Sing Sing Sing !

鹿森千世

最後の冬全日

 ――ガゴン。マイクに電源が入る音が、底冷えする十二月の体育館に鳴り響いた。


 その途端、しゅっと消えた喧騒、ぴりっと走る緊張。


 モップがけをしていた運営スタッフが、慌ててフロアから退場していく。


 私たち後輩応援団は、二階観客席から競い合うように身を乗り出した。


 今日の試合に出ない者たちは、全員が規定のリクルートスーツ。おかげで観客席は就活の合同説明会のようなありさまだが、ふとフロアを覗き込めばそこに見える光景に圧倒されてしまう。


 驚くべき異次元空間。


 脚のつけ根まで惜しみなくスリットを入れたスパンコールのドレス。ボディラインが異様に際立つ燕尾服と蝶ネクタイ。激しいネックアクションにも一糸乱れぬ頑強な夜会巻き。張りついたシャツから覗く、ドーランを塗りたくった褐色の胸筋。バサバサと音がしそうな付けまつ毛。クレオパトラに負けず劣らずのアイライン。凶器と言っても過言ではない猛禽のような付け爪――ど派手なダンス衣装と舞台メイクで完全武装したファイナリストたちが、長方形のダンスフロアの外側に待機している。


 ある者は心残りのないさっぱりとした面持ちで、ある者は祈るように両手を組み合わせ、ある者は緊張を解くためその場で小さく飛び跳ねながら、これからはじまるアナウンスに全神経を尖らせて。彼らの中に、私たちの先輩方の姿も見えた。


 冬の、全日本学生競技ダンス選手権大会――通称、冬全日ふゆぜんにち


 大学生ダンサーとしての最後の全国大会だ。四年という短く貴重なキャンパスライフのほぼすべてを、「競技ダンス」に捧げた者たちの青春が、今日終わる。


 マイクの向こうから、進行係の女子学生の明るい声が鳴り響いた。


「――大変お待たせいたしました! 第六十二回全日本学生競技ダンス選手権大会、スタンダードの部、優勝者を発表いたします。優勝者にはそのまま、オナーダンスを披露していただきます」


 数メートル下に見える、蓮見先輩の少し小柄な、ツバメのような後ろ姿。ピンと天へ伸びた真っ直ぐな首筋。背番号――〈178〉


 こちらからその表情は見えないが、きっと全ての力を出し切って、つきものが落ちたような顔をしているのだろう。


「それでは、クイックステップの部から、優勝者を発表いたします」


 クイックステップ――その言葉で、私の全身にびりりと電流が走った。


 爆発寸前まで膨らんでいく無言の熱気。かじかむような冷気を一瞬のうちに呑み込んでしまう。


「――本日、優勝しましたのは――背番号178番! 蓮見幸太郎、浅井友里子組!」


 どっと巻き起こる拍手と喝采。限界突破した熱気が爆発した。


「まつりいぃぃぃいい! 蓮見先輩があぁぁぁああ!」


 隣にいた同期のさーやんが、奇声を上げながら私に抱きつく。


 興奮した先輩たちも、折り重なるように蓮見先輩の上になだれこんでいく。同期に揉みくちゃにされ、試合用に固めた髪が少し乱れた蓮見先輩が、笑いながら目の端を指で拭った。


 あの蓮見先輩が、泣いてる――


 そう思った瞬間、私の目と鼻の穴から、身体中の水分が流れ出した。


 蓮見先輩は、同じように目許を濡らした友里子先輩の手を取り、フロアの中央へ軽やかに駆け出した。


 広げた両腕が大きな羽のように見えた。惜しみなく降り注がれる賞賛と歓声、そのすべてを受け止め、宙を翔ける大きな翼。


「キングーー!」


 会場のどこからか、聞き慣れた呼び名が響く。


「キング!」「キング、おめでとー!」


 二年後期のシニア戦デビュー、蓮見先輩は上級生らを押し退け、クイックステップの部でいきなり優勝をかっさらった。それ以来、クイックステップではファイナリストの常連、関東の公式戦で何度も優勝を勝ち取った蓮見先輩を、自然と皆こう呼ぶようになった。


 キング・オブ・クイックステップ――クイックステップの帝王。


「蓮見! 曲はどうする?」


 ミキサー係が声を張る。振り向いた蓮見先輩は満面の笑みで、


「いつものやつ!」


 と高く両手を掲げた。


 いつものやつ――クイックステップの定番、蓮見先輩お気に入りのSing Sing Singだ。


 耳慣れた軽快なイントロ。心が躍り出すドラム音。皆を煽るように、蓮見先輩が両手を打ち鳴らす。それにつられて、会場にいた全員が裏カウントで手拍子をはじめた。リズムに合わせ肩を揺らし、両足は小さなステップを踏む。


 ここにいる全員が、音楽に身を委ねることに抵抗がない。私たちは皆、日本列島津々浦々で、同じだけの時間をダンスとともに過ごしてきた大学生ダンサーだ。ダンスという魔物に取り憑かれた名も知らぬ仲間が、いまこの瞬間一堂に会し、同じ光景を前に同じリズムをとっている――そんな当たり前のことが、今日は無性に奇跡的なことのように思えた。


 熱気が集中するフロアの真ん中、ふたりはホールドを組んだ。


 ふわりと風に靡く、天女の羽衣みたいな友里子先輩のドレス。小柄な蓮見先輩の身体が、いつもの倍は大きく見える。


 天上から世界を見下ろす、完璧なプロムナードポジション。


 サクソフォンがメロディーの頭を踏んだ。瞬間、蓮見先輩と友里子先輩が走り出す。はじめの一歩からアクセル全開!


 大きくホップ、シャッセ、シャッセ、1、2、3、4――観客すれすれを駆け抜けていく。氷の上を滑るように、何の足音もしない。二羽の小鳥がスピードを競い合うみたいだ。回る、回る、回る。回転しながらの連続シャッセ。テレマーク、テレスピン。優雅な弧を描く、燕尾服の尾羽。そしてフロアの角――


 ピタリ。


 世界が息を止める。もったいぶるようなハイホバー。優雅にしなやかに背中を反らせ、友里子先輩の爪先が宙を蹴る。


 呼吸を、鼓動を、まばたきを。見る者すべての感覚を支配し、上から見下ろす私たちのキング。割れるような喝采。熱狂と陶酔。


 煽って、焦らして、私たちの視線を釘付けにする。


 身を翻し、また動き出す。その場で飛び跳ね、爪先でリズムを刻む。ウッドペッカー、シャッセ、ペンジュラム――


 走り出す。スプリンターのようなスピード。助走のままに、大きく宙を舞う。


 あれほど高く跳ぶくせに、カウントは0.1秒遅れない。電波時計のように、正確にリズムを刻む。まるで先輩の筋肉の動き、ステップのひとつひとつに、音楽の方が従っているみたいだ。その速さに置いていかれないように――


 ついてこい、と蓮見先輩の背中が私たちに言う。


 遅れずについてこい、心躍る世界を見せてやる。



 ――まつりちゃんは、クイックが好きなの?


 入部して初めての強化練。それが終わった後の、打ち上げの席。勇気を出して蓮見先輩の隣を陣取った私に、先輩は聞いた。


 はい! 蓮見先輩が踊っている姿を見て、すごく感動して――私もあんなふうにフロアを走り抜けたいです!


 意気込む私を見て、蓮見先輩は嬉しそうに、でも少し困ったように眉尻を下げた。


 いつも寝癖でうねっている髪の毛。襟のよれたグレーのトレーナー。お洒落を狙ったのではないのが一目瞭然の、少し歪んだ黒縁眼鏡。一重の両目は、笑うと二本の線になる。


 見た目は近所のコンビニでバイトでもしていそうな、冴えない、平凡な大学生。この人があの「キング蓮見」と同一人物だなんて、いまだにちょっと疑っている。


 ――クイックはねぇ、ほんと大変なの。動きが早いから見てる方は楽しいけど、あれ、やってる方は地獄だからね。罰ゲーム。拷問。ただの苦行。


 ビールに顔を赤らめながら、蓮見先輩が愚痴る。


 だけど、そう思っているようにはとても見えない。だってフロアを駆け抜ける先輩は、いつも清々しく笑っていて、誰よりも楽しそうだ。


 そんなに辛いのに、どうして先輩はクイックをやるんですか?


 不思議に思って尋ねると、蓮見先輩は、あははと声を上げて笑った。ふにゃふにゃと頼りない、気の抜けたような笑顔。


 ――俺、たっぱがないでしょ。163しかないの。スタンダードやるには小さすぎるんだよね。スローアウェイなんて、手足の長いやつの方がどう見たって格好いいわけ。歩幅もでかいし、動きも派手だし、同じことしたら俺は絶対に敵わないからさ。


 本当にそうかな。蓮見先輩なら、他の種目だってきっと飛び抜けて上手いはず。


 承服しかねて顔をしかめる私を見て、でもね、と蓮見先輩は続けた。


 ――クイックだけは違う。あれは動けるやつの勝ちなの。人より高く跳んで、人より速く走った方が勝ち。こんな俺でも勝負できるのがあれしかないから、あれをやるだけ。


 ずっと昔に蓮見先輩から聞いた言葉だ。あんなの嘘だといまでも思う。


 こんな俺って、あれしかないって、そんな気持ちで、日本一になれるわけがないよ、蓮見先輩。


 滝のような涙と鼻水が、だらだら溢れて止まらない。小汚い私の顔を見て、さーやんが激しく吹き出した。


「まつり。あんたの顔、相当やばい。マスカラが溶けて、黒い線になってる」


 そう言われたところで、手鏡を取り出す余力さえ残っていない。


「わたしの顔など、バーコードにでも何でもなってしまえばいいのです……」


 隣で爆笑するさーやんだって、涙を指でこすったせいで、就活中のパンダみたいだった。


 蓮見先輩のオナーダンスは、一瞬のうちに終わってしまった。


 できるものなら、永遠に見ていたかった。永遠に、あの時間が終わってほしくなかった。たとえ蓮見先輩にとって地獄でも。


 今年の夏の、全日本学生競技ダンス選手権大会――夏全日なつぜんにちで、蓮見先輩は優勝することができなかった。二次予選、蓮見先輩カップルは他の選手と衝突し、転倒した友里子先輩が右足首を捻挫したのだ。


 体育館の隅、友里子先輩は人目も憚らず号泣した。泣きながら頭を下げ、蓮見先輩に謝り続ける。そんな友里子先輩を蓮見先輩が必死でなだめるのを、私は遠くから呆然と眺めていた。


 俺の不注意なんだから、そんなふうに謝るのはやめて。痛いのは友里ちゃんなんだし、俺の方こそほんとうにごめん。まだ次があるから大丈夫。次は絶対に。次は頑張ろう。次こそは優勝する――


 そして蓮見先輩と友里子先輩は、本当に次の――最後の全日本戦で優勝した。


 私は今日という素晴らしき日を――蓮見先輩が日本の頂点に立つ日を――おそらく本人よりも強く願っていた。お節介を通り越して気味が悪いと思われようと、毎日近所の神社に通い詰め、蓮見先輩が冬全日で優勝できますようにと神様に祈った。お賽銭を合計したら、優に一万円は使ったと思う。それなのに。


 もうこれで、ダンスフロアに立つ蓮見先輩とは、永遠におさらばなのだ。それをようやく実感しはじめて、心の中が果てしなく空っぽだ。空っぽすぎて、ダンスフロアのブラックホールになってしまいそうなほど。


 優勝トロフィーを誇らしげに掲げる蓮見先輩の姿。あまりに神々しくて、視界の中にぼやけて滲む。


 嬉しくて、嬉しくて、仕方ないはずなのに、悲しくて、悲しくて、いつまでも泣いていたい。

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