霧の中の男

天洲 町

プロローグ その一

 この手帳に彼女のことを綴ろうと思う。彼女の死から半年以上が経つが悲しみや怒りは鎮まることはない。むしろ胸の中に焦げ付くほどに激しくなっている。


 地獄の始まりはあの日、彼女の部屋を訪れた時だ。彼女にとっての始まりはそれよりさらに前になるのだろう。

 大学の同期だった僕らは四年生の春を迎えていた。五月に付き合い始めたから交際期間はちょうど二年くらいになる。僕は大学院の入試に向け本腰を入れ始める時期、対して彼女の方は早くに某有名企業への内定をもらっていた。

 社会人と学生では溝ができてしまうかもしれないなどと、ずいぶん先の未来に能天気な心配をしていたのが懐かしい。

 その頃の僕は授業を受ける時間がずいぶん少なくなっていたが、自習やら調べ物やらに便利な設備が揃っているため、よく登校していた。彼女も同じような生活だったようで、よく時間を合わせて学食に行き昼食を共にした。黄金色をした春の日差しに包まれた、暖かい日々が続いていた。

 彼女は僕がつい自分の研究したいと思っていた分野についての話に熱が入りすぎてしまうのを、向かいの席でいつも興味深そうに聞いてくれていた。そんな優しさに気付いて、僕は照れくさいような申し訳ないような気持ちになるのだった。

 黙っていると少々冷たい印象さえ与える切れ長の目と白い肌。一度も染めたことがないと言っていた黒く真っ直ぐな髪。そのことを話すと「一回くらいは染めたかったんだけどタイミングがね」と「初めては白髪染めになっちゃうかもね」と言うのがいつもの返事だった。そんな時に彼女が見せる、無邪気なくしゃりとした笑い顔が僕は大好きだった。本当にその場が少し輝いて見えた。彼女のためにも自分の将来を盤石なものにしなければ、と何度も考えた。

 そんな彼女と連絡が取れない日が続いた。たった数日だったのだがそれまで毎日のように一緒に過ごしていた僕は何か不穏なものを感じた。

 その日の作業をそこそこに切り上げて大学から歩いて十分ほどのところにある、彼女の住むアパートに向かった。雨が降り出しそうな黒い雲が太陽を覆い隠し、街は俯いたように暗かった。


 彼女の部屋の玄関のインターホンを鳴らしても反応がない。田舎にある大学ということもあって、彼女が出かける時は大抵自転車を使うのだが、その自転車も駐輪場に置いたままだったのを玄関に来る前に見つけていた。

 頭皮がぴりりと緊張する。何かあったに違いないといよいよ確信めいたものを得ていた。

 心臓が早鐘を打つ。ドアノブを掴んで捻ると鍵はかかっておらず、きいと静かに金属が擦れる音がして深緑色のドアが開いた。指先は痺れたようにこわばって、手の平には汗がじっとりと滲んでいた。入るよ、と中に声をかける。暗い室内から返事はなかった。数メートルの廊下を進み、ワンルームの部屋のドアを開く。

 この時目に映った光景を、僕は一生忘れないと思う。

 部屋の奥、ベッドのすぐそばにぐったりと座り込む彼女。ヘッドボードの柱に括り付けられたロープがピンと張って首につながっていた。

 頭の中でシンバルが鳴ったようだった。

 慌てて駆け寄る。異臭が鼻腔をくすぐったのに気がついたのは後になってからだった。

 彼女の名前を叫び、体をゆすった。それがいかに無駄な行為であるかを手に伝わる冷たさと重みが雄弁に語っていた。

 もつれそうになる足を振り回し、キッチンに向かう。何かを蹴飛ばしたようだったが僕の目にははいらなかった。急いでますシンクの下から包丁を取り出して彼女の元へ戻り、ロープに刃を当てた。そして必死で擦り付けた。

 ロープを編み上げている糸が千切れるごとに、彼女が咳き込み、息を吹き返す音が聞こえないかと祈った。何本も何本も千切れたが、自分の息がヒューヒューと喉から漏れる音が聞こえるばかりだった。ついにバチンと鳴ってロープが切れた時も、彼女は力なく座りこみ僕の方を見てくれることは決してなかった。わかりきっていたことだった。ようやく涙が溢れた。


 

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