第0-5話 ふんわり

 五歳になっても、私はこの環境に何も変化をもたらせずにいた。変化と言えば、ローウェルたちが私から距離を置くようになったことくらいだろうか。


 私はもう何度読んだか分からない、「魔族と人間」という本を引っ張り出して、広げる。簡単に言えば、王都で暮らしていた少女が、魔族だと気づかれて、殺される話だ。


「──にんげんは、わたしが、まぞくだと、わかると、すぐに、わたしの、てあしを、しばりました。そして、きの、ぼうに、わたしを、くくりつけて、ひに、かけました。『たすけて!』そうさけんでも、だれも、たすけては、くれません」


 

 ──。


「──にんげんは、とても、おそろしい、いきものです。にんげんは、かんたんに、ひとを、うらぎります。ときには、たいせつな、ひとを、ころすことも、あります。にんげんに、であったときは、ぜったいに、まぞくだと、きづかれては、いけません」


 人間だけじゃない。魔族だって、裏切る。でも、同じ思いをしているのは、私一人じゃない。それが分かっただけで、少しだけ、元気をもらえた。


 私は角を撫で、指に尻尾をくるくると巻きつけて遊び、


「角、引っ込め!」


 角を上から叩いた。今日こそ引っ込めと、思いを込めて、思いっきり叩いた。


「うぐっ! 痛い……」


 そして、負けた。今度は尻尾に頼む。


「ねえ、尻尾。ちょっと引っ込んでくれない?」


 そういうと、尻尾は先の尖った部分で、背中をぷすっと刺した。


「いぃつぅっ!? 何すんのよ! 痛いでしょ!?」


 それから、しばらく、なんとか引っ込められないかと試行錯誤していたが、今日も無理だった。


 仕方ないので、窓に向かって、また、ぴょんぴょんと跳んでみる。


「でも待って。私以外の魔族はここを通れないわよね」


 窓は小さく、私は子どもだから通れるものの、大人になれば通れないということに、気がついてしまった。


 つまり、手が届くまで待っていては遅いのだ。しかし、このまま毎日ジャンプしていても、窓枠に手を届かせるのは不可能だ。何か別の方法を考えなければ──。


 そのとき、鉄扉が開かれた。いつもとは違う時間だ。私は目を見開いて驚き、反射的に振り向く。そこには、ダイヤがいた。


「体調に変わりはないですか?」

「う、うん」

「少し、待っていてください」


  部屋の外には、薄い桃髪に水色の瞳の少女がいた。少女は心がふんわりするような、可愛い笑みを浮かべていた。角と尻尾は見当たらず、私より少し、歳上のようだ。


「中に入れ」

「そんなに怖い顔しないでほしいな。ほら、お姉さんの美人な顔が台無しだよー?」

「早くしろ」

「はーい。ん? この子は?」

「本人に聞け」

「子どもにはもっと優しくするものだと思うなー」


 少女がそんなことを言うと、ダイヤはなにも言わずに鉄扉を閉めて、鍵をかけた。


「うーん、出ていくのは、ちょっと厳しいかなー」


 足音が十分遠くなったのを聞いて、少女がそう言った。私は何も言っていないのに。


「あたしがここから出ようとしてるって、なんで分かったわけ?」

「だって、そこだけ床の色が変わってるでしょ? それに、そんなのなくても、こんなところに閉じ込められてたら、逃げたいと思うのが普通だと思うなー」


「普通──?」


「うん。今そう言ったでしょ? 聞こえなかった?」

「聞こえたけど……。だって、あたしが逃げようとすると、色んな人が怒るから」

「じゃあ、聞くけど、普通って何かな」

「広く通用する、みたいな──」

「広くって?」

「みんな?」

「あなたにとってのみんなって、誰? 何人?」

「五人か六人──」


「あっははっ! あなた、世界に人間と魔族が何人いると思ってるのかな?」


 考えたこともなかった。確かに、窓から見た世界はすごく広かった。私の兄弟も百人いるという話だし、きっと、一万人くらいは──、


「今はねー、百億人くらいいるんじゃないかなー」

「百億!?」

「うん。ちょっと多いかもしれないけど、だいたいそのくらいだよー」


 それが事実なら、みんな、という言葉は一体、いつ使えばいいのだろうか。なんのために、こんな言葉を生み出したのだろうか。みんなに当てはまるものなんて、せいぜい、生きているとか、そういうことしかない。いや、幽霊さんたちは死んでいるのだった。


「みんな、って、何……?」

「わたしには難しいことは分かんないかな」


 私が頭を抱えていると、少女は部屋を見渡して、本を窓の下で積み始めた。


「何してるの?」

「これを踏み台にして……よいしょっと」


 部屋の本をすべて積んだ上に、少女は立ち、窓に手を伸ばした。それでも、まだ全然、高さは足りない。


「……うん。あと三年もすれば、十分届きそう──」

「何してるわけ!?」


 私が怒鳴ると、それに驚いた少女がバランスを崩し、危うく落ちかける。しかし、本が崩れる前に少女は飛び降りた。


「何って、見て分からなかった?」

「本を踏むなんて……。本は友だちなの! 謝って!」

「ほえっ? ──あー、なるほどね。あなた、雲の上に乗れるって、そう思ってない?」

「……乗れないの?」

「乗れない乗れない。あのね、雲って言うのは、水なの。水は分かるかな?」

「分かるけど……浮かんでるんだから、乗れるんじゃないの?」

「水は浮かべても、あなたは重いから無理でしょ?」

「でも、あたし、水に浮けるわよ? お風呂のとき、こう、ぷかーって」

「うーん。あなた……面倒くさいね。それくらい自分で考えた方がいいよ」


 私は顎が外れそうなほど、口を大きく開けた。面倒くさいと言われたことに対してではない。こんなにも、会話が続いてしまったことに驚いていたのだ。


 そうして、少女を目で追っていると、


「ごめんね、本たち。また、高さを見るために踏むからよろしくー」

「よろしくじゃないでしょ!」

「あーうんうん。そうだね、友だちを踏んじゃだめだもんね。はいはい」

「ううぅぅ……っ!」


 そうして唸ると、少女は笑って、本を窓の下からどけて、元の位置に置き直した。


「わたしは、まゆみ。家名はないの。まゆって呼んで」

「へー……」


 家名がないということは、何かわけありなのだろうか。それとも、家名がない方が多いのか。


 なぜ、まゆみと呼べばいいのに、まゆと呼ばせたがるのか。仲良くなりたいから? そんな風には見えないけれど。


 そもそも、なんでこの子は急に、ここに来ることになったのか。これまでずっと、そんな気配は少しもなかったのに。──いや、ずっと、という言葉も怪しい。私はまだ五歳だ。百億人もいるのなら、百億年生きている人がいてもおかしくはない。


「うーん、分からないわね……」


 さっぱり、何一つ分からない。一つだけはっきりしているのは、この子は、本の敵だということだ。


 すると、まゆみは不意に、ため息をついた。


「な、何?」

「あのね、名乗るってことは、あなたの名前も教えてってことなの。──あなたの名前は? って、いちいち聞かないと分からないかな?」

「いちいち、嫌な言い方するわね、あんた……」

「あなたもいい勝負だと思うよ」


 私は、この少女が苦手だ。そう感じた。


「あたしはマナ・クレイア。それから、あたしのお父さんは──」

「魔王でしょ?」

「は? なんで知ってるの?」

「だってあたし、魔王サマと知り合いだから」


 それなら、私の名前も知っていたのではないだろうか。なぜ、わざわざ聞いたのだろう。いや、私もお父さんの名前は知らないし──、考えることが多すぎて、こんがらがってきた。


「魔王って、どんな人? 世界の秩序は保ててるの? なんであたしは外に出られないの?」

「んー……面倒くさいから、わたし、もう寝るねー。おやすみー」

「ねえ、教えてってば──」

「寝ようとしてる人を起こすのは犯罪だよー」

「は、犯罪!?」


 それはダメだと、私はすぐに口を手で押さえて、まゆみから離れた。そして、部屋の隅まで静かに歩いて、静かに本を読み始めた。



 それが嘘だと気がつくのに、一年かかった。

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