第20話 元メイドには染み抜きだってお手の物
その日、シルヴィオ王子が屋敷へ帰ってきたのは、かなり遅くになってからのことだった。
しかも、まだ仕事が残っているから今日はこれから残業まですると言う。
「そこまでお忙しいなら、わざわざ食事の時間を合わせてくれなくてもよかったですのに」
「こうして一緒に食事をするのは、最優先事項だ。仕事なんかよりもよっぽど大切なことさ。むしろ一日はこのためにあるといっていい」
彼は当たり前のように、明らかに過大なことを言い放って、チキンソテーにナイフを入れていく。
一見朝に見たときと変わらないいつもの彼なのだけど、どういうわけか握ったナイフをそのまま卵スープにちゃぽんと。
「……あの、それスープですよ?」
「あ、あぁ、うん。そう言ってもらえるのを待っていたんだ。笑ってくれていい」
そうは言われても、だ。
冗談などではなく、彼が疲れ切っているのは側から見ていれば明らかであった。
ただ、抱えているのは大事な仕事だろうから、今は休んでくださいとも無責任には言えない。
かける言葉に迷った末、取った行動はスープがこぼれたテーブルを拭くことだった。
また使用人時代の癖が出てしまったらしい。
使用人が出てくるより先に、近場にあった布巾で、テーブルの上を一通り拭う。
綺麗になったことを確認してから顔を上げてみれば、
「……お恥ずかしい限りだ」
今度は白地の服の上、トマトスパゲッティがべったり落ちてしまっていた。
これはかなりの重症だ。
「そちらの服は、あとで私に貸してください。染み抜きはしておきます。絹が素材ならば、そう難しくありません。得意ですから」
甥のレッテーリオが汚した服を洗うため、何度やったことか。
どうすれば落ちるのかは、この身でもってよく理解している。
「…………アンナ様はそのようなこともできるのですね」
「はい、得意ですからお任せください。今日中には対処しますから」
「ですが、アンナ様もお疲れなのでは?」
「シルヴィオ王子ほどではありませんよ」
正直に言えば、身体は全然元気だ。
もう何年も毎日のように過重労働をしてきた。ほとんどすべての裏方仕事は私に丸投げされていたのだ。だてに5年以上もこなしたわけではない。
むしろ、鍛錬の時間は長くないため物足りなくすら感じる。
それでなくとも、ここへきてからの私は、シルヴィオ王子に助けてもらいっぱなしだ。
こういった些細なことで恩を返せるならば、むしろ喜んで働きたい。
そうとさえ、私は思っていた。
食後しばらくして、私はまずシャツの染み抜きに取り掛かった。
染み抜きは時間との勝負だ。
洗濯を行なっているメイドたちに不安げに見守られながら、私はまず麻のタオルをシャツの下に滑り込ませる。
それから、濡らしたハンカチでもって上からとんとんと叩いていった。
「たったそれだけでいいんですか? 石鹸とかはお使いにならないんです?」
横からメイドが覗き込んできて、こう尋ねる。
お手本みたいな質問であった。過去にも、同僚の同じようにたずねられたことがあったっけ。
そんな過去を思い返していたら知らずのうちに、少し前のめり。饒舌になってしまった。
「ふふ、最初はこうしてあげることで、繊維に絡んだ汚れを下のタオルに移すの。あらかた取れたら、あとは洗剤につけて洗いましょう」
「アンナ様は、本当物知りでいらっしゃいますね。はじめて聞きました。貴族の方はそんなことも学ばれるのですか?」
「えっと、……これも独学です」
嘘は言っていない。
誰から学んだわけでもなく、繰り返しの中で習得した方法だ。
「すごい、本当にかなり薄れてます……!」
無事にうまくいってくれたらしい。
目立っていた汚れは、遠目に見れば分からないほどまで落ちていた。
それを見るや、メイドたちは私の周りを囲い、こぞってメモを取る。
こうしていると、少し前までの使用人生活に逆戻りしたようで少し不思議だ。
動きに障りがあったら困るからと、令嬢らしい余計な装飾の多い服ではなく、軽装をしているからなおのこと。
――けれど、ふと我にかえれば実際には違う。
私は使用人としてここへ来たわけではない。
聖女として、第一王子・シルヴィオの妃としてここへきたのだ。
使用人としてだけではなく、できればより一層彼に近い場所で。そのそばに寄り添える人として、力になりたい。
「ねぇ、みなさま。一つご協力いただきたいことがあるのだけど」
染み抜きが終わりに差し掛かった頃、私はメイドたちにこう投げかける。
それから、思いついたことを話してみれば……
「はじめは、ご年齢を聞いてどうなることかと思いましたけど……。若様がアンナ様を大切にされる気持ちが分かったかもしれません。本当にどうしてそこまで美しい心をお持ちになれるの……」
一人がこう言って、それにみんなが同意する。
しんみりと頷きあうから、対応に困った。私は両手をあげて顔を隠し、防御の姿勢をとって、言う。
「えと、やめてくださいな。そんなつもりじゃありませんから。それで、お手伝いいただけますか?」
もちろん、と彼女たちは誰一人反論することなく、気合いを入れなおしてくれた。
さて、私ももう一仕事だ。
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