第8話 ぼくのおうちは君なんだ


「ねえ、そんなに露骨に無視しなくても良くない?」


 

 ここ三日間、ずっとこの調子だ。きっかけは、些細な事だったに違いない。喧嘩なんて、そんなものだ。木のように黙りこくり、無視を決め込む裕美。明は深いため息をつく。裕美と話せない三日間は、とても淋しいものだった。二人暮らし+犬と猫で、まともに話せる対象は裕美だけなのだから。怒ったら、手がつけられない位罵詈雑言を言ってくるか、貝のように押し黙るのがセオリーの裕美のことだ。これは、長期戦になるだろう。



 もちろん、明は精一杯手を尽くした。ごめんねも“三十回”は言っただろうし、怒っている理由も、ずっと考えてみた。でも、明は裕美ではないし、裕美は明ではない。理由などてんで分からない。明は、器用なタイプではない。一つ悩みがあると、その事にかかりきりになってしまうのが悪い癖だ。おかげで、原稿の締め切りが差し迫っているにも関わらず、ろくに手がつけられていない。このままでは、裕美の機嫌が直る前に、職を失いそうだ。



「もう、これしかないかな…。」



 明は、時計をチラリと見る。もう少しで、調べた電車の時間がやって来てしまう。



 付き合う前の事を思い出す。元々、友達だった二人が付き合うに至るまで、色々な葛藤があった。よくあるあるな事で、“付き合ったら、友達も恋人も一気に失うから”。理由はそんな所だった。それでも、明の葛藤は、1ヶ月で幕を閉じた。明は、例え今までの関係性から“大きく変わる”としても、長い付き合いの裕美の、“自分が知らない部分”を知りたかった。そして、その“片鱗”は、徐々に現れていた。



 裕美は、明を、“キモいうざい、無理、男として良い所が一つもない”と罵る癖に、“キスを出来る”と言ったり、“セックスしたら帰るのね?”などと、誘惑したり、“同じ名字にならない?”と囁いてきたりした。やっている事が、支離滅裂だった。様々な人に、“遊ばれている”と揶揄されたが、明は一度もそうは思わなかった。裕美が、遊び人など出来るような人間ではない事は明らかだ。苦しんで、もがいている事は、聞かなくても分かっていた。




 そしてどこかで、裕美が明を“意識”して見るようになった事を確信していた。不安な気持ちが全くなかった、と言えば、嘘になる。だが一方で、明は信じていたし、決めていた。




“裕美と結ばれた時、それからずっと、僕達は、今までに感じた事のない位、確固たる絆を得る事が出来る。それによって、心からの安らぎを得られる。”




 そう自分に言い聞かせ、度々、裕美に一年連絡を無視されたり、時にブロックをされても、明は自分の“信じた道”を軸に、自身と裕美を信じ続けていた。そうした事で、明は一つ発見した事がある。それは喧嘩をした時、明から謝り倒してどうにかするより、裕美をほっといて、裕美が落ち着いたタイミングで近付いてくるまで待つ方が、“穏やかに”仲直りが出来る、ということだ。今回も、それが良いかもしれない。




 明は、ゆっくりと椅子を引き、席を立つ。身動き一つしない妻の背中に声をかけた。




「ごめん、何回も考えてみたけど、裕美の怒っている理由が、僕には分からなかった。言い合いになるのは、お互い仕事に支障が出ると思う。少し頭を冷やしたいから、しばらく実家に帰るね。」



そう告げると、明は、愛猫に声をかける。



「タマ、おいで。」



「んにゃ~。」



 こちらの気も知らず、のんびり返事をして現れたタマを捕まえると、猫用のキャリーバックに押し込む。タマは、明が独身時代に飼い始めた猫だ。明が二十歳の時からずっと一緒で、十歳を越えている。明と離れた事がないタマを、例え数日でも、“置いてきぼり”にする訳にはいかなかった。なぜなら、実家に住んでいる頃から、タマは明にだけ“べったり”だからだ。母に挨拶位はしに行くが、父には近付きもしない。明がアルバイトに行って帰ってくると、喚きながら駆け寄ってすりすりしてくる位に、タマは明に“ぞっこん”なのだ。タマだけ置いて行ったならば、淋しがって死んでしまうかもしれない。そんな理由だった。




「…何で、タマも連れていく訳?」



「わ、びっくりした!!」




 唐突に、三日ぶりに声を発した妻が、いつの間にか、真後ろに静かに立ちつくしている。まるで忍びのように、足音一つ立てずに。




「え、だって。タマは、僕の猫だよ…?タマ、僕がいないと、淋しがってストレスになるかもしれないし。」



妻の声が三日ぶりに聞けた嬉しさで、ニコニコしながら返した夫に対して、妻の表情はピクリとも動かず、欠片も読めなかった。さすが、元“鉄の仮面”の女、ポーカーフェイスもお手の物のようだ。



「いや、タマは私の猫でもあるから。置いていけよ。」




“置いていけ”という、謎の圧力のこもった言葉に、明は首を傾げた。裕美は、“動物好き”ではあるが、明のように“溺愛”するタイプではない。毎日タマにキスをしたり、抱き締める明とは対照的に、タマを眺めているだけで、たまに触る位の裕美が、“タマと離れたくない”などと、思っているようには、微塵も感じられない。



「えー…タマ、本当に元気がなくなって、ご飯食べられなくなっちゃうかもしれないよ…?僕が二日間帰らなかった時、夜鳴きが凄かったってママが言ってたし。」




「…あんたの“都合”で、タマを振り回さないで。タマは高齢なんだから、連れ回した方が可哀想。それに見なよ、チャロのこの顔。」



 裕美が指差した先には、裕美の足の間から、飛び出した大きな目玉をジロジロと動かしているチワワのチャロの姿があった。何かしらのただならぬ“家の異変”を察知したように、鼻をヒクヒクさせている。




「タマがいなくなったら、チャロが元気をなくすでしょ。二人を引き離すなんて、可哀想。」



静かにそう呟くと、裕美はチャロを抱き上げる。裕美に抱かれたチャロは、それはそれは嬉しそうに尻尾を振って、裕美の頬を舐め回している。明の目には、裕美の“寵愛”を今まさに、“独占”したチャロが大満足をしているように見える。そんな彼が、タマの“不在”を淋しがるとは、到底想像すら出来なかった。




「…とにかく、タマは置いていけ。早く行きなよ、電車が来るんでしょ。」




 迷っている明の手から、タマごとキャリーバックを奪い去ると、裕美は明を家から追い出した。明の背後で、バタンと扉が勢いよく閉まり、素早く鍵が閉められる。まるで、裕美の“心の扉”のように。




(…行っちゃった。)



 明の去っていく靴音を聞きながら、裕美は一人深いため息をつく。本当は、喧嘩のきっかけの事なんて、もうどうでも良かった。ただ、仕事で神経がすり減っていて、頭が一杯だっただけだ。いつもは許せる事が、許せなかった。それだけだったのだ。もう、こういう事は繰り返したくない。そう思っても、気がつけば、“爆発”してしまう不器用な自分がいる。“ガス抜き”のために、明に甘えれば良かったのかもしれない。けれども、最近、夫の仕事が乗りに乗っていて、忙しそうな様子を見たら、邪魔をしたくなくて、つい“我慢”をしてしまった。その結果が、“これ”だ。



「んにゃあ。」



手の中のキャリーバックから、タマの“早く出せ”と言わんばかりの“抗議の声”が聞こえる。出してやると、ゆっくり伸びをしたタマは、あくびをしてから裕美を一瞥すると、トコトコとソファーに帰っていく。




(…私も、私の“都合”をタマに押し付けただけだ。)



 そのつれない猫の様子を眺めながら、ぼんやりと裕美は思った。考え事をしている裕美の足元を、“ぼくを見て”と言わんばかりに、キャンキャン吠えて駆け回っているチャロは、タマの方には見向きもしない。彼らは、“喧嘩”もしないが、“マブダチ”な訳でもないのだ。おそらくチャロは、タマが数日いなくても、裕美が家にいれば、特に気にも止めなかっただろう。そんな事は初めから分かっていた。




「僕にとっては、タマは“子供”みたいなものだから。僕が結婚する時の“婿入り道具”は、タマなんだ。僕には、新しい“家族”の元に持っていけるのは、それだけ。だから、タマを受け入れてくれる人としか、結婚しない。」




 友達の頃から、明はいつもそんな事を言っていた。十年という長い年月を、元カノへの“未練”で苦しんだ明にとって、タマは“戦友”であり、“心の支え”だったのだ。明が泣く時、いつもタマはそばにいて、それは人間の誰よりも近かった。タマだけが、常に飼い主の“繊細な心の機微”を知っている。タマは、ノルウェージャンフォレストキャットという、長毛種の猫で、とても気が優しい。人間を意図的に傷つけるために、引っ掻いた事など、一度もない。解放して欲しい時は、んにゃんにゃと文句を呟く、人間のような猫だ。




 明のタマへの“溺愛ぶり”を日常的に見ていると、裕美はなぜか少し和む。クールな裕美には珍しく、明がタマに“赤ちゃん言葉”を使えば、自分もふざけて便乗する程に。裕美から見て、“明がタマを愛している時間”は、普段気を張っている“肩の力”が、フッと抜けるような瞬間だ。





 だからこそ、明との結婚を考えた時に、一番に、“タマと一緒に暮らせる場所”を探した。裕美の仕事がしやすい場所にあって、タマが快適に暮らせそうな、この“ペット可なマンション”を見つけてきたのは裕美だ。そして、時が少し流れ、チワワのチャロも加わり、今の“家族の形”が完成した。




 裕美にとって、タマは、明との“愛の証”であったし、“家族の始まり”を創った“特別な猫”だ。だからこそ、明が“些細な喧嘩”にも関わらず、タマを“家の外”に連れ出して“タマごと”出ていこうとした事実は、裕美の“不安”を少なからず煽った。



 冷静に考えれば、明が妻に“愛想”を尽かした訳ではない事など、とうに理解している。きっと、三日間も口を利いてもらえないのは、しんどい事なのだろう。プライドが高い裕美は、こうした“痴話喧嘩”で、謝り倒した事など、一度もない。謝り続ける明には“慣れっこ”だったし、自分の機嫌が直るまでほっとく気ではいた。けれども、今までの恋愛を経た裕美は分かっている。明のように、精神的に“忍耐強い”上にプライドの“ない”男はなかなかいない。大体の男達は、謝り続ける事など諦めたし、裕美が機嫌を直して戻ってくる頃には、音信不通になる者も少なくなかった。



 男の大部分は、女に“癒し”や“可愛いげ”を求める。そうした男達にとって、裕美のような“プライドエベレスト”な女性は、精神的に“キツイ”のだろう。“去る者追わず、来る者拒まず”の誇り高い裕美は、去っていく男を振り向きもせず、決して追わなかった。他方で、こうも思った。



(男なんて、所詮、こんなもん。男なんて、いつか私を裏切るのだから、“彼氏”よりも“友達”だわ。)



 もうこれ以上、男を信じる事など、怖かった。裕美はそう言い聞かせつつも、“どこまでも自分を受け入れて愛してくれる夫”を求め続ける“本音の自分”を見ない振りをし、“友達”に固執した。しかし、友人が、一人、また一人と、“幸せな恋愛結婚”をしていくと、どうしようもない“孤独感”にも苛まれた。誰もが、自分を“置いてきぼり”にするようで、“孤独感”に“窒息”しそうだった。





 そんな中で、何回“張り倒し”ても、“拒絶”しても、アプローチを諦めないどころか、裕美への“愛に燃え滾っている”明の存在は、裕美にはとても不思議で、稀有な“男”だった。明を見る目が、“友人”から、“男”に変わった時、裕美は怖くて怖くて仕方がなかった。いつか、明までもが、自分から背を向けたら…?今度こそ、何も信じられない気がしたからだ。それでも、徐々に、裕美の中で、“明を信じてみたい”気持ちが生まれる。





「…あのさ、私、明の事が、すき、だと、思う。」



 数回の音信不通を経て、明の不在を味わう事で、裕美は明の“大切さ”が身に染みて分かった。もう、“離れたくない”。そう自分自身で認めた時、ようやく、裕美は“明を愛している”事を確信した。それは奇しくも、明が初めて、罵詈雑言になった裕美に、“謝り倒す”のではなくて、“怒った”喧嘩から始まった“音信不通明け”の事だ。自分から言いたい事を言って、返信が来る前にした“身勝手なブロック”だった。自分でも分かっていたから、もう連絡をする気はなかった。連絡を拒否したのは、裕美だ。それなのに、“淋しさ”や“孤独感”に苛まれたのは、裕美の方だった。




 久しぶりに会った明は、“いつも通り”だった。いや、正確に言えば、“昔の友人の頃のようないつも通り”だ。“裕美が好きだ”、と熱く口説いてきた姿が、まるで嘘のような明の様子は、裕美をひどく不安にさせる。



(口説いてくるのが、キモい、うざい。)



そう冷たく拒否したのも、裕美のはずだった。自分の“身勝手さ”を痛感していたはずなのに、アルバイト先の他の女の子達の話を、楽しそうに語る明が、もうどこかへ行ってしまう“旅人”のように感じられた。いつの間にか、口をついて出たように、裕美の“本心の告白”がこぼれ落ちる。それはとても“不器用”で、お世辞にも“可愛い”とは言えないものだった。震える声で振り絞った台詞は、低く、掠れて聞こえたし、答えが怖くて、裕美は明の顔が見られない。数秒が、何時間にも錯覚される。



(もう遅い、と言われたら、立ち直れない。)



 そんな風に、最悪の想像を膨らませていると、やっと明が、静かに口を開いた。




「それは、“異性”としてって、意味も含まれてる?」



探るような目だ。疑うのも無理はない。何せ前回、裕美は、酔っ払った時に、“同じ苗字にならない?”などと明にぬか喜びをさせた。その数日後、“口説いてくるのが、キモいうざい。”などと言い放ち、明を“天国”から、“地獄”に突き落としたのだ。裕美は、うつむいていた顔を上げる。明の真剣な目とぶつかった。“もう、嘘は言わないで欲しい。”そんな懇願する言葉が、聞こえてくるようだ。そして、裕美にはもう、“明と生きていく決心”が出来ていた。“明のいない世界を生きていくのは、嫌”。そんな結論は、既に出ている。拳を硬く握りしめ、裕美は口火を切る。



「そう。」



呟くように認めるが否や、裕美の手に、温かいものが触れた。




「ずっと、待ってた。」



そう泣きそうな顔で、裕美の手を握りしめて、嬉しそうにはにかんで、明が言った。そこには、裕美を責めるような態度は、一切なかった。その時、裕美は、自身が明に“甘えていた”事を認める。一年半以上も冷たくした裕美に、文句一つ言わない明の“忠犬ぶり”は、裕美が今までに味わった事のない、“忍耐強い深さを帯びた愛”だった。だからこそ、裕美は明を心の底から、“信頼”出来たのだ。そして明は、裕美にあの日、こうも言った。



「“ぼくのおうちは君なんだ”。離れてて、よく分かった。住んでる実家にいても、アルバイト先で仕事をしてても、筋トレしてても、小説を書いたり、ゲームをしてても、どこかでずっと、“ここじゃない”って淋しく思ってた。だけど、今日初めてやっと、裕美の本心が聞けたら、“ここがおうちだ”って思えた。“裕美がぼくの、おうち”なんだ。」




今にも泣き出しそうな顔で、目を潤ませた明にそう言われた時、裕美の頑なだった心は、その素直な言葉に呼応し、ゆっくりと雪解けを迎えた。




「…私も。ねえ、本当に淋しかったんだよ…?分かってる?」



泣くまいと顔を背けながら、咎めるように明に詰問する裕美は、きっと、いつものように“あまのじゃく”だった。けれども、明はニコニコしながら、嬉しそうに無邪気に頷く。




「うん!これからは、ずーっと一緒だね!」





(ずーっと一緒って言った癖に。自分が先に“おうち”から出てくって、どういう事…?)




“輝かしい過去の暖かな記憶”は、今の“冷戦状態”を思い起こさせるように、その温度差を知らしめて通り過ぎて行く。思い出したら余計に、腸が煮えくり返りそうだ。裕美は、深いため息をつくと、席を立つ。




(私も、実家に夕飯を食べに行こう。)




 そう決めた裕美は、チャロを膝の上から速やかに下ろすと、そそくさと荷物をまとめ始める。急に気が変わった飼い主の手のひら返しに、泡を食った様子で慌てふためくチワワを尻目に、早々と家を出た。



「裕美、いっぱいご飯食べて。裕美が帰ってきて、ママ嬉しい。」



 


 最初から、こうすれば良かったのだ。ご満悦の裕美は、張り切った母の料理に舌鼓を打ちながら、思った。先ほどまで、夫の事でいっぱいだった頭は、今は目の前のご馳走にかかりきりだ。たまには、実家に帰るのも悪くない。心から、そう思った。娘が突然やって来て、無言で食べ物を貪っている様子に違和感を覚えたのだろう。




「裕美、明君は?」



母は、豚骨スープを鍋から掬いながら、さりげなく聞いてくる。やはり、この話題は避けては通れない。しかし、裕美は、今回の喧嘩が“下らない内容”である事をよく理解していた。だからこそ、母にその内容について語りたくなかったのだ。更に言えば、こんな事で母の夫に対する“心証”が下がるのも避けたい。




「仕事で忙しい。」




言葉少なにこう返す。母はそんな娘を、じろじろと疑い深そうに眺めている。この理由は無理があったかな…と裕美も思った。明は、誰の目から見ても、呑気でおおらかな人間に見える事だろう。つまり、男性にありがちな、“仕事人間”の空気がまるでないのだ。もちろん、仕事は真面目にやっているけれど、“仕事”か“家庭”かと問われたら、真っ先に“家庭”を選ぶようなタイプだ。裕美が母を何て言いくるめるか悩んでいる様子は、大いに誤解を招いたようである。



「裕美。」



母は身を乗り出すと、静かに言った。




「嫌になったら、いつでも離婚していいよ。“裕美のおうちは、ここだから”ね。」




 それは、母が今までの人生で幾度となく、裕美に伝えてきた言葉だった。その言葉に支えられてきたからこそ、裕美は、過去に何度も思った。




(別に、“好きでもない男”と結婚したって、嫌になったらすぐ離婚して“捨てて”やればいい。ママだって、シングルマザーで私を育ててくれたんだし、大丈夫。元々、“ママに孫の顔を見せる為”に、結婚しなきゃって思っただけだし。子供が生まれていたって、ママと二人で育てていけるし、ママも喜んでくれる。)




男性など、鼻から信用出来なかった裕美が、結婚を求めた理由は、最初は“母の為”だった。だからこそ、“歴戦の婚活”をしてみたりしたのだ。母の言葉は、過去の裕美を何度も救い上げた言葉のはずであった。




 しかし気付けば、いつの間にか、口をついて出てきたのはこんな言葉だった。




「うん、心配してくれてありがとう、ママ。だけど、明は嫌になるような人じゃないし、私は今の生活が“気に入ってる”から、大丈夫。でも、今日みたいに、急に帰りたくなったら、ママの所に帰らせてね。」




意図せず出てきたその言葉に、裕美は自分でも少し驚いた。例え“冷戦状態”であっても、明との今の生活が、嫌になった訳ではない。ただ少し、心が“スレ違い”になった事が、淋しかったのだ。その隙間が淋しくて、母の待つ実家で、少し“休みたかった”だけだった。




「なら、良い。結婚してたら、色々あるもんね。」



裕美の落ち着き払った様子に一人納得した母は、また鍋の方に向き直ると、こんな事を言った。




「明君が迎えに来たら、ママがさっきスープ作るのに煮込んだ“豚骨の塊”、あげるから二人で食べたら?お肉ぎっしり付いてるよ。うちのシュンにもさっき欠片をあげたら、とっても喜んでる。」




「…え?」





 裕美は、母が指差した“台所のまな板の上に鎮座するブツ”を見た時、開いた口がふさがらなかった。事も無げに告げた母の言葉に反して、“それ”が余りにも巨大過ぎたからだ。今日の母の豚骨スープが、格別に染み渡るほど美味しかったのは、“裕美の気分”のせいだけではないようだ。



 昼過ぎに連絡をよこした裕美が到着するまでに、母がウキウキと、“子豚まるごと一匹分のサイズの肉”をじっくり煮込んでいたから、美味しかったに“間違いない”。呆気に取られた裕美が、ふと床を見れば、母の愛犬のシュンが、“子豚の足らしき骨付き肉”を無我夢中でかじっている。その毛並みは、光沢がある程ツヤツヤとしていて、それらの要因全てに、料理上手な母の“凝り性”が関与している事は、もはや疑う余地もなかった。




「あ、ありがとう…ママ。明も喜ぶと思う…。」




若干、母の“肉への情熱”に引きながらも、裕美はふと思った。




(明、実家でちゃんとくつろげてるのかな…?ご飯食べれたかな…?杞憂なら良いんだけど…。)





その裕美の予感は、ご多分に漏れず、的中する事となる。





「…ふざけんなよ…嘘だろ…。」




 ちょうどその頃、明はただ一人、実家の前の大きな公園でくしゃみをしていた。寒風が吹き荒れる中、薄着で出かけた事が悔やまれる。





 明は、一番大事な事を失念していた。それは、母冴子が、“本当に自己中でマイペースな人間”であるという事だ。母は、明が十八才になった時、急に“教育ママゴンの情熱”を失った。そして、こう宣言したのである。



「あたしさー、あんたをここまで“育ててやった”んだから、これからは自分の為に生きるわ。だから、これからは全部自分でやりな。」



 唐突に言い放つと、母は一切の家事をやらなくなった。当然と言えば当然である。十八才にもなって、勉強ばかりしてきた明は、家事すら何一つ出来なかった。母が手を放したおかげで、料理や洗濯などの家事が出来るようになった。その事には感謝している。何せ、息子に甘い母は多い。息子に何でもしてあげる母親が多いから、家事が出来ない男が多いと唱える本すら、存在する位なのだから。



 実家暮らしが長くても、明にとって、成人してからの生活は、母というより、“同居人”とルームシェアをしている感覚であった。お互い干渉をしないし、性同一性障害の明が、戸籍を変更する事を決めた時も、母はもう“親としての期待”を押し付ける事はなかった。




「あんたの人生だから。好きにしな。」




今まで一人っ子で母と“べったり”で育ってきた明にとって、良い大学に行けと、三才から英才教育を押し付けたり、心が男性である事を否定した事もあった母の“子離れ”は、喜ばしい物であった。“そこまで”は本当に良かったのだ。



 一方で、母は“ギブアンドテイク”どころか、“ギブ”のみを要求するようになる。母は明の為に“絶対に”買い物をしないし、料理もしない。ところが、明が作ったカレーをちゃっかり鍋の“半分以上”も食べたり、買い物(費用は全て明持ち)を言い付けてくるのだ。文句を言えば、したり顔で、こんな事も言う。




「あんた、この家は、あたしを“中心”にして回っているんだからね。あたしを大事にすればする程、“良い事”が起こるよ。逆にね、あたしを粗末にしたら、あんたに“悪い事”が降りかかるよ?裕美ちゃんから、一年ぶりに連絡が来たのも、きっと“あたしのおかげ”だからね。」




当時、裕美から一年もシカトをされ、意気消沈していた所に、連絡が来て喜んでいた明は、このいつもの母の“口八丁手八丁”を大いに真に受けた。腰をひん曲げて、母の為に、夜中に糖質オフのチョコレートや花を買いに行き、母の要求を満たしたのである。なまじ、母冴子に、“とてつもない霊感”が備わっていた事が、すっかり災いした。



 

 こうして明は、裕美と結婚するまで、母にとことん尽くしてきたのである。“元が取れたかどうか”は、甚だ疑わしい。裕美と結婚出来たのが“自称招き猫である母が招いた福”のおかげであるならば、“取れた”と言っても“過言ではない”だろう。




 さて、話は、今の明の状況に戻る。母冴子が、“個性的な人物”である事は、先に話した通りだ。冴子は、基本的に、ネットサーフィンを毎日している“引きこもり”である。美魔女を目指し、筋トレで鍛えあげたその体は、五十代後半に差し掛かっているにも関わらず、腹筋が六つに割れている。彼女が引きこもりなのは、紫外線を敵視しているからだ。そのこだわりは異常とも言える程で、室内でも顔に、“歌舞伎役者の如く日焼け止めの白塗り”を施している。実家で過ごしている頃、明は幾度となく、真夜中に、ぼわんと浮かぶ母の“白塗り”を見ては、腰を抜かした。




「わあ!!おばけ!!」




そう叫ぶと、振り返った真っ白な顔は、見慣れた母の物、というのは“序の口”である。夜行性の冴子は、基本的に朝と昼は寝こけている。それだけでなく、一日中寝ている事もある。また、冴子が、電話に出る事は“ほぼない”。



 ここからが“本題”だ。明は無論、母に期待など“一欠片も”してなかった。メッセージを送った時点で、既読になる可能性がほぼないに“等しい”のも理解していたし、自分の母が、多くの息子を“溺愛し過ぎる”母親のように、息子が帰ってくる事に“歓喜”して、夕飯を殊勝に作って待っているはずなど、“絶対にない”事も分かりきっている。静かに仕事に集中出来て、安心する場所が、実家の自分の部屋以外に思い付かなかったのだ。母に連絡がつかない可能性は予期していたからこそ、“鍵”もちゃんと持って来ていた。




 だが…“チェーン”がかかっているかもしれない事は、“想像だにしていなかった”のだ。いつの間にか、夕暮れに差し掛かっている。寒風に晒されて、三時間以上経っていた。母からの返事は、未だにない。“かじかんだ手”は、だんだん“感覚を失いつつ”ある。明は、ポケットに手を突っ込みながら、ぼんやりと考えた。




(…何で、僕、裕美が“口を利いてくれない”だけで、“おうち”から出ちゃったんだろう…?)





 明は、“裕美と会話が出来ない事”が、本当に哀しかった。実家で暮らしていた頃は、話し相手が猫の“タマだけ”であっても、気にも留めていなかった。それが“普通”だったからだ。気まぐれな母とは、時間帯が合った時位しか、顔を合わせなかったし、話さなかった。それも“普通”であったし、他人と合わせなくて良い生活も、気楽で好きだった。




 しかし、“裕美との新しい生活”は、明の価値観を“大きく”変えた。裕美は、明のように“おしゃべり”な人間ではない。どちらかと言えば、“無口な方”かもしれない。それでも、裕美と話すのは、どんな話題でも“胸が弾む”位、楽しい。明が割りと興味がない政治や、保険や法律の話でも、裕美と話せば、なぜか“好奇心”をくすぐられる。


 


 人がなぜ生きているのか、前世と言うものがあるなら、今生の生きるテーマは何なのだろう?そうした、根源的な哲学めいた話であっても、裕美は“深い冷静な観点”から、明と共にその問題について語る事が出来る。“その時間”は、小説家である明にとって、またとない千載一遇の、“能力開花を刺激する物”であり、“毎日の楽しみ”でもある。




 明はもうそれ程までに、裕美の魅力に“首ったけ”であった。裕美に恋をしてから、もう、優に数年以上経つ。よく、“恋が続くのは三年”などと揶揄される。裕美自身も、明の“渾身の告白”に対し、当初は“馬鹿”にしてこんな事を言っていた。




「そんなの、“ドーパミン”だから。三年で終わるやつだし、“気のせい”だから。」




これが“ドーパミン”だとしたら、三年の倍以上は経っているし、“効き目”が有りすぎだ。その上、最初の頃より、“愛”は“深まる”ばかりで、“底無し沼”と化している。“彼氏”から“夫”になっても、明の“ドーパミン”は、“留まる”事を“知らない”。“前進あるのみ”なのだ。




 それだけに、裕美が目の前にいるのにも関わらず、“言葉を交わすことすら出来ない”のは、“耐え難い苦痛”だった。悲しくて悲しくて、仕事どころではなかった。今執筆中の作品は、“コメディ”のはずなのに、湧き出てくる言葉はまるで、“織姫に見捨てられた彦星”が放ちそうな、“悲恋”にピッタリなものばかりだ。すっかり“機能停止”した脳ミソにさじを投げて、とりあえず仕事に“集中”しようと、田舎の実家に帰省してみたって、家の中に“すら”入れないし、裕美の事が頭から離れない。




「だめだ、こりゃ…。」




そうため息をついた矢先、スマホが鳴る。“裕美”かもしれない。そんな“期待”を膨らませて、いそいそ電話に出た明は、数秒後にものの見事に、“現実”を突きつけられた。




「…なに?あんた、帰ってきたの…?あたしに何か用…?」




おそらく、寝起きなのだろう。しゃがれたダミ声の母冴子の、“不機嫌そうな様子”は、大歓迎には程遠い。所々掠れる声は、明らかに“口が臭そう”な事が、容易に想像出来る。明は母と“一年ぶり”に会話をしたにも関わらず、“光の速さ”で、帰省した事を“心から後悔”する自分に気が付いた。




「いや、何か、急に帰りたくなった…。」




そう濁しながらも、気は進まない。そんな息子の微妙な反応に“興味すら湧かない”冴子は、あくびをしながら見透かしたように、こうのたまった。




「なに?裕美ちゃんと“喧嘩”でもしたの?どっちでもいいけど。」




「え、なんで分かるの…?」



さすが、伊達に“霊感持ち”なだけはある。思わずギョッとした明の声に、母は“本当にどうでも良さそう”に続けた。




「別にあんたが帰ってこようが帰ってこまいが、あたしはどっちだって良いんだけどさあ、あんたはあたしに“何をしてくれる”訳??タダじゃ、泊めねえよ?」




「…え。」




思わず固まる明をよそに、母はこう続けた。




「わりいけど、うち食うもん“何もない”からー。嘘じゃねえよ??今週、親父が帰って来てないから。冷蔵庫に、卵と納豆しかない。だからさー、そこのコンビニで、豆腐と糖質オフのチョコレートと、プレーンヨーグルトと麻婆豆腐の素を買ってきて。あ、後ー、ファミレスで豚カツ弁当も買ってきて。山盛りポテトも付けてね。」




 要求を言いたいだけ、矢継ぎ早にまくし立てると、電話を切る母。その勢いに気圧された明は、ノロノロとコンビニとファミレスの方向に向かって歩き出す。…考えてみれば、母からの電話が来るまで、コンビニかファミレスで暖を取っていても良かったのだ。そんな事にも気付けない程、明は疲れはてていた。親父(明の父親)がいない実家に帰れば、その代わりに母にこき使われる事は、“明白”である。その事実に薄々勘づきながらも、“頭の働かない”明は、母への宿賃を納めに買い物に行った。





「ありがと。じゃ、あたしは飯を食うから、好きにすれば?てかさー、これはあたしの“心からの優しさ”で言うけど、あんた、帰った方が良いと思うよ?」 




“貰うもんをもらって”気が済んだ母は、次はこんな事を言い出した。“嫌な予感”が頭をよぎりながら、明は恐る恐る聞いてみた。





「…なんで…?」





「おめーの寝る所、“ない”から。」




おめーの席ねーよ!と囃し立てるいじめっこのように、至極最もらしく、母は告げた。やはり、“ロクでもない事態”になっている…。明は慌てて、“自分の部屋だったはず”の子供部屋のドアを開けた。




「なにこれ…。」




部屋の中は、惨澹たる状況だった。動物の糞尿が、ベッドに所々付いている。自分が住んでいた頃も、綺麗とは言えなかった部屋が、もはや“異臭を放つ汚部屋”と化していた…。裕美との“真人間の生活”に慣れきってしまった明にとって、もうこの部屋では、“息をする”のすら“耐え難い”。思わず、“貰いゲロ”をしそうな明をよそに、母はしれっとした顔で、こんな事を言い放つ。



「親父がさー、“お猿のあーちゃんと一緒”に、あんたのベッドで寝てるんだよね。で、あーちゃんが、ペタペタ手で“うんちをベッドに”付けちゃった。ヤバくね?マジくせーよ。」




明の実家では、リスザルやオウムや犬を飼っている。奇妙な珍動物を溺愛する両親の感覚には当時から“付いていけなかった”が、まさか、これほどまでのレベルだったとは…。“汚物まみれのベッド”に、落胆を飛び越えて絶望する息子を尻目に、母は飄々としていて、まるで“他人事”であった。




(…もう、この実家は“ダメ”だ…色んな意味で、“終わってる…”。)




明の脳ミソはやっと、正常な反応を取り戻しつつある。“危険信号”が、点滅し出した。一刻も早く、この“豚小屋のような汚屋敷”を立ち去った方が良い。そして、明の背中を後押しするように、“飯を貰って気が緩んだ”母もこう続ける。




「あんた、裕美ちゃんと“清潔な良い部屋”で暮らしてんでしょ?何で喧嘩したか知らねーけど、喧嘩してたっていーじゃん。裕美ちゃんの機嫌が直るまで、気分良く自分の事に集中してれば、どうでも良くね?第一、ここじゃ、“息出来ねーよ”??」





「…確かに…。」




部屋の悪臭に“げっそり”としながら、明は頷く。本当に“息が出来ない”。裕美が口を利いてくれない事が、“ささやかな不幸”にすら感じる。裕美が口を利いてくれないのは、本当に“悲しい”。でも、裕美との生活空間には、いつも“裕美のいい匂い”が漂っていて、それだけでひどく“癒される”のだ。“ゲロ”を吐きそうな悪臭で一日中悩まされる方が、よっぽど色んな意味で哀しく、不幸な事である。





「…帰る、ありがとう。」




言葉少なにそう告げると、母はポテトを齧りながら、もうパソコンを眺めている。




「うん、その方がいいんじゃね?」




気軽な生返事からは、“この件に関して、早々に興味を失った”のが伺える。息子に関心のない母に背を向けて、明は実家を出た。






「…ただいま。」





 数時間後、帰った家に裕美の姿はない。がらんとした部屋の真ん中で、チャロがふてくされたように丸くなっている。タマは、明の姿を見ると、のんびりと伸びをして、近付いてきた。




「…お姉ちゃんは?どこ行った?」



「にゃあん。」



“裕美の行方”を尋ねる明に、タマはまるで、行き先を理解しているように返事をする。チャロの方は、鼻から息を勢いよく抜くと、身動ぎをした。まだ、いじけているようだった。二人の様子を眺めた明は、なんとなく、裕美の行き先が分かった気がした。




(実家かな…。お迎えに行きたいな。会ってくれるかな…。)



今朝の、“無言の裕美”が頭を掠める。それでも、“実家の冷遇”に比べれば、明にとってはもう大した事ではなかった。思案した明は、閃いた。“萎えた”記念に撮った、猿の足跡だらけの“うんちまみれなベッド”の画像。そして、“いじけているチャロ”の姿を写真に撮って、添付する。こんな文章を添えて。




「お迎えに行きたいです。僕が勝手に飛び出したのに、我が儘を言ってごめんなさい。僕が帰るおうちなんて、もう、裕美ちゃんがいるおうち以外にどこもありません。母親にも、食べ物を要求されただけで、迷惑がられました。僕の部屋だったはずの場所は、“猿の部屋”になっていました。僕は今、チャロと同じ気分です。お迎えに行っても良いですか?」





 同じ頃。夜も更けてきて、目の前の母があくびを繰り返し始めた。裕美が一人暮らしを始めてから、“マイペース”に拍車がかかった母はもう眠いようだ。




「裕美、ママ、もう寝ちゃうから。泊まるなら、勝手に寝て。明君が迎えに来たら、勝手に帰ってね。」



「うん…。」



(どうしよ、チャロとタマがいるし、そろそろ帰ろうかな。明、お迎えには来ないだろうな…。しばらく帰って来ないのかな。もう、許してあげようかな…お迎えに来てくれたら、“水に流してあげても”良いのにな。なんか、怒ってた事も、“どうでも良くなっちゃった”。)




ボーッと、そんな事を考えていた矢先に、スマホが鳴った。何の気なしにメッセージを開いた裕美は、明の“うちひしがれた不幸感漂う言葉と画像”を見て、思わず吹き出した。




(可哀想…。冴子さん、相変わらずだったんだな…。)




裕美は、姑の冴子が、温かく息子を迎える“はずがない”事も予見していた。だからこそ、明が実家に帰るのも、“黙って見送った”のだ。これが、“ムチュコタン大好きなウザイ甘やかしババア”が姑だったならば、実家に帰る事“すら”許せなかっただろう。そういう点に関して言えば、冴子は、裕美にとって“期待通りの理想の姑”と言える。朝、明の後ろ姿を見送りながら、裕美は心のどこかで“意地悪な確信”を持っていた。





(…実家に帰りたければ、帰れば…?最も、“私と違って”、あんたの“帰れる場所はない”と思うけど。)




 その“確信”が見事に当たり、妻の“溜飲”は大いに下がった。それどころか、少し“可哀想”にすら思えてくる。夫とは正反対に、実家の母に“大歓迎”を受けた妻の気持ちは、徐々に“優しさ”へ傾きつつあった。


 


 …それだけでなく、実を言えば、ちゃんと“反省”をしてその日の内に、“実家にお迎え”に来ようとする夫に“可愛いげ”を感じたのだ。些細な口論でも、お迎えに“すら”来ようとしない夫は、世の中に沢山いるだろう。妻の実家に“頭を下げに行く”なんて、“プライド”に障る。そう考える人もいるかもしれない。“プライドの高い”裕美は、今までの恋愛で、何回も“意地の張り合いによって拗れるパターン”を経験してきた。だからこそ、自分と同じように、“プライドが高い男”には、もううんざりしている。明の、“プライドの欠片すらない、素直なうちひしがれよう”は、むしろ好ましく感じられた。




「ママ、明、もう少ししたら“お迎え”に来るって。」



息を弾ませる娘の姿に、母は分かっていたように、再びあくびをしながら、頷いた。




「ああ、そう。良かったね。」





 数分後、玄関先に現れた夫は、“雨に濡れた捨て犬”のように、しょんぼりとしている。口を開くや否や、明は裕美が“止める暇もなく”、土下座をする勢いで、裕美と裕美の母に謝罪をした。




「裕美ちゃん、ごめんなさい。何回も注意されたのに、靴下を“三足”も“かたちんば”にして洗ってなくして、怒らせて、本当にごめん。次からは気をつけるから、許してください…。お義母さん、僕が裕美ちゃんを怒らせてしまったんです…こんな“痴話喧嘩”に巻き込んでしまって、本当にごめんなさい…でも、僕、どうしても裕美ちゃんと一緒に帰りたいんです…裕美ちゃんを連れて帰っても良いですか…?これは、“お詫びの品”です…。」



(…馬鹿、ママに“下らない喧嘩”をしたって、バレちゃったじゃん…せっかく誤魔化しておいてあげたのに…!しかも、私が怒った理由は、“それじゃない”…!)



 裕美の騒ぎだす心の声をよそに、母は、“さっきまで眠そうだった目”を少し開けて、最もらしく紙袋を受け取っている。中をチラリと覗くと、裕美の“実家がある駅前のケーキ屋”の物だった。…“手土産”を持って来たのは、“合格点だ”。“気が利いてる”と言える。だが、だからこそ、なぜ、“実家近くのケーキ屋”にしたか、その一点が、限りなく“惜しく”感じる。重ねて、裕美が“怒った理由”を誤解しているのも、裕美の神経を“逆撫で”した。もう、“我慢ならない”。“恥ずかしさ”も相まって、裕美は“自分自身の勢い”を止められなかった。




「馬鹿!違うから!靴下の事も“ムカついた”けど、怒った原因は違う!!私が怒ったのは、私の“お気に入り”のおしゃれ着と、汚い普段着を一緒に洗ってた事だから!!色が濃い服と一緒に洗ったら、色が変わる事があるんだよって、何回も言ったじゃん!それに、あれは“クリーニング”に出す予定だったの!“クリーニング”に出さなきゃいけない服もあるんだから、分からない時は、放置して触らないで!!服がダメになるでしょ!!あれ、“高かった”んだからね!」




「…ごめんなさい…。」




裕美の“怒濤の勢い”に押しに押され、明はすっかり、今にも泣き出しそうだ。結局、母の前で、“下らない痴話喧嘩”をしてしまった裕美は、“顔から火が出そうな気分”だった。もう、どうにでも、なれ。“やけくそ”だ。



暫しの無音の空気の中。




「…ぎゅるるるる…。」



か細い小さな“お腹の虫”が、“無言”になった三人の空間に、空しく響き渡る。明が恥ずかしそうに俯いた。どうやら、長い間、“何も食べていない”ようだ。その音に、“触発”されたのだろう。“他人にご馳走を振る舞うのが好き”な裕美の母は、眠気のあまり、“半目”になっていた目を今度は“しっかり”開けると、“覚醒”し始めた。




「…まあ、“お迎え”に来たんだし。裕美も、そんなに怒らないで。それより、ご飯を食べてないのは、“良くない”。ちゃんと食べないと。」




母は、“水を得た魚”のように、てきぱきと豚骨スープを温め、ご飯を“お茶碗一杯”によそい始める。あれよあれよと言う間に、二人前のご馳走が食卓に並ぶ。



「ええ、すごーい!美味しそう…!僕、こんなご馳走、久しぶりに見ました!!さすがお義母さん、お料理上手ですね…!!」



 


 よほど“ひもじい一日”を送っていたのだろう。明の目は、明らかに飢え渇いている。



「怒るのは、“食べ終わってから”。」



“満足そう”にそう締め括ろうとする母と、よだれを垂らしながら、裕美の視線を“気にして我慢している”夫。母の“マイペースさ”と、夫の“間の抜けた空気”に、裕美はすっかり、煙に巻かれてしまった。イライラしていた事すらも、もう“馬鹿らしくなる”。




「…うん、いっぱい食べな。私も、ケーキを食べようかな。」




「いただきます!」



“糖分で気を紛らわせる事にした”妻の許しが出た途端に、ご馳走にがっつく夫。そんな平和そうな二人を見て“安心”したのか、母は今度こそ、“大きなあくび”をして立ち上がった。




「じゃあ、ママは寝るから。食べたら、勝手に帰ってね。」



そう告げると、愛犬を抱き上げて、寝室に向かおうとする母。去り際に、娘にだけ聞こえるように、こんな事を囁いた。



「裕美の気持ち、ママはよく分かる。“おしゃれな洋服は大事”。男の人は、“気が利かない”から。でもま、“お迎え”に来たんだし、“反省”してるから、良いんじゃない?またいつでも、帰って来てね。」



「…ありがと。」



母の“味方”も得て、“ケーキの甘さ”も舌に染み渡った裕美は、今度こそ、“心の底から”満足した。





「裕美、本当にごめん。ちゃんと、会ってくれて、ありがとう。“僕のおうちは、君なんだ”。僕は、今日一日で、本当に本当に、それが身に染みた。もう、靴下をかたちんばにしない。おしゃれな服は、ちゃんと洗う前に、聞く。」



「ほんとーに、気をつけてよね。全く。」



 “ツンツン”しながら、そう返す裕美の手は、しっかり、明の手を握りしめていた。ごめんね、を繰り返す夫に、もう“怒り”は感じなかった。むしろ、満ち足りた気分で、“私も怒り過ぎたかも”なんて、“柄にもなく素直に”認められている自分がいる。不思議と、“ウキウキしている自分”を目の当たりにして、裕美はふと、理解した。



(あ、私、“自分の為にした自分が選んだ結婚”に、すごく“満足”してる。)



 それは、“信頼出来るのは、母だけ”だと思っていた頃の裕美には、感じられなかった“想い”だった。そう最初から、裕美には分かっていた。下らない喧嘩でも、明が、ちゃんと“お迎え”に来てくれる事。“裕美と一緒に帰る”為に、“裕美の面子”の為に、手土産まで用意して、なりふり構わず、母にしっかり“頭を下げてくれる”事。その上、母が、そんな夫の“頑張りを汲んで、帰してくれる”事。



 誰の為でもなく、“自分がしたい”から、この人と結婚した。それを、親も“認めてくれている”。その“事実”は、裕美が完全に、“親離れ”をした事を暗に示している。男性を信頼して裏切られるのが“怖い”から、母を“当てにして”、簡単に“離婚”しようと考える裕美は、既にどこにもいなかった。



裕美は、明の顔をチラリと眺める。




「僕、裕美が口を利いてくれるようになって、本当に嬉しい。やっぱり、おしゃべりするのって、楽しいね。ずっと、“仲良し”でいようね。」



ニコニコしながら、子供のように、はにかむ明。その表情は、“親友”の頃から、“恋人”の頃から、“夫”になった今でも、何ら変わらない。“不変の無条件の愛”と言える。普段なら、こんな事は言わないし、言うつもりもなかった。けれども、その“愛”を、“自分で”見つけて、“自分で”選んで、“物にした”事が“嬉しかった”から。わざと大きな声で、裕美は言った。




「“私のおうちも、君だよ”。」




 月明かりに照らされた夫の顔が、みるみる内に、“驚きと嬉しさ”で満たされる。満月が雲間からフッと顔を覗かせた、その“刹那”の出来事だった。






















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