス大将が長座の足を左右に分け、後ろで揃えて前のめりで床に倒れる様な姿勢になっていた。ぼくはというと左右に開脚をしたまま床に胸や腹を付けたり足を前後に開脚をしたりとインス大将程では無いが柔らかさを確認した。すると会員にまで驚かれてしまった。

「インス大将に二年間も稽古を付けて頂いていたんです。」

「あの頃は九十度にすら開けられずに居たが今は段違いであるな。」

「あなたのおかげですよ、あの練習方法を今でもやらせていただいています。」

インス大将と少し笑いあったあと、四十二式総合太極拳を二十一人で行った。ゆったりとした動作でここまで行っていたが見学者の声で演武としての太極拳をする事になった。ウォークマンから「高山流水」を流し会員の一人が曲に合わせて作法を加えていく。三分四十三秒の優雅で落ち着きが有りつつも強さのある演武に皆が食い付き前傾姿勢になった。終わる頃には倒れんばかりであった。かのじょは口を開いてこう言った。

「インス大将、フェイツ少将、武闘の方も見せて貰えますか。」

「あぁ、元よりそのつもりでいる。」

大将は少し悩んだ後、見学者の中のガタイの良い男児を呼び付けた。太極拳の在り方や考え方を御教授なさるつもりだろう。戦闘状態の大将の気迫に押される男児に殴り掛からせ拳をあっさりと避けた。何度が繰り返した後に男児の右拳を右に避ける。右手で伸びている手首を掴み進行方向へ引っ張った。左肘を男児の脇に下から引っ掛かけるとインス大将の左拳が顔面へ直撃する。男児が痛みに声を上げ後ろによろけた。見学者達はあまりの早業に目を丸くして一体何があったのかと小声で話していた。太極拳は身を守る為の武術で有るから相手の力を利用して勝利する。相手が大きければ大きい程、強ければ強いほど勝ちやすくなるのだとインス大将が説明をした。インス大将がぼくに目線を配ったので正座をしていた足を緩める。

「故に太極拳同士が争えば恐らくこの世で最も美しく穏やかな武闘になるのだ。」

そうして始まった可憐で静かな武闘。のんびりとした視界、武闘としては無音の空間、緩やかな動作に見学者はつまらなそうにしていた。お互いがお互いを牽制しもはや勝敗など存在しないので提案をする。交互に力を加え合うように、素早く、古きを重んじようと。頷いて頂けたと思った瞬間に踵が頭頂部を狙って落ちてきた。咄嗟に避けて拳を眉間目掛けて捻り出す。が、手首を掴まれた。大将の人差し指が肩のツボに吸い込むように僅かなずれもなく射抜くかの様に突かれる。ぼくは小さく息を詰まらせて目を瞑った。

「流石です、手も足も出せませんでした。」

「否、以前ここへ訪れた一ヶ月半よりも格段に進歩している。」

案ずることは何も無いと言っていただけたことに満悦しているとかのじょから声をかけられた。太極拳を学んで良い事は何かと問われた。回答を纏めるために少しばかり唸って時間を稼ぐ。丹田に気功が落ちて身体も心も安定する事、姿勢が正しくなる事、バランス能力が上がる事、足の可動域が上がる事等の効果により思考も身体も始める前よりも自由に動かす事が出来る事。ぼくはもう一つ良いことが有ると考えている。かのじょに他の軍人や男がどういった戦い方をしているかと問いた。かのじょは少し悩んだ後にこう言う。

「力ですか。」

「はい、そこで太極拳なのです。」

「太極拳は技術に長けていると見ました、本来ならば速度に優れている長拳が優位なのでは?」

「それも一理あります。が、インス大将のあの手さばき足さばきをご覧下さいましたよね、練習ではゆったりと所作を身体に覚えさせてから演武や武闘の為に速度をつけていくんですよ」

かのじょは納得した様に頷いて頭を下げた。他の見学者に混じって所作を学びに向かった。暫く練習をしていたらいつの間にやら入浴の時間になっていた。

 頭を洗っていると隣に誰かが座った。その男も頭を洗っている。それだけならばなんの変哲も無い日常なのだが視線を感じた。一秒に一回のペースと言っても過言で無いほどに見詰められている。泡を流し始めれば隣からもシャワーの音が聞こえた。ボトルを二回押すと隣からも二回音が耳に入る。視界の端に映る身体を確認して見ればぼくと同じ様に腕を洗い胴を洗い足を洗っていた。やはり泡を流せば向こうも流す様だ。偶然で有ることを一心に願い立ち上がる。すると後ろから椅子の引く音が聞こえ自分のものとは違う水の上の足音が聞こえた。白い湯船に座れば先程と同じく右側に男が座る。

「間違えていたら申し訳ないのですが、何か御用でしょうか。」

かれは黙り込んで手のひらを眺めていた。もしかしたらかれの耳にはぼくの声は入らなかったのかも知らない。ここは共同の風呂場、他にも人はたくさんいて話し声も毎日聞こえる。行動が被ったことも気のせいであったのかも知れず、かれは自分に声をかけられたのかも分かっていないのやも知れずといったところだろうか。そう思い温まった身体を白い湯船から離そうとすると隣りから会話の予兆を感じた。

「失礼を申し上げる、区隊内命令下達後に手合せ願えないだろうか。」

航友会の時の男児で有ることが声から知れた。随分と野蛮だと思いつつも断った。手合せは構わないがその後にまた汗を流せるのは翌日の十七時である。それは不衛生だから航友会見学や所属後などの次の機会にしようと提案した。様子からして太極拳と長拳、八極拳の会で悩むのではなかろうか。二人で立ち上がり身体を乾かす。お互い頭を下げて自室に帰った。

 区隊への伝達を終え寮外へ出る。暗闇を歩いて少しすると倉庫が見えて来た。扉に手を掛けたあたりで人の駆ける足音が耳に入る。ランニングでもしているのだろうかと思いつつがらりと開けて部屋の角の棚に触れた。白地に濃紺色で蓮の絵が描かれている花瓶を手に取る。後ろで足音が止まるのを感じて振り返るとかのじょが立っていた。

「何をしてるんですか。」

「花瓶を探していたんです、先日寮の花瓶を割ってしまいましたので。」

「……蓮、ですか。」

「えぇ、見付けると頂きたくなるのです。」

どうしてかいつもそうなってしまうのだ。花瓶の蓮を眺めているとかのじょが境界線を踏み越えて来た。ぼくが見ていた棚を一瞥した後に隣の棚を同じく一瞥する。棚の一番下の段から一輪挿しの花瓶を手に取った。白地に翡翠色の薔薇の絵が描いてある花瓶を手に取る。

「緑色の薔薇とは大変珍しいですね。」

「はい、少将の寮はどの寮なんですか。」

「バオシー寮七十一の七十六ですよ。」

何を思ったか、お互いの情報を少しばかり探りを入れつつ交換した。勤勉な人の様だからぼくへの寮の質問も他の寮への好奇心かと考える。かのじょはシィン三等陸士さんと仰り、特技は計算だと言っていた。寮はズーウ寮八十三の八十三と聞く。お互い今後お世話になる可能性があるやもしれないと深くお辞儀をした。そして二人で花瓶を持って背を向けて歩いた。ぼくが手に持っている花瓶は廊下の彩りに、かのじょが持っていた花瓶はお部屋の彩りになると伺った。きっとすぐにここまで駆け上がってくるのだろう、あの三等陸士さんは。今まで仕事に対して家族への仕送り以外に価値が見い出せずにいたがこれから楽しくなりそうだ。そう年甲斐も無く満月にはなりきらない月に笑い掛けた。

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