獲物

「おはようございます、お嬢様」


 深く頭を下げる召使に、アクシャは穏やかに返事をした。

 暖かな日差しが差し込む廊下を歩きながら、アクシャは広間に向かっていく。


 夜とは雰囲気の違う広間に、また母が座っていた。


「おはよう。私の祝福アクシャ


「おはようございます、御母様」


 昨夜と同じ、母と向き合う席に座る。

 食卓には、西の地の特産である香辛料を使った料理が並んでいる。


 ここでは食べることが滅多にない刺激的な香りが、彼女の鼻腔をくすぐった。


「すごいですね。これもフォーゲル様が?」


「そうよ。西の食べ物はとても美味しいわよね」


 優しく微笑むと、母は料理の一つ、羊肉を柔らかく煮込んだものを取り分け、アクシャに差し出した。それにパンをつけて食べるのが、アクシャは大好きだった。


「ありがとうございます。これは……本当に美味しいですよね」


 嬉しそうに笑い、料理を頬張るアクシャを、母は嬉しそうに見つめている。

 母も、卓上に並んだパンをちぎり、肉をのせた。


 肉の味をよく吸った汁が、パンに染みていく。

 それを手に持ったまま、母はゆっくりと口を開いた。


「……そういえば、昨日階段で誰と話していたの?」


 心臓を握られたような緊張が、アクシャを襲った。

 穏やかな、しかし話を逸らすことを許さない母の視線が、アクシャを縛り付ける。


(見ていたのが、御母様だったなんて……)


 不安を押し殺して笑うと、母は続ける。

 

「たまたま見たのよ。夕方、貴方が誰かと話しているのをね」


「ああ、あの時ですか。実は───」


 探偵の調査に協力していた。その言葉を、アクシャは飲み込んだ。

 探偵。そう言ってしまえば、母はこの街全ての探偵を調べ上げるだろう。


ルディのことは、絶対に悟られてはいけないわ)


 しかし、変に嘘を言ってしまえば、必ずどこかで狂いが生まれる。見られていたとなれば尚更だ。

 事件のこと────ロベリアの話題は避けられない。それを悟ったアクシャは、笑って言った。


「実は、調査員の方に声をかけられたんです。事件の調査で、話を聞かせてくれないかと」


「……事件?物騒ね。何を聞かれたのかしら」


 緊張で唇を噛む。ロベリアのことを、言っていいのだろうか。

 そんな考えが、頭をよぎった。


 今この街で、調査員が大きく動く事件など一つしかない。

 そう、ロベリアの事件だ。

 それを避けてしまえば、かえって不自然だろう。


 アクシャは一つ息を吸うと、つぶやいた。


「……最近の、殺人鬼についてです」


 母の手が震え、空気が凍るのを肌で感じる。


「まだ、目撃情報すら出ていないのですって。私もお力添えができたらと、調査員の本部で話をしたんです」


「……そう。何か、知っていることはあったのかしら」


 アクシャは大袈裟に首を振って言った。


「いいえ、全く」

 

 そういうと、母はほっとしたように肩を落とした。


「よかったわ。貴方が……事件に巻き込まれているのではないかと心配したわ」


 肉を乗せたパンを食べると、母は立ち上がった。


「ごめんなさい。少し早いけど、失礼するわ。フォーゲルと巡礼の相談を進めているの」


 引き攣ったような笑みを浮かべながら、母は足早に去っていく。

 アクシャは糸が切れたように、大きく息を吐いた。


(これで、よかったはずよ)


 気持ちを晴らすように、果実酒の水割りを流し込む。

 爽やかな香りが、心に残る不安をかき消していくような気がした。



 *+†+*──*+†+*──*+†+*──*+†+



 震える手を無理やり抑えながら、ブランシュは声を荒げて人払いをした。

 やはり彼女の傍に残る1人の召使は、不安そうにその顔を眺める。


「……近いうちに、手紙を出すわ」


 その言葉に、召使は息を飲んだ。

 ブランシュが少女に手紙を送る時。 それは、新たな殺人の合図だった。

 召使の手が、小さく震え始める。彼女が手紙を一定の位置に持っていくだけで、一つの命が奪われるのだ。 いつまで経っても慣れぬ、罪悪感と恐怖。


 その感情さえも、顔のヴェールが隠し去ることを、彼女は願った。


 ブランシュは酷く焦った様子で、目を伏せている。

 言葉には出さなくとも、手の震えと浅い呼吸が、彼女に何かが起きてしまったことを物語っている。


「……何が、起きたのですか」


 黄金色こがねいろに近い主人の瞳が、ゆっくりとこちらへ向けられる。その透き通るような美しい瞳の影に、底知れぬ闇が眠っているように見えた。


「アクシャと話していた、白い光のことよ。正体はまだ分からない。けれど─── 」


 朝日を受け銀色に光るプラチナブロンドの髪が、顔に沿うようにしてはらりと揺れた。暖かな光の降り注ぐ青空とは対照的に、ブランシュの表情はひどく曇っている。


「調査員が、何かを掴んでいる」


 ひんやりと、冷たい汗が頬を伝うのを、召使は感じた。

 調査員とアクシャの接触。それは、ブランシュが限りなく避けたいことだっただろう。 彼女の正体を掴まれてしまえば、娘を守る術を失ってしまう。


 黒狼卿、ルーヴを殺めた時点で、彼女たちはもう一線を越えたのだ。

 事件の全てを闇に葬り、引き返せる境界線を。

 それに加え、娘を守る術まで無くしてしまえば。


(終わってしまう……。何もかも)


 足元が急に、底のない沼に変わってしまったかのような不安が、全身を駆け巡る。

 そんな中、ブランシュは小さく呟いた。


「彼らが私たちを終わらせるより前に、消えてもらわなくてはならないのよ。アクシャのことを知る、悪魔にはね」


 恐しく淡々とした声で言う。その瞳からは美しさが消え、黒い狂気が禍を巻いていた。

 

「光の主を、必ず見つけてみせるわ。あの子の印象に残るほどの白よ。忌み子の瞳から逃げられると思わない事ね」


(本当に、その通りだ)


 ブランシュの言葉に、召使は静かに頷いた。


 少女の記憶力と観察眼は、本当に化け物じみている。

 一度見せられた獲物の情報は一瞬でおぼえてしまうし、一度その目で捉えれば、たとえ人混みの中だろうと決して見失わない。


 一度見た獲物は決して逃がさぬ猟犬の手綱を、ブランシュは握っているのだ。


「しかし、調査員と白い光とは。面白い組み合わせですね」


 軽口を叩くかのようにそう言った召使を、ブランシュは怪訝そうに見つめた。


 そんなブランシュを見て、召使は小さく笑い声を漏らした。


「いえ。大したことではございません。調査員は黒い外套を纏っていますよね。なので、調査員と白、というのはどうも結びつかないのです」


 外套。電流のように、その言葉がブランシュの頭を駆け巡った。

 先程までとは違う震えが、全身を襲う。


 その震えに身を任せながら、ブランシュは言った。


「……白い外套の調査員を、見たことがあるかしら」


 召使はゆっくりと首を横に振る。


 その反応を見たブランシュは、声を上げて笑った。

 そして、青い羽根があしらわれたペンを手に取り、召使に告げた。


「今すぐ、あの子を読んでちょうだい。すぐに手紙を書くわ」


 黄金色をぎらりと光らせながら、暗号を紙に浮かび上がらせていく。


『来なさい』


 そうとだけ書かれた、短い手紙。それを、召使はじっと見つめていた。


「奥様……これは……」


 ブランシュ・ヴァーボラ。彼女は酷く慎重な女だった。この手紙での通達も、渡す時間、書く内容、時期など、全てを選び抜いて行う。


 しかし、今はどうだろうか。慎重さの欠片も無い計画と行動で、彼女は1人の命を奪おうとしている。


 その事実が、召使は不安でならなかった。

 彼女の不安を感じとったのか、ブランシュは笑みを浮かべたまま言う。


「白い光─── その正体が分かったのよ」


 ブランシュの瞳が、ぎらりと光る。

 その瞳を見て、召使は声にならない悲鳴を漏らした。


 その目は、彼女の異名に恥じぬ、捕食者のそれだ。

 蛇の瞳に睨まれた召使は、しばらく声も発することなくその場で立ち尽くしていた。


「白い外套を纏う調査員は存在する。この街にたった1人だけ」


 その次の言葉を紡ぐため、彼女の唇が動く。

 召使にはその動作が、時間が止まったかのように遅く見えた。


「調査員総隊長。白い外套は、その地位の証よ」


「総隊長……!?」


 それは、調査員で唯一、国の重要人物と同じ地位を持つ者だった。

 国家機密の共有。それを条件に、貴族たちの安全を確保する。総隊長という役目は、貴族たちの行く末を背負うものでもあるのだ。


「まさか……あの男がそれほど優秀とはね」


「会ったことが、おありなのですか?」


 ブランシュは懐かしむように目を細める。

 数年前の会議に、その男はいた。


 あどけなさの残る顔立ちと、褐色の肌。

 美しい翡翠の瞳が印象深い彼は、とても明るく、真面目な男だった。

 調査員という、根元が腐りきった職に置いておくのはもったいない程に。


「ええ。彼は優秀よ。人の上に立つ才がある。

 でも────」


 嗚呼、命を握る人の顔は、こんなにも恐ろしいのかと、召使は実感した。


「彼は、少し知りすぎてしまったみたい。あれを失うのは少し惜しいけれど……」


 彼女の指が、首元のペンダントに触れた。水晶の飾りが光を反射してきらりと輝いている。


 彼女の指が触れるたび、大小の光が揺れる様は、水晶が解けていくようで。


「ここでお別れね。アイザック」


 白蛇の瞳が、血のような赤に染まった気がした。-









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