第20話

 朝のホームルームが終わり、教卓に積まれた数学のワークの前に立った。

 名簿を取り出して、未提出の人の欄にバツをつけていく。最後の一冊を手に取り、裏返して名前を確認したとき、名簿にバツが着いていたのは、僕と五百木さんと浜田さんに三人だけだった。

 あの禿頭の数学教師が、

「え〜、今回の課題は簡単でなんで、必ず提出してください」

 と言っていたことを思い出す。

 五百木さんはそもそも学校に来てないし、浜田さんはバツ常連だ。そして僕も3回連続でバツがつき、その常連組に片足を突っ込んでいた。

 でも、今日ばかりは許して欲しい。帰宅して、机の前に座っても頭が働かないのだ。脳みその容量には限界がある。僕はそのほとんどを、五百木さんのことで使っていた。

 やはり、もう逆転の芽はないのだろうか。今までは守備に徹して何とか0対0の同点に抑えてきた。しかし、アディショナルタイムに入って希望が見え始めて油断した途端に、ハットトリックを許してしまったような感じ。サッカーに例えるとそんな気分だった。

 なんとか僕の考えすぎだと信じたいのだけれど、胸の中の嫌な感触は消えない。

 チェックを終えたワークの山を抱え込んで、僕は教室を出た。

 職員室の外にあるラックに、提出物を置いたところで後ろからガラガラガラッと音がする。

 見ると、職員室から数学教師が出てきた所だった。

 先生は、僕を視界にとらえるなり、にやっと気持ちの悪いと言ったら言い過ぎだが、あまり気分の良くない笑みを浮かべる。

 何か妙案を思いついたかのような顔だった。

「いいところにいた、久保」

 先生が気安く僕の方に手をポンと置いた。シワシワな手である。

「今日の放課後、暇だよな?」

「えっ、あっ、はい」

「じゃあ、本当は私が行くつもりだったんだが会議が入ってしまってね。代わりに、五百木さんの家に行って、昨日お前が届けてくれた進路希望調査を………」

 続きは分かるよなと言いたげに、眉を吊り上げた目で僕を見てくる。僕はさっさと視線を逸らし、言った。

「分かりました。僕が行きますよ」

 僕はほんのちょっと、濃度で言えば1%にも満たないほどの苛立ちを含んだ声を出した。しかし案の定、先生は感知しなかったようで、パッと顔を綻ばせて、

「助かるよ」

 と、もう一度肩をポンと叩いて今にもスキップをしそうな足取りで去って行った。また仕事を押し付けられてしまった僕は、100%の呆れを溶け込ませた視線をその禿頭に送っておく。

 昼休み。五百木さんが来なくなってから、僕はお弁当を横を向いて食べることが多くなった。その視界の先にいるのは、優馬くんと浜田さんだ。といっても、僕は主に二人の話を聞いてたまに相槌を打つくらいである。

 そんな僕を気遣ってか、優馬くんが話を振ってくれることがあるのだが、まだまともな話をできた試しがない。大体当たり障りのない会話になってしまう。本心を曝け出したことなど、一度もなかった。

 だが今日は違う。珍しく自分から喋り出した僕に、二人が真剣な眼差しを向けてくる。優馬くんは、お弁当を置きそうな勢いだった。そんな感じで聞かれると逆に話しにくいのだが、そんなことも言ってられない。

「あの、お願いがあるんだけど……」

「おう。何でも言ってくれ」

 僕が言うと、食い気味に反応した優馬くんが箸を持ったままの拳で自身の胸をドンっと叩いた。僕は心の中で感謝して、続ける。

「もし時間に余裕があれば、二人に五百木さんの所へ行ってもらいたいなと思って」

 そこまで言い切って、僕はフーゥと息を吐き出す。少しだけ、胸が軽くなった気がした。勘違いかもしれないけど。

「もちろん!俺たちもそろそろ行こうと思ってたとこだよ。もうすぐテスト期間で部活も無くなるし」

 僕たちの高校では、テスト一週間前になると大会が近い部以外は活動が禁止となる。もちろん僕もそれはわかっていた。今まで僕は帰宅部だから放課後は暇だったけれど、二人は暗くなるまで活動し、帰ってからも課題をやらなければならず(浜田さんはやっているのか怪しいけれど)、忙しそうだったのだ。だから、前々から考えていたことだたけど、このタイミングで話を持ち出した。

「私も、凪沙のこと心配」

 浜田さんがこんなにも低いトーンでものを言うのは稀だった。それだけ、二人にとって五百木さんは大事な存在なんだろう。

 これだけの会話で、僕の心配は杞憂だったと分かった。僕がお願いするまでもなく、二人は五百木さんの元へ向かっただろう。

「もちろん凪沙の家は行くけど、何で急に改まってお願いなんてしたんだ?」

 僕がほっとしていたところに、優馬くんの声が優しい酸性雨となって降り注いできた。それは僕の心に埋まった悩みの種を育ててしまう。酸性雨なんだから、枯らしてくれればいいのに。

 もちろん理由もなく、優馬くんや浜田さんに五百木さんの所へ行くようにお願いしたわけではない。

 そして、その理由は単純だ。もう僕は、五百木さんとうまくやっていく自信がなかった。

 僕は五百木さんの部屋の前で正座をし、ハキハキした声で、

「ごめんなさい」

 という自分を想像する。すると、五百木さんも戸惑いつつ部屋の中から、

「いいよ」

 と言ってくれるような気がしている。でも、もし許してもらったとしても僕の心には、嫌な感じの気まずさが残り続けると分かっていた。

 あのときも、同じ感覚だったはずだ。

 細貝遼。男臭い野球部員でかつての親友。今まで同じ方向を向いていたのに、他愛もないきっかけで、僕たちはお互いにそっぽを向いた。でもその時は、真逆を向いていたわけではない。ちょっと視線をずらしただけだ。でも、一度歩む方向がずれてしまったらもう再び平行に並ぶことは叶わなかった。

 あのときも、遼と和解したところで、それまでのような関係には戻れないと確信していたのだ。

 だから僕は、彼とはねじれの関係のまま歩き続けた。

 五百木さんとも同じような道筋を辿る気がしている。遼との失敗を活かして、できるだけ誰とも関わらず、波風を立てずに生きようとしていたのに、どうして気がついたら同じ過ちを犯そうとしているのか。

「おい、久保。どうした?大丈夫か、急に考え込んで」

 優馬くんの声が、僕の意識を現実世界に戻してくれた。僕の心に雨を降らせた彼は、今度はハサミを持って悩みの種から出た芽を切り取ってくれる。しかし、種が取り除かれたわけではない。

 また何かしらのきっかけで、再び芽を出し、いずれ黒い花を咲かせるだろう。

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