第2話 私と君は不労所得

 「あー、浮かばないよ!“な・ん・に・も!浮かばない!」


納期二日前で喚いている明を尻目に、周防裕美はゆっくりと優雅にコーヒーを飲みながら、午前10時の遅い朝食を噛み締める。


(若い時、頑張って良かったなあ。)


そんな事をしみじみ思いながら、(最も、今も三十代だから若い範疇には一応いるのだが)会社を立ち上げた当初の、右も左も分からなかった十代や、精神を病みかけた二十代のツラい記憶が、ふと頭の片隅に思い起こされる。


 人間とは不思議な生き物で、心や胃袋が“幸せ”で満たされていればいる程、他人に優しくなれるものだ。いつもよりも、値段が高い酵母のパンをかじっていたからかもしれないし、高いブレンドのコーヒーを飲んでいたおかげもあるのだろう。


 頭をかきむしって、小説のアイディアに枯渇して苦しんでいる夫を不憫に思ったのもあった。


「ねー、そんなにあくせくして書かなくてもさー。前から思っていたんだけど、私の“不労所得”があるから、私と明は食いっぱぐれないよ。」


気がつけば、ポロリと、結婚してからずっと黙っていた真実を白日の元に晒してしまったのだ。


(…あ、つい気分が良くなって、墓場まで持って行こうとした秘密を漏らしてしまった…。)


 その門外不出の台詞を言い終わってから、裕美ははたとその事実に気が付いて、思わず愕然とした。頭の中を、様々な“自分の男をダメ人間にした瞬間”が駆け巡る。裕美は、資産家の自営業の家に産まれた。財産に関して、気を付けるようにという母の家訓は骨身にまで染み渡っている。それは父が、幼い裕美と母に借金を押し付けて、母の親友と不倫をした挙げ句、孕ませて駆け落ちした…という強烈なバックボーンがあったからだ。


(男という生き物は、いつ何時、私を裏切って財産を食い潰すかも分からない可能性を秘めている。)


 そんな恐怖概念は、裕美の中に自然と、まるで息を吸うように根付いてきた。裕美は、男性に対して、財産がある事を極めてひけらかさないようにしてきた。それは、平均的に“プライド”を大事にする傾向のある、“男性”という生物の自尊心を傷つけないためであったし、財産がある事に甘えて、目の前の男性が、あっという間に働かなくなり、浪費家のクズ男に成り下がるのを防ぐためでもあった。


(どうしよう…この人は何て答えるんだろう…。)



 返答が来るまでの数秒間は、裕美の心配性を盛んに掻き立てる。2ちゃんねるのとあるまとめスレをふと思い出す。その話では、裕美のように不動産を親から継いだ女性が、親が亡くなったのをきっかけに、財産について夫に明かしてしまう。すると夫は、妻の金を当てにし始め、仕事をしないばかりか、女遊びにまで手を出して家庭崩壊をするという話であった。そんな話はどこにでも転がっていたし、経営者をしている裕美にとって“金で人が変わる”という現実は、人間の性であり、仕方のない事であった。そして、そんな現実に直面する度に、裕美は思ってきた。


(ああ、ざんねん。この人もそうなんだ。)


そう斜に構えて、自分の心の中で独り言を呟けば、自然とその事実は緩やかに受け止められていく。 


(現実とは、夢より厳しいもの。)


常々、裕美はそう言い聞かせてきた。実際、一般常識として、それは疑いようがないではないか。


(さて、この男は、私に何と答えるのだろう。)


 かの名作アニメ、エヴァンゲリオンの碇ゲンドウの如く、テーブルに肘をつきながら、裕美は夫の出方を伺った。その姿勢は、理系女子である裕美にとって、敵側の想定したあらゆるパターンの攻撃を待ち構えた迎撃態勢に他ならない。しかしそのポーズは、いとも簡単に無駄骨に終わった。


「今は、そういう話をしているんじゃないの。裕美が僕の事を養ってくれているのは知っているし、ありがたいと思うよ。でも、僕が今求めているのは、アイディアなんだ。アイディアはお金じゃ買えないよ。」


 明は、まるで父親が小さな娘に、噛んで含めて言い聞かせるように、優しく答えた。裕美の杞憂で出来た砂の城は、あっという間に、明が流した水流によって崩れ去る。言い終わるが否や、明は、もうこの話は済んだと言わんばかりにペンをくるくると回しながら、ブツブツと独り言を言っている。しばらく呆気に取られた裕美は、開いた口を自分で塞ぎながら、少し考えた。


(この人、そもそも“不労所得”の意味を分かっているのかな…?)


 裕美は、明の初めての通帳を、銀行に作りに行く“付き添い”をした記憶を思い出す。おたおたしながら、100均の判子をどこに押せば良いのか分からず、まごついていた25才の明。その時代から数年しか経っていない事を鑑みれば、彼が“不労所得”を正しく認識しているかどうかは極めて怪しい。その上、明はついこの間までセブンイレブンでアルバイトをしていたし、辛うじて大学は出ているけれども、就職はしたことがない。そもそも考えてみれば、コロナで父の会社が倒産寸前になるまでは、裕福な私立の中高を出て、有名な私大に通っていた。そこそこの“ボンボン”育ちである、とも言えるだろう。そこまで考え終えた裕美は、こう結論を出した。


(なるほど。私の夫は、“世間知らず”過ぎて、“不労所得”の意味をお分かりではないんだわ。)


 納得がいった裕美は、少し冷めたコーヒーカップをぼんやりと覗く。細くなった小さな湯気を見ていると、先ほどまでの大きな不安は、いつの間にやらどこかに消え失せていた。どちらにせよ、“不労所得”がある、という事実はもう話してしまった。Googleで検索をすればその言葉の意味は分かってしまうし…何より、明の反応は“良い意味で”自分の期待に反していたのだから、私達には“お金”がある、というこの“安心感”を共有してあげよう。明の“斜めどころか、360度予想していなかった返答”と、いつもより“美味しいパンとコーヒー”は、裕美の心をすっかり“おおらかな気持ち”にさせていた。だからこそ、気を良くした裕美は、“心からの優しさ”を込めて、再度夫を呼びつけたのだ。


「ねえ、明、“不労所得”って言うのは、“働かなくても生きていける収入”って事だよ。意味を分かっている??」


「え?うん。裕美が、結婚前にお母さんと頑張って投資してた何かの収入でしょ?裕美が一生懸命頑張ってくれたおかげだね。素晴らしい事だと思うし、いつも感謝しているよ。それがどうかした…?」


 明は、キョトンとした表情で首を傾げる。その反応に、裕美は些か不服を覚えた。それはもちろん、予想よりも“嬉しい方の反応”ではあった。予想の中の“一般男性”のように、目の色を変えて“いくら位??”と詰問されたものならば、百年の愛も一瞬で冷める位の冷ややかな気持ちになった事だろう。しかし、もうちょっと位、“お金”に対してぬか喜びをする位の“敬意”を払っても良いではないか。そう思いつつも、裕美は自分という人間の中に、一抹の“理不尽さ”を感じる。なぜなら、もし明に、


(え、それって、働かなくても良いってこと!?やったー、じゃあ、一緒にのんびり出来るね!)


とでも、無邪気に言われたならば、その時ははしゃいで反応出来るかもしれない。だが、時間が経ってから、


(三十代で、あんな堕落した事を言う奴を旦那にしてしまって、私の人生は大丈夫なのだろうか…?)


などと、ありもしないマイナス思考に自分が苛まれる事は、容易に予測出来た。


(私って、本当に、“あまのじゃく”。)


 この何とも言えない自分のモヤモヤとした感情に、裕美はこう結論付ける。自分が“あまのじゃく”であると仮定してみると、その言葉は、かなりすんなりと納得がいった。


 気が済んだ裕美は、目の前で、未だに七転八倒しながらアイディアを捻りだそうとしている明を眺める。アイディアの女神に見放された夫は魚の死んだような目をしながら、猫のタマが、釣竿型の猫じゃらしオモチャにじゃれつくのをボンヤリ眺めていた。その光景を見ていると不思議と、裕美の中に、むくむくと夫への“好奇心”が浮かんでくる。


(私は、“お金に余裕のある生活”が欲しいから、働いてきた。“現実”とは得てしてそういうものだと思ってきたし、大体の人の“幸せ”の形はそう。実際に、私にとっての“幸せ”もそういうもの。じゃあ、この人にとって、“幸せ”って何だろう?)


 そう思いながらも裕美は、明にとっての“幸せ”が何なのか、本当は心のどこかで理解していた。気付かない内に、普段は入れないミルクを二杯目のコーヒーに投入している自分がいる。くるくると、ミルクとブラックコーヒーをスプーンで混ぜながら、裕美の心の中で、“女心”がまろやかな口当たりでブレンドされる。結婚して数年経っても、月に数度位、“甘い台詞”を囁いてくれたって罰は当たらないはずだ。“世間一般的な日本人男性”は、そうした言葉を恥ずかしいと言って伝えない人が多いと言われている。だがしかし、but。


(私の夫は、“世間知らず”かもしれないし、“ボンボン育ち”だけど、“私”を大切にする才能はピカイチだと信じている。そうした気持ちを“言葉”にして伝えてくれるから、私はこの人を選んだ。“心”も常に満たされているし、そのおかげで“仕事”へのモチベーションも上がる。だからこそ、彼の“幸せ”は、私の“幸せ”とつながっているはず。)


 裕美の期待で膨れ上がった“女心”は、明の愛への“信頼度”について、このように結論付けた。一杯目よりもだいぶ甘ったるくなったコーヒーに口を付けながら、裕美は先ほどの明の如く、母親が幼い息子に訊ねるように優しく聞いた。


「“私達”には、“不労所得”があるのに、何で明はそんなに働きたいの??」


「え、一体どうしたの?この間、僕がサボり過ぎて原稿の納期に間に合わなかったら、“夢を叶えたら、それまでなの?結婚する前の“裕美と小説への情熱”を忘れてしまったの??夢は続くよ?どこまでも。”みたいな事を言ってくれたのは、裕美じゃん。」


びっくりした顔で答える“空気の読めない”夫。その表情をジロリと見て、裕美は思った。


(確かに、この間お説教をした時にそんな事を言った気がする。でも、今欲しい“言葉”は、それじゃない。)


 裕美の夫への期待値が、ワンランク下がる。部屋の温度も、心なしか1度ほど下がったようだ。廊下で寝ていたチワワのチャロが寒そうに移動してくると、裕美の足にピッタリとくっついてちょこんと丸くなった。チャロの体温が、じんわりと裕美の足に伝わる。その暖かさに気を取り直した裕美は、“女心”を満たすべく、再度夫に突撃した。


「今は、そういう事を聞いているんじゃないの。“平均的な男性”は、妻に“資産”があると聞いたら、働かなくなる人だっているじゃん。“お金”って、幸せの象徴みたいなものでしょ。ぶっちゃけ言い方が悪いけれど、“明が書かなくても”、“私達”は食べていける位“お金”に困っていない。それなのに、何で書き続けるの?」


 こんな事をのたまいながら、裕美はハッとした。


(…しまった。一発目で“女心”をキャッチしてくれなかったから、ちょっとイライラして、いらない言葉尻を付けちゃった。プライドの高い、収入を気にするような男相手だったら、大喧嘩になるような事を言っちゃったかも…生理中って怖いわあ…。)


 もう言ってしまった言葉は取り返しが付かない。そう考えると、生理が終わりかけなのにも関わらず、心なしか腹部が傷んだ。


 “貴方が働かなくても生きていけるのに、何で働いているの?”だなんて、平均的な男性に言ったとしても、ふてくさられる案件だ。何せ、“働かなくても食べていける”としても、いざ当てにされ、豪遊されてだらけられたら、裕美の愛は氷点下にまで下がるだろう。かといって、“亭主の俺を馬鹿にしているのか!妻の分際で、女の癖に!”などと、昭和のちゃぶ台おじさんのように激昂されたり、“まあ…そうだよね、君の方が稼いでいるし…僕が働く意味って何だろうね…?”などと、男女平等に理解しているスタンスを取っているけれども、“旦那様”として扱って欲しい“男心”を抱えた令和男子の如くいじけられるのも、たまったものではなかった。そうした不特定多数の、“社会一般的な男性”との“歴戦の婚活”に疲れはてた裕美は、ある日ふと思った。


(私は恐らく、そうした“平均的な男性”を旦那にしたら、気を使い過ぎて家で“鼻歌”すら歌えないわ。)


 そう結論づけた裕美は、ある日、ゆっくりと視線を上げて目を開けてみた。すると、目の前には、学生の頃から変わらずにのんびりと微笑んでいる明がいたのである。かくしてやっと、裕美は確信した。


 かなり変わっているし、“平均的男性”から果てしなくかけ離れているけれども、私の“運命の夫”は、“明”である、と。その“信頼感”と、何かから解放されたような“安心感”は、揺るぎないはずであった。それを思い出すと、裕美の腹痛はゆっくりと引いていく。


 そしてその裕美の長い物思いは、ご多分に漏れず、裏切られる事はなかった。明は、裕美の、“あ、ちょっと男性の自尊心を傷つけるような事を言っちゃったかもしれない”という気持ちすらも見透かしたように、ニコッと静かに微笑んだ。


「初めてプロポーズした時、裕美に、僕には“お金”がないからって、フラれたよね。僕も父が事業に失敗してから、お金がなくて、大学も奨学金で通う事になったりしたのを経験したから、“お金”の大切さは痛感したし、大事だよ。でもね、僕にとっての“お金”は、“幸せ”の付属品でしかないんだ。


 僕は、初めてプロポーズしたその瞬間よりずっと前から、“裕美と一緒にいる”事が“幸せ”なんだ。何で裕美と一緒にいる事が幸せなのかと言えば、僕は君といると心も体もすごく癒されるし、安心して信頼出来るから。


 例えば、僕はトランスジェンダーだから、ずっと彼女に体を見せる事はなかった。性転換手術をして戸籍変更をしてからじゃないと、体を見せたら相手に嫌われると思い込んでいた。体を見せたくない“恐怖”が強すぎて、したくてもセックスすら出来なかった。でも、僕は生まれて初めて、裕美にはありのままの“手術前の僕の体”でも愛して欲しいと思えたし、裕美ならそんな事で僕を嫌いにならない、って思えた。

 

 それだけ人を“信頼”出来るのを教えてくれたのは、“裕美だけ”だよ。だから僕は、君が昔の“リストカットの傷”を気にして消した時も、とても不思議に思った。

 

 だって僕にとっては、“リストカットの傷”があろうがなろうが、裕美は“愛しいかけがえのない存在”なんだ。そして、“平均的な男性”からしたら、変に聞こえるかもしれないけれども、僕的には、“リストカットの傷”と“お金”のあるなしは同じようなものでしかない。そんなもののあるなしで、裕美が“素晴らしい存在である事”は左右されない。確かに“お金”は大切だけど、稼いでいても何のために働いているか分からなくなる人だって、いっぱいいる。


 僕は、“裕美と一緒にいる”事が“幸せ”だし、今書いて働いている理由は、“先月裕美が欲しいって言っていた、二万円のパンプスを買ってプレゼントするため”だよ。秘密にしたかったのになあ。」


欠片も怒りもせずのんびりと、明は答えた。


(ゲップが出る位、最高点に近い合格点かな。)


 夫の返答に対して、裕美の“女心”は、そのように判定を下す。そして裕美は、まじまじと明を見つめた。そういえば、結婚してからすっかり忘れ去っていたけれども、彼はトランスジェンダーだった。トランスジェンダーというのは、一般的に認知した言葉で言えば、“性同一性障害”の事である。裕美と明は、中高一貫制の女子校の同級生だ。はっきり言って、付き合う前に、女子校の同級生兼友達であった明と恋仲になる事に全く抵抗がなかった訳ではない。


 裕美は熟考しながら、明をさらにジッと見つめた。明は、その裕美の表情に何かを勘違いしたようだ。甘い台詞を言った後は、間違いなくキスをされると確信したのだろう。期待したようにギュッと目を閉じてしまい、嬉しそうにウキウキと口元を緩ませている。裕美には、明のお尻から生えていないはずの犬の尻尾のようなものが生え出し、高速回転で振られているように見えた。


(まるで“子犬”みたい。)


 思わず噴き出しそうになる。こうしてゆっくりと時が流れている間にも、明の裕美への“ご褒美のキスへの期待感”は揺るぎなかった。瞼はたまに少々痙攣しながらも、しっかりと閉じている。“まだかな?まだかな?”という、明のワクワクした心の呟きが、裕美には聞かなくても分かってしまった。


 そして裕美の“Sっ気のある女心”は、こんなにも期待に満ち溢れている、小犬のように純朴で従順な明を“放置”している事に、ひどく満たされた。明の口元と同じように、自分の口元もだらしなく揺るんでいる気がする。


(ダメダメ、こんな“唐変木な夫”の“わたあめみたいに甘すぎる発想”に私まで押し流されたら、“家庭”がままならなくなる。私は、“リアリスト”なんだから。)


 思わず、“あまのじゃく”な心の中のもう一人の裕美がそう釘を差す。明が目を瞑っている間に、瞬時に“リアリスト”な自分を取り戻した裕美は、いつもの“鉄仮面でクールな毅然たる私”の表情に変わると、明の頬を軽くつねって言った。


「まだ話は終わってないよ。」


 そうすげなく“冷たさ”を装って告げると、明は、あれ?と戸惑い、どこか落胆したようなしょんぼりとした表情に変わった。


(今の“顔”は、明には“言いたくない”けれども、ちょっとだけ、“可愛い”かもしれない。)


 “あまのじゃく”なもう一人の裕美ですら、そう思ったようだった。だが、残念ながら、“話”は終わっていないし、まだ完全に明の言い分に“大満足”はしていない。


「まあ、明の言いたい事は分かったんだけどさー、私の“不労所得”がなくなったり、私が病気になって“稼げなくなった”り、明の“書く仕事”だけで食べていけなくなったら、“君”は一体、どうするつもりなの??」


 そう問い質す。我ながら、すごく“意地悪”な質問だな、と、しみじみ思った。なぜならば、裕美は明の仕事の正しい“収入額”を把握しているけれども、明は全く“知らない”からだ。


 明が“フリーター”から念願の“小説家”にジョブチェンジした際、とある問題が発生した。それはもれなく、明が大変な“世間知らず”だった事に起因する。明が“小説家デビュー”の吉報を嬉しそうに矢継ぎ早に話した時に、裕美が感じた“とある不安”が的中した事から始まった。彼の念願が叶い、“キスと報告の嵐”を静かに受け止めながら、良かったね、と何度も答えていた裕美は、ふと思った。


(この人、出版社から本を出すとして、“雇用契約書”とか、自力で理解して真っ当に契約出来るのかな。)


 その予感は間もなく当たる事となる。デビューから数日も経たない内に送り届けられた“けいやくしょ”を何度読んでも、担当者に説明させても、明には“ただしいりかい”が出来なかった。それを、鼻水を垂らしながら、恥ずかしそうにおずおずと打ち明けてきた明を冷静に観察しつつ、“契約書”に素早く目を通しながら、裕美は思った。


(やっぱりね。明って、こういう“自分の興味がない金銭的な契約”を理解出来ないんだよねー。“私以外”の“世間知らずな一般的な奥さん”をもらってたら、絶対今頃、“出版社にぼられてる”じゃん。)


 空想上の存在すらしない、明の“世間知らずな一般的な奥さん”に圧倒的に“勝ち誇った”ことで、自らの“承認欲求”を満たした裕美は、意気揚々と明に告げた。


「私が“奥さん”で良かったねー。あのね、こういう“契約書”はちゃんと理解しないと、明の作品の“権利”の大多数が“出版社”に取られちゃうんだからね。そもそも、こういう“契約書”とか、“お金の管理”とか、どうするつもりだったの?」


「うん、“裕美が奥さんで本当に”良かったー、ありがとう。僕は、最初から、“人生の大事な節目”は裕美に真っ先に相談するつもりでいたし、僕より裕美の方が“お金の管理”に慎重だから、僕のお給料も全部管理して欲しい。」


「え?そういう事言って良いの?私本気で“お金の管理”始めたら、わりと厳しいよ?じゃあ、月にお小遣いいくら欲しい?」


 “契約書”に油断なく目を通しながら、“この月収にはそぐわない”金額の“贅沢なお小遣い”の額をもし言ったならば、すぐに論破してやろう、と、眼鏡を光らせつつ裕美は思った。そんな如何にも“お金にシビアそうな”妻の姿を見た明は、少し考えて尋ねた。


「裕美とのデートでかかる外食代は、“お小遣い”に入るの?」


「入らない。それは“食費”。」


「注射代と薬代と、病院に通う電車代は?」


「入らない。それは“経費”。」


「猫のタマの餌代と、猫砂代は?」


「それも、“食費”と“経費”。」


「僕、一ヶ月に一回のちょっと高いプロテインと、二ヶ月に一回位、筋トレのサプリメントとボトルガムのセットと、一年利用権が八千円位のオンラインゲームカードを買えれば大満足。だから、月に一万円あったらギリ足りると思う。でも出来たら、お小遣いの残りから少しずつ貯めて、裕美の誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントとか、たまに思い付いた時にお花とお菓子とかも買って、プレゼントしたい。だから、多目に言ったら二万円。そしたら、一万円ずつ貯めるのを目指したら、誕生日プレゼントには凄い高い数万円の物だって買えちゃうよ。」


 少しはにかんで、遊び慣れていない高校生男子のような事を言う明を見て、その時も裕美は思った。


(子供みたいで、ちょっと“可愛い”。)


しかし“リアリスト”な裕美は、すぐさま“現実”に立ち返り、厳しくこの“世間知らず”な夫に言い聞かせた。


「あのね、“お金の事”は、もっとしっかり考えて言った方が良いよ。本村とか、河内の旦那さん見た??本村の所なんか、旦那が給料を自己管理してるらしいけど、何十万もするテレビとか買ってたらしいよ。河内の旦那だって、私の見た感じだと、金遣い大分荒いよ。まあ稼いでるから、あそこの家庭からしたら、はした金かもしれないけど、月に十万以上はお小遣いを使ってるよ。私は、あの二人みたいに甘やかさないからね。給料上がってないのに、最初に提示した“お小遣い”の額から引き上げたりしないよ。後悔しても知らないからね。」


 本村と河内と言うのは、二人の中高の同級生である。裕美が提示したこの具体的な助言を聞いても、明の反応は大変鈍かった。


「ちなみにさ、僕が喉から手が出る程欲しいゲームの発売日がもし近かったとしたら、誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントと、バレンタインのプレゼントに、裕美が買ってくれたりするオプションは付くの…?」


「バレンタインは普通チョコレートじゃないの…?まあ、バレンタインは私のご機嫌によるけど、誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントは、明がゲームが良いなら買ってあげるよ。」


「ゲーム機が数年に一度、壊れてしまったら、災害費は出るの?」


「お小遣いを貯めて出来たら何とかして欲しいけど、私への誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントとかですっからかんになっちゃったりしたなら、考えてあげても良いよ。」


「じゃあ、僕、二万円でお釣りが出る位、充分足りると思う。」


 頑として、この呑気な夫は譲らない。しかし、裕美は頭の中の算盤を弾きつつ、平均的な社会人男性(サラリーマン)のお小遣い額を思い出した。確か令和四年度の平均的なお小遣い額は、三万八千円であった。契約書の金額を鑑みれば、フリーターの頃ならともかく、三万位はあげても良い気がする。常々、“平等”よりも“公平性”を重んじるのがモットーである裕美にとって、その金額は妥当な物だった。何より、重要な事がもう一つある。


「あのね、独身の時も言ったけど、私は明の倍以上稼いでいるから、明よりもお小遣いを沢山使うと思う。歴代の元カレの時みたいに、“裕美は、ワガママで贅沢”って勘違いされたくないし、“公平性”に欠くのも嫌だから、お小遣いは三万円あげる。明の作品が売れて給料が上がったりしたら教えるし、その時お小遣いを上げて欲しかったら考えるから、遠慮なく言って。一万円多めにもらっておきなよ、たまには“友達”と遊びに行くでしょ。」


 主に、“裕美がお小遣いを今まで通り使いたいがため”に一万円多く渡したつもりだったが、自分自身で良かれと思って付けた言葉尻に、裕美はその後、一人で少し後悔する事となる。


 なぜなら、明の“友達”の九割が“女友達”しかいないからだ。彼がトランスジェンダーで女子校育ちである事が関係しているかは分からない。明と同じようなトランスジェンダーでも、心と同じ性別の方の友達とばかりつるむ人もいれば、そうでない人もいる。そこは、平均的な男女と変わらない。裕美にとって、最早そこは争点ではなかった。


 裕美には、明を少なからず“男性”として意識するようになって、気付いた事がある。それは明が、“誰に対しても公平に優しくする上に、割とキャパシティオーバーな我が儘すら簡単に聞き入れるため、勘違いして彼女ヅラをし始める人が現れる”という事だ。


 しかも、明に“彼女ヅラ”し始めるのは、“女性”だけではなかった。あろうことか、実際の顔も名前も性別も知らない、オンラインゲームで知り合った“オジサンたち”までもが、明を束縛した事すらある。なぜ“オジサンたち”が“オジサン”であると分かったかと言うと、本人たち談と、盛んに繰り広げられる嫌味っぽい昭和臭のオジサン構文のせいだった。“オジサンたち”は、明が一週間ログインしないだけでメンヘラ女子のようにひねくれ、明はそれを宥めすかせてしまう。その当時、単なる友達であった裕美は、なぜかその光景にひどくイライラした。そしてつい、言ってしまったのだ。


「“私”か“あのオジサンたち”か今すぐ選んでよ。」


 明の当惑したような表情は、今でも覚えている。それはそうだろう。きっと彼にとっては、裕美もゲームのオジサンたちも、公平に“友達として優しくする存在”だったのだ。それは、裕美にも分かっていた。自分が理不尽な要求を突きつけているのにも気付いていたし、焼き餅を妬いている事も理解していた。けれども、その“事実”を認める訳にはいかなかった。少なくとも、“平均的男性”位には“プライド”が高い裕美にとって、それを認めるのは、ハードルが高かったのだ。かつ、それを認めてしまえば、明を“男性”として意識しているのを認める事にもなってしまう。それが何より、本当に“怖かった。”


 幼い頃に、“父の裏切り”による離婚を経験した裕美にとって、“男性を信じる事”はとても難しく思えた。一般的な“恋愛”に憧れを抱いた事もあったし、“男性”から告白をされる度、“幼少の頃に思い描いた理想的な家庭”に憧れたりもした。様々な“一般的な男性”と会ってみて、話してみても、どの人もなぜか裕美には、どこかしっくり来なかった。


 賢い裕美には、本当は、“自分の理想的な夫像”がどんなものか分かっていた。それは、キリスト教の聖書に書かれている“父のように暖かく、母のように、優しく何でも受け入れてくれる存在”。裕美にとっては、六才位まで親代わりとして自身を育ててくれた“祖父”その人であった。“裕美の全てが可愛い”と、頬擦りをしながら愛情いっぱい育ててくれた“祖父”は、今考えれば、孫に甘過ぎたかもしれない。だが裕美にとって、“祖父”の掛け値なしの愛情は、“最もありのままの自分を愛してくれた優しい場所”であった。大人たちの事情に翻弄され、そんな“祖父”と幼少の頃に生き別れた事件は、裕美の人生に、ずっと暗い影を落とす。“祖父”を失った事で、裕美は思った。


(“おじいちゃん”は、もういない。だから、私は強く生きなければならない。そうでなければ、“現実”は渡っていけないし、“他人”に騙されるかもしれない。)


 その決意と、様々な経験は、裕美に“リアリスト”の鎧を着せた。年々、“リアリスト”の仮面を分厚くしながら、冷静に裕美は思っていた。


(“現実”とは、こういう物であるし、“祖父”のような掛け値なしの愛情を持つ“理想の夫”とは、空想上の産物である。)


 そう“リアリスト”の大人な一面の裕美は、結論づけていたが、一方で、“六才で生き別れた祖父を、恋しがって泣きわめく子供”のような自分がいる事は、否定出来なかった。


 有り体に言えば、“インナーチャイルド”の裕美である。だが病める社会において、“インナーチャイルド”を抱えていない現代人など、存在しない。“インナーチャイルド”を、心のマントルに閉じ込めてふんばりながら、なおもそう言い訳を書き足して、二十代の裕美は、“自分の本当の理想的な夫像”から目を逸らした。甘い事ばかり言っても、実入りがないと、生活は出来ない。何より裕美は、新しく知り合ったどこの馬の骨だかも分からない“男性”に“期待”する事に疲れはてていた。自分の事を深く知れば、幻滅されるかもしれないし、年を取れば取るほど、他人に“身の上話”を語る事は億劫になる。ならば、生活をするためだけの“実入り”のパートナーを探し、堅実に“平均的な理想的家庭”を描く事の方が、現実的に思えたからだ。


 だが、そんな凍てついた裕美の心を、揺るがす青天の霹靂の大事件が起きた。一つは、十年以上友達だった明が、ある日突然、裕美に結婚してくれとプロポーズしてきた事である。何となく裕美にとっても、明といてイチャイチャする雰囲気であったり、ウキウキする気分を味わう瞬間は、たまにあった。“ゲームのオジサンたち事件”を鑑みれば、明を“男性として少なからず意識した部分”もある。


 しかしここで、むくむくと裕美の中に、“男性を信じられない気持ち”が膨らんだ。明の同級生だった裕美は、明の元カノたちの事は全員把握している。明が、“最後の元カノを十年以上忘れられないでいた事実”と、“その人以上に好きな女性とじゃないと、結婚しないと言い切っていた事”は、同級生の間では有名な話であったし、明が、ちょっとそこら辺の馬の骨にはいないレベルで恋人に誠実で情熱的である事は、誰もが知っていた。何より、裕美もそれを知っていたからこそ、疑わしかったのだ。


 ついこの間まで、普通に友達をしていたと言うのに、何がきっかけで、恋に火がついたのだろうか…?何より、件の“オジサンたち事件”で苦い思いをした裕美にとって、“十年忘れられなかった元カノの絵理奈より、裕美を好きな理由”を、具体的に納得のいく説明で述べて欲しかった。そうでもしてくれなければ、“信じられる物も信じられない。”そう思う自分がいた事に、その時の裕美は全然気づかなかった。


「絵理奈の事をこの間まで、十年忘れられないって言ってたじゃん。絵理奈の事はもう良いの?」


「そんな過去の女より、目の前の君の方が美しい。」


(ダメだ、完全にお花畑に行ってる。これではお話にならない。)


この脳震盪でも起こしたかのような明のとんちんかんな返答で、裕美は、明がキザでロマンチストである事を思い起こす。だから、質問を変えた。


「私の事、何がきっかけでいつ好きになったと自覚したの??」


「…1ヶ月前に、すんごいエッチな胸元が開いた服を着てきた時に、びっくりしたの。」


「…うん、ずっと見ていたね、あの日。」


裕美は思った。最後まで聞かなくても、分かる。マイナス五百万点。


「僕は、中高生の時のつるぺたな裕美の印象しかなかった。だから裕美は、裕美が好きなスヌーピーみたいに、キャラ物みたいな体をしているとずっと思ってた。」


「あのね、あんたが知らなかっただけで、私は想像よりは胸がある方だし、あれから育っているからね!?」


失敬な奴だ。裕美は、心の底から憤慨した。


「うん、それを目の当たりにして、ドキドキして、おかしいなって思った。だからずっと、1ヶ月間、裕美を好きじゃない理由を探しては、自分に言い聞かせていた。性転換のために男性ホルモン注射を投与してから、たまに女友達にムラムラする瞬間はあったから、最初はそれかなって思った。

 

 だって、僕は、知ってる。友達だったら、ずっと付かず離れず何気なくいられるかもしれないけど、恋人は難しい事も。前の恋を十年引きずったから、痛い程分かってる。だから、裕美を失う事を想像しただけで、凄まじい“恐怖”に襲われた。でも、気付いた…。」


やっと、“おっぱい”以外の好きな理由を語り始めそうな明に、ようやく、どうやら何かしらの信憑性があるらしい、と裕美は気を取り直した。


「何に気付いたの??」


「僕は、人生の伴侶は、“誰よりも一緒にいて楽しくて、誰よりも信頼出来て安心出来て、かつ、ありのままの僕を愛してくれて、そのままの自分で堂々と目の前にいられる”相手が欲しかった。


 僕は、女友達が多いし、信頼出来て安心出来る人は沢山いたよ。でも、恋愛で好きになるような相手は、女友達のタイプにはいない感じの系統だったし、ぶっちゃけ、中身じゃなくて外見で選んでいた。


 でも、裕美は…初めて、中身から好きになった。だけど、女友達は大体中身を好きだから、気づかなかったんだ。そんな時に、女性としての裕美を魅力的に感じた自分を発見した。僕の思い描く理想的な伴侶の“最後のピース”を、裕美は意図せず埋めてしまったんだ。


 誰もが知っているように、僕は一途な事にかけては、才能がある。だからこそ、結婚したら、僕を選んでくれた伴侶だけを大切に生きていきたいと、ずっと決めていた。僕にとっては、女性としても人としても大好きな伴侶を大切にする事こそが、幸せで生き甲斐なんだ。結婚したら、友達はみんな家庭に忙しくなる物だし、疎遠になる物でしょ。僕は女友達が多いし、既婚者の友人とは元々、“距離を置く”つもりでいた。友達の事は大事だけど、奥さんが心配するなら、別に連絡を取らなくて良いし、友達も既婚者なんだから、旦那さんに心配をかけるのも悪いでしょ。

 

 僕は、“裕美の事が、人としても女性としても尊敬出来て、信頼していて、大好き”だ。だから、僕と結婚して欲しい。」


 やっと聞く事が出来た、明の“最もらしい告白”は、裕美には、“甘ったるい幻想”に思えた。だからこそ、その“甘い幻想”は、裕美の耳にひどく“蠱惑的な物”に聞こえる。なぜなら、明が言う“一緒にいて楽しくて、ありのままの自分でいられる相手”は、裕美にとっての明でもあった。それだけでなく裕美は、今まで“明とずっと友達でいられて、今までのように気軽に遊べる”つもりでいた。明が異性である事は認識していたから、“明と遊んでいても許してくれるような旦那が良い”とすら思っていた時期もあった。


 確かに明は昔から、“奥さんが出来たら、女友達とは遊ばない。奥さんを大切にしたいから。”と頑なに言っていた。だが、十年も元カノを引きずっていた明が、気軽に恋愛をする事はなかったし、現実的に考えてそんな事は無理だろう、と、周囲の誰もが、裕美自身も思っていた。


 しかし、明のその決意が、初志貫徹している強い物であるらしい事実を、自らを意中の相手として選ばれた時に、裕美は身をもって知る事となった。告白された時に、“友達でいたいから”と、すぐ逃げ道を探さなかった自分がいたのも、今振り返れば不思議であった。真面目に好きな理由を問い質さなければ、“友達でいたい”と逃げられたのかもしれない。だが裕美の中には、“明が自分を好きな理由を知りたい自分”が芽生えていた。それは今思えば、明の誠実で情熱的な部分が、裕美の“理想的な夫像”の片鱗に合致していたせいもあるかもしれないし、明の言う“理想的な伴侶像”が、裕美が心の奥底に隠した“理想的な結婚相手”に近かったのもあった。


 何にしろ、明の本気具合を察した裕美の退路はもう絶たれていた。裕美にとって、例え“適当に結婚した旦那”がいたとしても、“絶対に失いたくない明”の存在を手放す事はあり得なかった。その時点で、もしかしたら“平均的な女性にとって”は、既に明を“男性として愛していた”というのに近いのかもしれなかった。“リアリスト”の裕美にとっては、受け入れがたい“幻想”だった。だからこそ裕美は、苦し紛れに“リアリスト”の仮面を体裁に掲げ、明に吐き捨てた。


「明は“お金”がないから、結婚出来ない。」


「僕は、夢を叶えるよ。作家になって、一発も二発も三発も当てるよ。裕美と一緒なら、芥川賞だって、直木賞だって、日本マンガ大賞だって、取れるよ。」


「じゃあ、取ってから言ってよ。」


 すげなく突き放しても尚熱が浮いたように、明は続けた。甘い、甘い。本当に、“わたあめのような甘ったるい理想”を掲げる明は、やっぱり裕美にとって、“甘い誘惑”だった。何より明が、裕美の事を深い所まで理解している、数少ない“男性”なのもある。


 これ以上踏み込まれたら、裕美がせっかく長年苦労して作り上げた“立派なリアリストの鉄仮面”が、今にも水に濡れた化粧のように、おっぱげそうだった。“鉄仮面”を後生大事に押さえようとしている裕美に気付かないまま、明は更に、裕美の心を揺らした。


「僕は、裕美が本当に欲しい物を知っているよ。“お金”じゃなくて、“おじいちゃんみたいに、掛け値なしの愛情で愛してくれて、ありのままの裕美を受け入れてくれて、安心出来る、もう帰れない過去の場所”でしょ。でも、時間は進んでいるよ。


 僕は、“おじいちゃん”ではないけれど、色んな事や、恋愛で苦しんできた裕美をずっと見てきたし、知っているよ。裕美が、“お金だけじゃ、人は幸せになれない。”って言ってた事も知っているし、裕美が“本当に欲しい物”が、どういった類いの愛情か、気付いていたよ。


 でも、僕達は友達だったし、いつか、お互い違う伴侶を見つける事になると思い込んでいたから、可能性から目を逸らしていた。でも、今の僕は、例え君が、僕を何回“拒絶”したとしても、愛してる。そんな“拒絶”は関係ないんだ。君が、僕を信じられない気持ちは痛いほど分かる。僕自身も、ずっと“愛”が欲しいのに、“愛”に怯えていたから。」


 触れて欲しくない心の奥底まで見透かされた気がした裕美は、ほうほうのていで、明から真っ先に逃げ出した。一年以上もの間、裕美の“分厚いリアリストの心の壁”は、明を冷たく拒絶した。本当は、物凄く淋しかった。でも、その気持ちを打ち明ける事は、プライドの高い裕美の“沽券”に関わった。そこで、今世紀最大の“あまのじゃく”が爆発した裕美は、明を何度も“言葉の暴力”で殴り付けた。


「明なんて、キライ。明なんて、タイプじゃない。」


「明はクサイから、キライ。男として良い所が一つもない、無理。」


 感情が高ぶると半狂乱になって、相手を(特に男性)人格崩壊させる程、自身が“言葉の暴力”を振るってしまう事に、裕美は昔から気付いていた。その悪癖で、元カレの何人かは去っていった。恋人が去るたびに、裕美は思った。


(だから、“男性”は信じられない。“私を全部受け止めてくれるおじいちゃんみたいな夫”なんて、やっぱり“夢物語”でしかない。また去られて傷付く位なら、“利害の一致“だけで結婚したような、傷付けてもどうでも良い男で良い。嫌になったら、ママみたいに、離婚してシングルマザーになれば良いもん。もう傷付きたくない、“愛”は怖い。誰も信じられない、だから、“恋愛”はもうしない。)


 そう思いながらも、人間の習性は、“希望”を抱き続ける事を忘れない。心の奥底に追いやられた、裕美の“理想”は、ずっと叫び続けていた。


(明は、友達の頃からずっと、私がどんなに“言葉の暴力”で殴り付けて、優しさに甘えても、辛抱強く落ち着くまで、待ってくれていた。どんな元カレも受け止められなかった私の酷い癇癪でも、その態度は変わらなかった。私に見せる“愛”も変わらないどころか、深まっている気がする。だから、友達の頃にすらも何回かは思った。元カレたちからの“愛”よりも、明からの“愛”の方がずっと大きいって。


 もし、明にまで見放されたら、もう二度と“希望”なんて持ちたくない。かといって、“信じる”のもすごくすごく、怖い。明に酷い事をしている自覚はある。でも、最後にもう一度だけ、“信じてみたい”。私が何度“拒絶”して、明の愛を“試して”も、許して欲しい。我が儘なのは分かってる。それで本当に安心出来て、私の欲しい“愛”をくれる伴侶だって“確信”出来たら、“信じる”。)


 祈るように、裕美の“理想”は何度も泣き叫びながら、明を傷付けている“罪悪感”を背負い続けていた。“リアリスト”の方の裕美は、そんな自分を達観して見つめながら、冷静に、婚活をし続けた。


(今の私の収入だけじゃ、“幸せ”な結婚生活には程遠い。だから、稼ぐ“努力”も続けるし、そこそこの収入の相手もとりあえず探す。現実とは、得てしてそういう物。だけどもし…。)


ついには、“リアリスト”な方の裕美すらも考え込み始めてしまう。


(もし…、男に頼らなくても“お金”に不自由しない収入が自分で稼げるようになったら…私、誰と結婚したら利点があるのだろう。)


そう考え始めた“リアリスト裕美”は、婚活をしながら結論をまとめ始めた。


(結局、“平均的な男性”は、皆、“プライドやこだわり”が強い。ある程度持ち上げたり、あやさないといけない。かといって、気を使うような打たれ弱い奴が多いから、“ありのままの私”なんて出せやしないし、家で“ありのままの私”でいれないとか、もう、“結婚=墓場”じゃん。


 “お金”を満たされる必要性がないなら、“心”を満たしてくれて、気を使わない、可愛いげがある相手の方が良いわ。でも、“心を満たしてくれる夫”とか、一番妖精レベルにこの世で探すの難しいじゃん。私の人生で、そんな元カレ、一人もいなかったんだけど。最初はあった可愛いげが徐々に失われて、ふんぞり返られる位だったら、悲しいから期待したくないわ…。)


 そう考え込み始めた“リアリスト裕美”の脳内に、ピーターパンのように無邪気で、健気な“明”の姿が、ぼわんと浮かんだ。はっきり言って、明のような“男性”は、“妖精”レベルにいないだろう。保護する必要のある絶滅危惧種位には、頼りなく、ふわふわした空想上の生物のようだ。少なくとも、“リアリスト裕美”ですら、婚活した中で、明位、辛抱強く可愛いげがあり、誠実でおっとりしていて、何より“ありのままの裕美を熟知し、裕美がリラックス出来る位癒してくれそうな男性”など見つけられなかった。


 こうして、裕美にもう一つの大誤算が生じる日が訪れてしまう。それはついに、裕美が、“男性”に“お金”を求める必要性がないだけの、“不労所得”を得てしまった事だ。いざそれを達成してしまうと、裕美はひどくまごついた。


 明に“お金”がないから結婚しない、と言い切ったにも関わらず、いざ自分が潤沢な収入を得てしまえば、逆に自分と同じように“お金”を稼いでいる、“プライドの高い”男性は余計に煩わしくなった。かといって、平均的な収入の、自分より“お金”を持っていない男性には、違う意味で気を使って“疲れる”のだ。


 裕美が悩んでいる間にも、明の愛情表現は深まっていくばかりで、全く変わらなかった。裕美が八つ当たりをしようが、明を泣かせようが、虐めようが、それでも明は、頼んでいなくてもせっせと裕美に愛を囁き、一年ラインを無視し続けても、誕生日プレゼントに長い愛のお手紙を添えて、可愛らしい自作のラッピングまで施した。


「クリスマスは、会わないよ。」


そう突っぱねても、裕美が検定試験を頑張ったから、と適当な理由をつけて、暖かいカシミヤのマフラーのクリスマスプレゼントを送り付けたのだった。


 それは、普通の神経の“平均的男性”には逆立ちしても出来ない程の、大きな“愛”である。裕美は、明以外にこんな熱烈で、深い辛抱強い優しさのある“求愛”を受けたことがなかった。裕美は完全に当惑しながら、少しずつ、この“求愛”に気持ちが傾きつつある自分に気が付いた。テンションが上がった日にはつい、お酒を飲んだ勢いで電話越しに明を口説いてしまった。


「同じ名字にならない?」


そう言うと、明は恐る恐る小さく呟いた。


「なりたい。僕の気持ちは、一年前から、ずっと、変わってないよ。」


 途切れ途切れに言ったその言葉は、電話越しにでも、明が見えないしっぽをパタパタと、決して押し付けがましくなく、遠慮がちに振っている光景が見えるようだった。


(明には、“可愛いげ”がある。)


 そう思った裕美は、それが可愛くて、ついふざけたように数度口説くのを繰り返した。明は酔っ払ってからかわれていると認識したのか、少ししょんぼりしている。そんな所が、たまらなく愛しかった。


(私、もしかしたら、明の事をそういう意味でも“好き”かもしれない。)


 自分の中で好きの“確信”を得た時に、裕美は“明と結婚がしたい自分”を認め始めた。もう明が、“自分ではない他の奥さん”と結婚して、“疎遠”になることすら耐えられなかった。“お金”も自分が稼ぎ始めたら、気にならなくなった。


 するとまた、今度は、裕美にとっても、明にとっても、嬉しい“大誤算”が起きた。明が小説家としてデビューし、収入が上がったのだ。図らずも、“平均的な男性”位に“お金”を稼ぐようになった。それは裕美にとって、自分の事のように喜ばしい。


 友達の頃、明が、コロナで大学の学費を親が払えなくなり、除籍になりそうだから大学を辞めると言い出した時、裕美は激高して、明をATMの前に引きずり出した。


「じゃあとりあえず、私が半期の五十万を払う。だから、大学に行って。」


 半べその明を威圧しながら、裕美は言った。あの時は、なぜ自分がそんなに熱くなるのか分からなかった。友達になら誰にでも、“お金”を出したかと聞かれれば、それは違う。裕美は、明がいつも明なりに、“努力”をしている姿を見てきた。だから、例え“お金”が返って来なくても、失恋で心を病み、引きこもりをした過去からやっと這い上がり、頑張って名のある大学に行った明の“夢”を応援したかった。それが例え、年を喰って二十代半ばから通った大学であっても、明の“夢”がどんなにふわふわした物でも、関係なかった。


「パパのお金がなくなったから、僕は、今までみたいにふわふわしちゃいけないと思った。本当は小さい頃からずっと、“祖父みたいに、本を書くような仕事”がしたかった。出来れば、“小説家”が良い。だけど、そんなの“夢物語”だって、心に嘘をついて見ないふりをしてきた。でも、もう、金銭的に許されないから、やっぱり、“平均的な仕事”をしなきゃいけないのかな、って思う。」


明が柄にもなく、淡々とそう語った時、いつの間にか裕美の目からは、自然と大粒の涙が溢れだした。


「なんで泣くの?僕の事じゃん。サラリーマンになるって言い出すなんて、喜ばしい矯正をした、とか、友達として言うべきじゃない?」


裕美の涙に驚いた明は、場違いに乾いた笑いを浮かべながら、冗談めかして言う。いつもふわふわした子供っぽさがある明からしたら、およそ似つかわしくない大人ぶったおどけ方だった。そんな明の無理をした様子は、裕美の涙腺を更に刺激した。


「あきら、が、おかね、がないから、ゆめを、あきらめるとかいうのが、すごいくやしくて、かなしいとおもっだら、なみだがどまらない。」


 裕美は、止まらない鼻水と涙を拭いながら、そう返した。明はまるで他人事のように、明の経済事情で涙ぐむ裕美を慰め出した。この時の自分の“涙”が、明の“夢を諦めない気持ち”に真剣に火をつけた事を、裕美が本当の意味で知ったのは、数年後の明の愛の告白からだった。


 そういった過去の歴史から遡れば、明が“夢を現実にした上に、お金まで稼ぐようになった”ことは、裕美にとって、誇り以外の何物でもなかった。更に、明には言っていなかったが、作品がバズると、まれに裕美の“不労所得”を上回り出す月も出始めたのだ。裕美は最初の頃こそ嬉しくて、それとなく、明に仄めかした。


「今月さー、明のお給料、この間のやつがバズってたから高かったよ。お小遣いを“一万円”上げて欲しいなら、今だよ??」


ウキウキといくらおちょくっても、明は、中々“お金”には飛び付かなかった。


「僕、えらい?褒めてくれる?」


「えらい!褒めてあげるから、一万円お小遣いを増やしてあげようか?」


「“お金”はいらない。その代わり、僕、裕美にコスプレをしてもらって、膝枕しながら、頭を撫でて欲しい。」


褒められる事には嬉しそうだが、明の珍妙な“要求”は、“お金”の斜め上を行った。面食らった裕美は、思わず聞き返す。


「え、コスプレ?何の??」


「いつもより、ちょっとエロい女社長のコスプレ。」


「それ、私の普段着の、ちょっとエロくなったバージョンなだけじゃん…本当にそんなので良いの?」


 その“要求”を呑んだ裕美は、何か思っていたのと“違う”という釈然としない思いを抱きながら、胸元を開けた仕事着のスーツで膝枕をした。明は、本当に心から幸せそうな満ち足りた表情でそれを満喫している。裕美は、“お小遣い”に子供のように可愛らしくはしゃぐ明に、“お金”をあげて、共に“給料アップ”を祝したかったのだ。だが、いくら“給料アップ”のたびに、“お小遣い増額”を囁きかけても、明が裕美の“お金の誘惑”に折れる事はなかった。女医、看護師、女王様、大人のお姉さんのコスプレの変遷を経て、裕美はようやく、悟った。


(どうやら、明にとって“お小遣い増額”は、信じがたい事に、“私のコスプレ以下”であるらしい。)


 様々なコスプレに辟易した裕美は、明の“お金に喜ぶ無邪気な姿”を見る事を諦めた。一方で、冒頭の意地悪な質問が時たま、脳内で浮上する事があった。


(この人は自分がいくら稼いでいるかを知らないから、最初のお給料位だと思っている。じゃあ、私の“お金”がなくなったら、どうするつもりなのだろう?“お金”に興味がないなら、“私のお金の有り難み”を本当に分かってくれているのだろうか?明の今の給料だったらギリ行けるけど、最初のお給料位じゃ、二人分養えないし、ちょっとたまには“現実”を突きつけて、“お金の大切さ”のお灸を据えたいな。)


 別に、明の“欲のなさ”が気にさわったからではなかった。むしろ給料アップにつれて、よくある話のように、“お金”に目の色を変えられる方が、裕美はずっと怖かった。


 けれども、“どんなに稼いでも、態度が変わらない上に、“お金”ではなく妻のコスプレを求めてくる”という理想的過ぎる返しをされても、いつも一抹の不安が残った。“セックスレスな上に会話すらない”のが悩みの夫婦だっているのだから、きっと妻としては“贅沢な悩み”なのだろう。


 しかし人間とは、“幸せ”であればあるほど、“不安”になるもの。裕美の中で、“明の夫として、ケチのつけどころのない欲のなさ”は、理解しがたかった。このモヤモヤを明の求愛の言葉のように表現すれば、文字通り“奇跡を現実にしてきた運命の我が夫”なら、ちゃんと利にかなった返答をくれるはず。そう気軽に“信じられる”ようになった裕美は、わざと件の意地悪な質問を、自分の収入を把握していない夫にぶつけたのだった。


「ねえ、どうするつもりなの?“私の不労所得”がもしなくなったら、このお家の家賃だって、払えきれないかもしれないよ?私が“病気”になったら、お家を追い出されちゃうかもしれないんだよ…?」


畳み掛けるようにそう繰り返すと、明はジッとただ裕美の顔を見つめ、ゆっくりと裕美の両手を取り、心から心配そうな顔をした。


「…どうしたの?本当に、“お金”がなくなっちゃいそうだったり、“病気”になったの…?正直に話して。」


裕美は、自分の手を握る明の手が、ひんやりと冷たいのにも関わらず、緊張からか汗ばんでいる事に気が付く。


(このおバカ。もしそうだとしたら、こんな明るいテンションで聞かないって、分からないのかなー。)


 心の中でため息をついた裕美は、面倒臭くなった。思った事を全部ぶつける事にしよう。ただし、明に罪はないのも理解している。自分が夫にこのような“だるい絡み”をするのも、“お金稼ぎを頑張っている私を、褒めて欲しいという女心”から来るものだと、聡明な裕美にはよく見えていた。ここは出来るだけ不満げに、可愛らしく、拗ねたようにいこう。こんな事で、喧嘩にはなりたくなかった。


「違うから、ただの例え。明がさ、“お金”に関心が薄いのは分かってるよ。でもさ、言って良いか分からないけど、私が沢山“お金”を稼いでいるから、今の生活が成り立っている訳じゃん。私が“お金”を稼いでいるのは、明と今の生活を楽しく豊かに暮らしたいからだよ。

 

 だから、そんな“私が頑張って稼いでいるお金”をさ、もっと喜んで欲しいし、関心も持って欲しい。“不労所得”の事だって、黙ってたのに言ったのはね、一緒に、ここまで頑張って、今しあわせだねっで…おもいだがっだの…!そうじゃないと、むかしみたいに、どんなに“おかね”あっでも、さびしいよ…!だからあきらに、がんばったごほうびで、“おこづかい”だって、ふやしたいのに、うけとってくれないしざ…!」


 気づけばいつの間にか、堰を切ったように泣き出していた。裕美は、本当はすごく泣き虫だ。でも、泣き虫な自分はあまり好きではない。いつも、頑張って背伸びをしクールに大人ぶっている“仮面”が剥がれ落ちると、カッコ悪くて弱く、怯える小さな子どものような“真実の自分”が顔を覗かせるようで、それが昔から、心底嫌だった。


「あ、違うんだよ、違うんだ…ごめんね、裕美。裕美を邪険にしたつもりはなかったんだ。仕事のアイディアでボーッとしてた、本当にごめん。裕美の方が仕事なんかよりよっぽど大事なのに。それに、“裕美のお金”に関心が薄い訳でも、感謝がない訳でもないよ。そんなのあり得ないでしょ。」


 感情が荒立たないと泣くことがない裕美が大泣きした事で、事態を悟った明は、大慌てで裕美を優しく抱きしめ、背中をさすり出す。それは、母親が赤子を寝かし付けるような仕草だった。普段は、甘えん坊の明に、仕方ないなあと言う表情を浮かべながら、裕美がする行動。蕩ける位に心地よく、優しい温かさは、裕美の涙をゆっくりと、海の潮のように引かせていく。


「僕はね、裕美がいなければ、“夢の小説家”にもなれなかったし、“大学”も中退したと思う。他の女の子と結婚していたら、多分、無理をして“サラリーマン”になったと思う。自分にいっぱい嘘をついて、苦しく生きたと思う。だから、僕の“幸せ”をいつも沢山くれて、そばにいてくれて、頑張って“お金”を稼いでくれて、本当にありがとう。」


「うん。もっと、労って。」


「あのね、“裕美のお金”に関しては、古い感謝と、未来の感謝があるんだけど、どっちから聞きたい?」


「じゃあ、古い方で。」


「大学生の時、僕の家がお金なくなって困ったらさ、裕美が、僕をアルバイトで雇ってくれたよね。僕の初めてのアルバイト。」


「うん、そうだね。」


「僕はさ、あの時は、裕美がどんな思いをして仕事を頑張ってるか、とか、経営者がどれだけの孤独を抱えているかだとか、全然まだまだ理解していなかった。僕は不器用だし、棚の位置も最後まであやふやだったし、オンオフがつけられないし、よく裕美を怒らせて喧嘩になってストレスをかけちゃって、その上、自分勝手に辞めるって辛抱なく言い出して、本当にごめんね。セブンイレブンでアルバイトをしてから、裕美がどんなに僕を甘やかしてくれたか、痛い程分かった。それなのに、いっぱい迷惑をかけてごめん。」


「別にいい。私が好きでした事だから。それに、明がいたから、私も思い切って独り暮らししようって決められたから。」


「ううん、本当に感謝してもしきれない程、感謝しているし、申し訳なく思ってる。

 

 それだけじゃなくてさ、時間が経って気付いたんだけど、今は裕美がすごく頑張ったから、“不労所得”もあるし豊かだけど。あの頃、裕美は相当無理をして、僕に“アルバイト代”をくれていたんじゃないかと思ってさ。でも裕美は誇り高いし、一度僕を雇った手前、そんな事を言えないだろうし、想像出来ない位大変だったと思う。だから、僕にそんな風に、いっぱい、“愛の詰まった本物のお金”をくれて、本当にありがとう。愛しているよ。」


「…まあ、あの時はぶっちゃけそこそこ大変だったよ。」


「さっきの話の続きだけどさ、もし、裕美が“病気”になったり、“不労所得”がなくなったりしても、絶対に何があっても、どんな手を使ってでも、僕が裕美との生活を守るから。そのためなら、今の仕事と、前みたいに、セブンイレブンの夜勤のアルバイトを掛け持ちしても構わないし、今の仕事をやめた方が良いなら、サラリーマンでも何でもするから。僕にとっては、最初から、仕事より裕美の方が大事なんだ。」


「それはだめ。体を壊すよ。後、良い台詞を言っている時に水を差して悪いけど、その年で今さらサラリーマンにはなれないと思う。それだったら、今の仕事をもっと掛け持ちした方が稼げるよ。」


「じゃあ、有名な作家のゴーストライターでも何でもやる!!僕は書くことが好きなんだ、例え世界中の誰も僕の作品だと知らなくても、それで裕美と幸せな生活が出来て、裕美が、実は僕が書いているって分かってくれてたら、それで良い!だから、裕美が病気になったり、仕事をやめたくなったら、いつでもやめてくれて良いんだからね!僕が絶対に、裕美を守るから!!」


「ゴーストライター…?」


 裕美は、明の胸元から顔を上げて、その顔を見つめた。いつになく紅潮し、目がキラキラと輝いて力説する、童顔で小柄な夫。こんなにイキイキとしたゴーストライターがこの世にいてたまるか。ゴーストライターとは、もっと、幽霊のようにこう、頬がこけ、やさぐれた表情で、世を儚むべきではなかろうか。


 穴が開く程妻に見つめられた明は、大丈夫だからね!と言いたげな表情で、小刻みにうなずいている。よく見ると、頭から寝癖のアホ毛のような物が、ピョコンと突き出ていた。そんな事にも気付かず、胸を張って目を大きく見開き、この世の全ての“不幸”から裕美を守ろうと決意している明。それは、家でよく見る何かに似ている…。少し考えた裕美は、つい思い出してしまった。


(…明がいない時に、エアコン屋さんと水道屋さんから、私を守ろうとしている時のチワワのチャロに似ている…。)


 裕美は、家を守ろうと踏ん張る小さなチワワにとって、最大のこの世の“天敵=知らないおじさん”に、噛み付くように吠えるチャロの様子と、目の前で張り切っている夫を重ね合わせた。彼らは非常によく似ている。びっくりする程、頼りがいがあるようにはお世辞にも見えないけれど、健気で愛しく、アホ可愛らしい所が。つまり裕美は、猫に加えて二匹のチワワを飼っているという計算になる。 



「えー、ほんとーに守ってくれるの~?」


 裕美が思わず、笑いを噛み殺しながらおちょくると、明は真剣な眼差しで言う。


「ぜったい!ぼくが、ひろみをまもるから!!」


 明がうなずく度に、アホ毛もおじぎ草のようにアピールしている。もう、ダメだ。今世紀最大の笑いの誘惑を、裕美は持ち前の“リアリスト”の仮面で素早く噛み殺した。ダメダメ、まだ未来の“感謝”の話を聞いていないのだから。せっかく、チワワ旦那が渾身のやる気を出してキャンキャン吠えているのだから、最後まで笑わないで聞いてあげよう。全部聞いてから、爆笑しよ。そう心に固く誓った裕美は、何事もなかったように、しれっとした表情で話を続ける事にした。我ながら、アカデミー助演女優賞位はもらって良い程の演技力だ。


「未来の方は何なの?」


「うん、未来の方はね…“お金”が貯まったか分かってから、何十年後かに感謝の言葉と一緒に、始めたかった。」


「何十年後って何??何を始めるの?」


「あのさ、僕は別に“お金”に執着がないから、“お小遣いアップ”に飛び付かなかった訳じゃないんだ。」


「うん。」


「一万円貯金でもさ、十年続けたら、百二十万じゃん。」


「まあ、そうだねえ。」


「裕美の事だからさ、僕が預けてる全部の“お金”も、生活費以外は貯金してくれてるでしょ?たまに、もうすぐ新車二台分だね、とか教えてくれるじゃん。」


「うん、老後の貯蓄もしたいし、何かあった時の為にもね。」


「僕はね、生まれた時から、物心がついてずっと今に至るまで、どうしても叶えたい夢が二つあった。“小説家”になる夢と、“僕のありのままを愛してくれる最愛の美人な奥さんと、幸せに生きていく”夢。両方、裕美が叶えてくれた、本当にありがとう。」


「奥さんはまだしも、小説家になれたのは、明が諦めないで頑張ったからだと思うよ。」


(悪い気はしない。)


裕美のご機嫌は、徐々に回復傾向にあった。涙を流した数分前が、嘘のように。


「だからね、僕が、未来まで“お金”をドンドン感謝を込めて貯金して、裕美の“夢”を叶えるんだ!」


目を爛々と一等星のように輝かせて、明は言う。実に無邪気に、確固たる自信と勇気をその胸に抱きながら。その瞬間、裕美は思った。


(…え、私“夢”とかあったっけ…?え、え、“お金”を貯めて叶える“夢”なんてあった…?“一軒家”とか…?今別に不自由してないし、この家が気に入ってるから別に良いんだけど…引っ越しが面倒臭いからなあ…“車”も維持費高いし、使わないから、いらないしなあ…。)


…哀しいかな、“リアリスト”過ぎる裕美の心からは、“夢”と聞いて出てきたコメントは以上であった。


 裕美のその疑問符だらけの表情に、どうやら妻が、自らの打ち出した“夢”をすっかり念頭に入れていないのが分かったのだろう。対照的に、“夢でいっぱい”な明は、泡を食った様子で裕美の肩を揺すりながら、必死で聞いた。 


「忘れちゃったの!?高校の卒アルに、“カフェを開きたい”って書いてたじゃん!!」


「…カフェ?」


裕美は、瞬きをしてから、高校の卒業アルバムに思いを馳せる。遠い記憶の彼方に、そんな事を書いたような…書かなかったような…そんな気がした。


「え、カフェが開きたかったの?私のために??まさか、それでお小遣いを一万円アップするのを我慢してたの…?」


「うん!!」


 嬉しそうに、真っ直ぐな純粋な眼差しで、見えないフサフサのしっぽをちぎれそうな位に、ブンブンと振る明。これは誰がどの角度からどう見ても、大好きなご主人様に“ありったけの精一杯の愛”を表現する、子犬でしかなかった。


「フフフフフフ…ハハハハッアハハハッ…!」


 “世間知らず過ぎる”夫の、いじらしすぎる“愛”と“小さな一万円貯金”に、もう十五年近く会社経営をしている女社長の妻は、笑いが止まらなかった。もうダメ、ぜったいダメ、笑わないのとか、金輪際もう無理…!腹が捩れて笑い死にそうだった。ここ数年で一番おかしい、手の込んだ笑いだ。


「…?」


 狂ったように爆笑し続ける“社長の妻”を、この“箱入り夫”は、心から不思議そうに、首を傾げて見つめている。そんな“純真無垢”な可愛い夫に、“現実”を突きつけるのは忍びなかった。だが、知らないまま、“一万円”を我慢し続ける方が可哀想だ。数年じっと耐えたショックも大きかろう。


 そう思い直した裕美は微笑み、せめてもの情けで、明が一番大好きな愛情表現をしながら、この“残酷な事実”を聞かせてやる事にした。明は、顔を両手で包んでやると、うっとりとして喜ぶ。裕美の手が好きなようで、それはもう嬉しそうに、毎晩せがむ程に。鬱陶しい時や、暑苦しい時、若しくは気が乗らない時は、すげなくお断りをする裕美だが、今回ばかりはさすがに可哀想過ぎた。


「あのね、君に“残酷な話”をしていい?」


明の顔を両手で包むと、すぐさま目を瞑ってしまう。とても無邪気な嬉しそうな表情に、裕美の良心がチクチク痛む。


「なにー?なにー?言っていいよ!」


ニコニコする“日より見夫”に、“リアリストな妻”は笑いながら、一気にとどめを差した。


「あのね、カフェを開くのにかかる資金は、平均で六百万から九百万なの。内装費もろもろ入れたら、一千万を超える事もあるの。考えてもみて?明の“一万円貯金”が五十年後でやっと、六百万に到達したとしても、その頃私達は、八十歳だよ?生きているかも分からないんだよ…?」


「え…?」


 裕美の両手の中で、“幸せ”の頂点に達していた明の表情が、途端に“不幸”のドン底に変わる。みるみるうちに、明の瞳が潤み出し、長い睫毛に、透明な涙が大きく膨らみ始めた。


「じゃあ、ぼく、ひろみになにをかえせばいい…?ぼく、ひろみにゆめも、あいも、いっぱい、いっぱい、もらった。だから、おなじだけかえしたい。でも、いつも、ぼくはたよりないし、ひろみがしっかりしてるから、かえせてるかわからない。だいすきだから、ずっといっしょにいたい。」


「うん。一緒にいようね。」


「でも、ぼくも、ひろみにぷれぜんとしたい。ゆめも。あいも。」


「明も、私にいつも、“夢”と“愛”をプレゼントしてくれてるから、もらってるよ。大丈夫だよ。」


「ほんとう…?」


「うん、“おじいちゃんみたいに愛してくれる理想の夫を持つ夢”と、“おじいちゃん位、大きな愛”をいつもくれてるから、大丈夫。一生懸命、少ないお小遣いを貯めて、誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントも良い品を買ってくれるし、ご飯も作ってくれるし、お掃除も洗濯も出来るし。何より、“小説家になる夢”を叶えて、一緒に見せてくれる旦那なんて、なかなかいないから、楽しいよ。」


「ほんとーに!?ほんと!?」


「うん、ほんとーに、ほんと。」


 さっきまで泣いていたのが嘘のように、ニコニコ子どもみたいにはにかむ明を、裕美はギュッと抱きしめた。


 付き合う前から、ずっと、分かっていた。いくら無視をしたり冷たく突き放しても、明が、少ないアルバイト代を握り締めて、ワクワク心を弾ませながら、裕美にプレゼントを届ける日をいつも数ヶ月も前から待ちわび、他の物を我慢したかもしれない“お金”で、誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントを奮発していた事。それは、いつかの裕美が、アルバイト代として明に渡していた“本当の愛が詰まったお金”が、プレゼントになって還ってきた形なのかもしれない。


「いらない。」


その“愛”が重いと感じて、そんな風に拒否をし、逃げ出した事もあった。でも、どうしても、毎回プレゼントを受け取ってしまう。明の連絡先を消す事は出来なかったし、忘れる事は到底無理だった。今なら分かる。


(私は、ずっと、今、明と過ごしているような、“本当の愛が詰まった日々”が欲しかった。裏切られる心配を微塵も感じない、子どものように泣きわめくような“仮面のない私”でいても良い、安心して呼吸が出来る、笑いの絶えない“優しい温かい居場所”。)


「ひろみ、いいにおーい。」


幸せそうにうっとりとして、裕美の匂いをクンクンと嗅ぎながら、呑気そうに明は言う。


(もう、離さない。逃げない。“私達が作り出したこの優しい空間”を守るために、私はもっと、強くなる。) 


決意を新たにした裕美の腕に、力がこもる。裕美の腕が強張っているのを感じたのだろうか。


「裕美。」


名前を呼ばれて頭を上げると、明は、裕美の頭を優しく撫でて、そっとキスをした。


「いつもありがとう。ずっと、一緒にいよう。僕も頑張るから、一人で頑張りすぎないでね。」


「いいよ。でも、もう“私と君は不労所得”だから、お互いのんびり楽しく頑張り過ぎないで行こう。」


「うん!!」


「じゃあ、明が私のために貯めてくれた“一万円貯金”で、今日の私の夢を叶えて。」


「いいよ!なになに!?」


「美味しい物が食べたい。」


「焼き肉食べよ!!いつも行く焼き肉屋さんの、一番高いコースを食べちゃお!!」


「またお肉ー?たんぱく質摂りすぎじゃない??それに、明、炭火焼きの火が怖くて一人で焼き肉焼けないから、私がまた焼く係じゃーん。」


「一緒に焼く!頑張れば、火も怖くない!」


 はしゃぎながら差し出された明の手を取り、ぶつくさ文句を言いながら立ち上がった裕美は、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、呟いた。


「もう、頑張らなくていいよ。」


それは、自分自身と夫への、“本当の愛が詰まった言葉”だった。


















  


 














 





 


 




 



 



























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