ひろしの七罪

旧名【 淀川 大 】

まえがき

 あくまで個人的な恣意的見解なのだが、このまま黙していてはWEB小説の未来、いや、小説そのものの未来、いやいや、文学の未来が無くなる気がするので、少し語らせてほしい。

 皆さんは「ブラバ」という言葉をご存じだろうか。「ブラウザバック」の略でWEB小説界のスラングらしい。「興味本位で第1話を読んでみたが、オモロくないから読むのやーめた」ということだろう。こういう読者は実際に多い。申し訳ないが、私もそういう心理で読みを中断してしまっている作品があることを告白する。勿論、そういった作品はごく一部であって、ほとんどは時間がないために読みたくても読めずに止まっているだけなので、その点は各秀作の作者様に本当に申し訳なく思う。

 ともかく、「ブラバ」という名で一話読みの後に離脱するという無礼が横行しているのは紛れもない事実である。

 しかるに、かかる「ブラバ」による読者の離脱を避ける為か、読者が食いつくようなクライマックス的な場面を作品の冒頭でいきなり展開する作品をよく目にする。出版社はそのような作品を拾い上げ、「冒頭の引きが素晴らしい」などと称賛して、あたかも小説の見本であるかのように持てはやす。

 私は若い頃、恩師からこう教えられた。「文章というものは固定されている。だから最後まで読みなさい。特に本は。例えば社会学系の教科書などは最後まで読んでみないと分かりませんよ。論文と教科書は違いますからね。AとBという対立する学説や立場があるとき、ある識者がAという考えで書いているかのような本があっても、最後まで読むと結局Aを否定してBの正しさを主張しているのだという本はあります。本ではなくても、他人からの手紙なども、丁寧に相手を説得しようとする文面なら、いきなり相手を否定することはしないはずなので、最後まで気を抜かずに読んで判断しないといけない。文末まで時間をかけてじっくりと、知らず知らずのうちに読み手の心理を誘導し、何らかの心証を持たせる。それが優れた説得というものであり、文章の機微なのです。まして、人間の心に何かを訴えたり他人を楽しませたりしようとしている小説やエッセイなどの文章は、そういう機微を積み重ねて効果を発揮していることが多いはずです。だから、文章は最後まで飛ばさずに読みなさい。他人が書いたものは、特に本は、じっくりと読みなさい。そうすれば必ずその素晴らしさが分かります」と。

 確かに、文豪たちの作品に限らず、人気の作品は長短を問わず、そういうものではないかと私は思う。

 ところが、昨今の創作物は先述のような冒頭クライマックス型が多いからか、読者はそれに慣れてしまい、冒頭だけで判断しようとする。勿論、これが単に「慣れ」だけではなく、PCやスマホなどのIT端末を使用して読むというスタイルの特徴に起因するものだということも理解しているが、この事はWEB小説だけに限らず、音楽、映画にも顕著な傾向だと思う。つまり、創作界の潮流という訳だ。

 しかし、私はそれでいいのかと疑問を呈したい。冒頭クライマックスに限らずとも、荒唐無稽で突拍子もない展開を並べた小説や、次から次に謎過ぎる謎を並べた作品は枚挙にいとまが無い。これらはただインパクトを与えて読者を驚かせることや、答え合わせを先送りすることで、読者の途中離脱を防ごうとしているのだろうが、それでは本当の小説の良さは失われてしまうのではなかろうか。恋愛モノでも歴史モノでもミステリーでもホラーでも、長編だろうが短編だろうが、いくつもの文章を紡いで物語を描き、最後までの流れの中で読者に感動や喜怒哀楽を発露させる、それこそが文芸の素晴らしさというものではないか、文学の尊さというものではなかろうか!

 そして、それらの神髄を発揮するためには、とにもかくにも読者に最後までじっくりと読んでもらう、そういう姿勢というか習慣といったものを植え付けないといけないのではないか。そのためには、出版や編集やWEB小説サイトの運営に携わる人々が「冒頭の引きが云々うんぬん」とか、「読者を引き付ける展開が云々」などと言っていては駄目なのではないか、もっとはっきりと「文章は、物語は、すべて最後まで読め」と謳い、読者を育てることも必要なのではないか、と私は思う。けだし、そうしなければ、今残っている世の中の芸術的な文学作品などは、将来的に誰にも読まれなくなってしまうのではないかと危惧するからである。それらの危惧が古典と言われる作品すなわち「文学のいしずえ」と言われる名作に強く及んでいることは想像に難くないはずだ。文学における、私はそう考えるのである。

 一方で、当然ながら作品を作る側にも改めるべき点は多々あるだろうと思う。先に述べたブラバ対策の三つの所業に加え、例えば、「ギャアアアア」とか「ドバババ」とか「ガシャーン」といった擬音で文字数を稼ぐことや、無用なエロ描写を挟んで読者を引き付けようとする蛮行である。だいたい、「ブロロロロ」とか「ジュルジュルジュル」というなどを既存の別の言葉の組み合わせで読者に連想させるように書くのが文のであり創作者の腕の見せ所でしょうが、と私は思うし、映画「ターミネーター」のセックスシーンのように物語の中で欠かせない要素でそのように描く必要があるものは別にして、不必要なエロで読者を釣るのは倫理的に問題でしょ、と私は思うのであります。

 そして、私が何よりも憤るのが、ラストでの「どんでん返し」という名の誤魔化しである。せっかくそこまで読んでくれた誠実な読者を欺くという、人の道に反する行為であり、これこそ読者の感覚と自分が書いた文章の集積から導かれる内容がズレてしまっていることを煙に巻き、伏線回収だとか、外連味けれんみを巧みに用いた妙技だなどという美辞麗句で飾った嘘・偽りであり、私は断じて許すことはできない。

 この怒りに近い思いは、私がこれから作品を綴るにあたって決して忘れてはいけないことだと思う。

 小説は作者と読者の共同作業による芸術である。私はそのように信じて、この作品を書いたつもりだ。

 いささか感情が高ぶり過ぎたきらいもあるが、どうか読者の皆様には、気を落ち着かせて冷静な心境で本作の読了に臨んでいただきたいと切に願う。

 本作が読者の皆様の心に一石を投じ、静かな波紋を立てることができれば幸いである。


 二〇二二年一二月某日 淀川よどかわ ひろし

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