第43話 百合透花
――あの強い瞳に、わたしは当てられてしまったんだ。
百合透花。
それがわたしに与えられた名。
それがわたしに与えられた役割。
物心ついた時、わたしには自由と呼べるものがほとんど無かった。
ピアノ、ヴァイオリン、バレエ、日本舞踊、茶道、華道、書道、語学――。
一日に何人もの先生が代わる代わるやって来ては、様々な知識と技術をわたしに詰め込んだ。
先生の顔も名前も、今では霧がかかったように上手く思い出せない。
ただ、ひたすら苦痛だったことだけはよく覚えている。
こんな風に言うと虐待だとか、酷い親だとか言われるかもしれない。
わたし自身、そう思っていた時期もあった。
でも今なら分かる。
両親が誰よりもわたしを愛してくれていたことを。
父も母も必死だっただけなのだ。
わたしを百合家の淑女として相応しい人間に育て上げなければならないという重圧。
聞いた話では、父は祖父が決めた許嫁をふいにして、周囲の反対を押し切り、庶民である母と結婚したのだそうだ。
なんて素敵な話だろう。
真実の愛を貫いた感動的な話。
でも、それだけでは済まされないのが現実だった。
──強大な力に逆らったからには、代価が必要になる。
父と母には『二人が結ばれたことは百合家にとって間違いではなかった』と、証明する義務が生まれたのだ。
それは二人にとって、どれだけ大変なことだっただろうか。
きっと、そういう色々の一端が、わたしにも
幼いなりに、わたしも両親の苦悩は感じ取っていた。
だから頑張った。
頑張ろうとした。
でも、わたしは普通の子供だった。
──辛かった。
外で自由に遊んでいる子供たちを見るのが辛かった。
同年代の友達が一人も居ないのが辛かった。
大好きな両親と過ごす時間が、あまりにも短くて辛かった。
才能あふれる兄が、次々と課題をこなし、どんどん先へ行ってしまうのが辛かった。
辛くて、辛くて、辛くて……。
六歳になったある日、わたしは初めて家から逃げ出した。
目指したのは、屋敷の近くの公園。
車で通ると、いつも子供たちの楽し気な声で溢れかえっていて――いつかわたしも、あの中に交じって泥だらけになるまで遊んでみたいと、ずっと願っていた場所。
──眺めるだけの憧れの場所。
走って、走って、走って――でも、やっと着いた公園には、もう誰もいなくて。
夕暮れに沈んでいく公園で、わたしはただひたすらに泣くことしかできなかった。
でも、そんな時に出会ったのが総くんだった。
丸いドーム型の遊具の中に隠れていた、少し太った男の子。
『泣いてるし、頼りなさそうだし……この子と遊んでもつまらなさそうだな……』
最初の印象はそんなもの。
こんな所でひとり隠れて、めそめそ泣いて、カッコ悪いとさえ思った。
でも、いざ隣に座ってみると居心地が良くて、不思議と安心できた男の子。
同い年くらいの子供と話したことなんてなかったから最初は戸惑ったけれど、たどたどしくも自己紹介した後は一気に話に花が咲いた。
それは、子供らしからぬ恨みつらみのオンパレード。少年少女の不幸自慢大会。
彼がイジメられたことを話せば、わたしはピアノの先生に叱責されたことを話した。
彼が太っていることを馬鹿にされたと話せば、わたしは仕事ばかりの両親への不満を漏らした。
それは健全な遊びとは到底言えなかったけれど、それまでの人生で一番楽しい時間で、初めての友達と喉が痛くなるくらい喋って、お腹が痛くなるくらいに笑った。
──今でも鮮明に覚えている。
あの時わたしは間違いなく総くんに救われた。
与えられた役割としての
それからしばらくして、使用人がわたしを迎えに来た。
総くんは別れ際、わたしを好きだと言ってくれた。
いつか迎えに行くと言ってくれた。
──嬉しかった。
だから、わたしもずっと待ってると答えた。
六歳の男の子と女の子の約束。
それはまるで、おままごとのようなプロポーズ。ホームビデオなんかでありそうな微笑ましい光景。
でも、わたしと総くんは真剣だった。
それからの総くんの快進撃は説明するまでもないだろう。
総くんは努力に努力を重ね、みるみるうちに勉強も、運動も、他のどんなことでも誰にも負けないヒーローへと成長していった。
総くんとわたしは違う小学校に通っていたから滅多に会えなかったけれど、家を抜け出してたまに会いに行くと、その度に顔つきや身体つきが変わっているのが、驚きを超えておかしくすらあった。
しばらくすると、総くんは兄さんと同じ武術の道場にも通い始めた。
大人の門下生ですら敵わなかった兄さんを相手に、総くんが五分の勝負を繰り広げるようになるまで、そう時間は掛からなかった。
あの堅物な兄さんも総くんを認めてくれたようだった。
でも『総一郎は百合家に相応しい男だ』なんて大声で話すものだから恥ずかしくて仕方なかった。
そんな総くんの成長を、幼いわたしはまるで自分のことのように嬉しく、誇らしく思っていたのだった。
それからまたしばらく時間が経って、中学からは同じ学校に通えるようになった。
お爺様が創設した中高一貫の進学校。
それなりに裕福な家庭の子供ばかりの学校だけれど、総くんは学費が免除される特待生の座を見事に勝ち取ったのだった。
入学式で誇らしくピースする総くんの姿に、つい泣きそうになったことを覚えている。
それからは多くの時間を総くんと過ごした。
総くんの努力と、兄さんの説得もあって、百合家からの総くんへの評価も高まり、私は総くんと結婚することを条件に、悩みの種だった婚約を破棄することもできた。
自由な時間も増えて、人生が楽しいものだと初めて思えるようになった。
総くんの将来を勝手に決めちゃって悪い気もしたけれど、でも総くんがわたし以外の誰かと結婚するなんて想像できなかったから……。
だからいいかな、なんて心の中で舌を出したりして。
──順風満帆に思えた。
──毎日が輝いて見えた。
強く格好良く成長した総くん。
その隣に立っていても恥ずかしくないように、わたしも努力した。
百合家の淑女として完璧であろうとした。
総くんが憧れてくれた〝百合透花〟であろうとした。
苦手だった運動も頑張って克服した。
勉強だって、総くんに置いて行かれないよう必死だった。
その努力がいつかは報われると信じてた。
このままふたりで成長して、高め合って、そしていつかは大人の恋に落ちる。
結婚して幸せな家庭を築く――そう信じて疑わなかった。
でも――。
今から三年前、中学二年の春。
わたしが初めて恋に落ちた相手は、一つ年下の女の子だった。
それまで自分が恋だと思っていた感情は本物ではなかったのだと、その時初めて知った。
本物の恋の甘さに酔いしれ……絶望した。
総くんには言えなかった。言えるわけがなかった。
怖かった。怖くて、怖くて、怖くて……悲しかった。
大好きな人だった。
大切な人だった。
散々傷付けておいて、今更何を言っているのかと罵倒されても仕方がないけれど。
恋人や家族にはなれないけれど。
それでもわたしにとって、総くんは誰よりも大切な人だったから……。
真実を告げようと何度も思った。
けれど、わたしを真っ直ぐに追い続ける総くんを前にすると、言葉が出てこなかった。
──どうしても無理だった。
わたしを追い求める総くんの真っ直ぐな瞳。あの強い瞳に、わたしは当てられてしまったのだ。
結局、わたしは総くんが憧れる〝百合透花〟を演じ続けた。
いつか来る終わりに、怯えながら。
いつか来る終わりを、待ち望みながら。
――そうして、わたしは裏切り者になった。
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