03.逢魔が時 前


 女に追われながら、ジョシュアはギルドまでの道のりを考えて舌打ちを打った。


 この街の外れから前を走る彼女を保護してくれるだろうギルドまでは、走っても四半刻近くはかかる。道のりだって良くは知らない。


 そもそもが、ジョシュアはこの街に来たばかりなのだ。ギルドと遠隔通信をする手段すら持たない。

 果たして、そこまで追い付かれずにこの女から逃げ切る事ができるのだろうか。ジョシュアにはそれがまるで、絶望的な博打のようにも思われた。


 喧嘩を売ってしまった自分は助からないのだとして、どうにかこの女性だけは助けなければならない。そうでなければあの場に自分が突っ込んだ意味がないのだ。

 こんな状況下で、ジョシュアがそういった思考になるのは当然の事だろう。何せ彼は、人々の助けになるべきハンターなのだから。


 ジョシュアが導き出した答えは、女とこの女性を出来る限り引き離す事だ。この程度の作戦ですら上手くいくかは賭けではあったが、彼女を助ける道はそれだけしかないように彼には思われた。


 ジョシュアは覚悟を決めると、目の前を走る女性に声を掛けた。


「あの女を引き止める。貴女は近くのハンターギルドに駆け込んでくれ。そこで、ありのままを報告してくれ」

「っ、でも貴方は……」

「俺はハンターだ。助かる確率は高い」

「お名前は? ……せめて、教えてください」

「……二人とも助かったら、教える」

「っ分かりました」

「行ってくれ、振り返るなよ、駆け抜けてくれ。もしかしたら、間に合うかもしれない」

「ありがとう、ござます。また、必ずお会いしましょうね?」


 こくんと首を縦に振りながら女性を勇気づける。


 運が良ければまた生きて会えるかも知れないなんて。全く思ってもいない事を自分自身にすら言い聞かせながら、ジョシュアは手に握ったナイフを胸元に掲げる。


 そして、いよいよ背後に迫り来る恐怖に対峙すべく、体を捻りながらぐるりと振り返った。


「!」


 驚いたかのように瞠目した女目掛け、振り向き様に手持ちのナイフを投げ付ける。足先でブレーキをかけながらもう一本、時間差で投げ付ける。しかしやはり、女にはどちらも軽々と避けられてしまった。


 実力の差を思い知らされるもしかし、女の足はそこで止まった。遠ざかる女性を追いかける様子も見られない。ジョシュアの作戦は一部成功したといえる。それには少しだけ胸を撫で下ろしながら、しかしジョシュアは再び手持ちのナイフを手にした。


 震えそうになる手元を必死で押さえつけながら女を見上げる。せめて、彼女がギルドに駆け込むだけの距離と時間を稼げればと。ジョシュアは努めて平常心を装っていた。


「危ないな。ああ成る程、お前が足止めか……寸刻も保つのか? お前程度で?」

「一般人を巻き込む訳にはいかない」

「巻き込む? 首を突っ込んできたのはお前の方だろうが。せっかく、苦労して取り入った獲物を逃すなんて……」


 はぁ、とわざとらしく溜息を吐く女の姿は、どこからどう見てもヒトのそれであった。しかし、その気配だけはやはり異様だった。


 ジョシュアよりも頭一つ分は背が高いだろうか。それでも、見た目だけは麗しく妖艶であった。

 腰程まであるウェーブの黒髪が、その白い肌に映える。切れ長の目に鈍く光る紅い虹彩は、月明かりとも相まってなんとも怪しい雰囲気を醸し出していた。


 店で見た時とはまるで違う女の気配が、ジョシュアに残酷な事実を突き付ける。

 勝てない。どう考えても殺される。そのような想像しかできなかった。


 こんな、独りきりでの修羅場は初めての事だった。仲間がいないのはこうも心細い。いつだったか、共に戦ったかつての彼らの事を思い出しながら、ジョシュアはその手を握りしめた。


 どうにもできない事をどうにかできないかと考えてしまう。

 けれども、長年の経験から察している。この女は、小手先の技術でどうこうできるレベルの相手ではない。

 魔族の――それも恐らく高位だろう女。

 凡庸な技術しか持たない今のジョシュアが、相手になるはずもなかった。無駄に経験だけはある戦闘の苦手なハンターなど。


 本当は今すぐにでも逃げ出したい。逃げ出して、これから始まる新しい生活を楽しみに生きたい。だがきっともう、そんな生活など戻っては来ない。

 だからこそジョシュアは、それならばと最期くらいは格好付けたかったのだ。


「お前、随分と肝が座ってるな。私を見た人間は、ハンターすら逃げ出すんだがね」

「逃げられる相手とそうじゃない相手くらい見分けがつく。逃げられるんなら脇目もふらずにとっくに逃げている。……でなきゃ長年ハンターなんてやれていない」


 出来るだけ会話を引き延ばせればと、無駄に足掻いてみる。女は、先程まではあの女性とあれだけ楽しそうに長々と会話をしていたのだ。

 少し位なら、ジョシュアのような人間との会話にも付き合ってくれるかも知れない。


 上手くいけば、あの女性がギルドに駆け込み助けが来て、自分の命も助かるかも知れない。

 話下手で人見知りなジョシュアが。藁にもすがる思いで、必死に口を動かした。


「ん? お前、若そうに見えてそうでもないのか? 歳はいくつだ」

「……は?」


 突然の女からの質問に、ジョシュアは呆気に取られる。予想外の女の言葉に、何をしているのかも忘れて呆けてしまった。そんなジョシュアに、女はやはり楽しそうに言う。


 まるで暇つぶしでもするかのような、緊張感のかけらもない問いかけだ。ジョシュアも気付かぬ間に、女の殺気はすっかり消え失せてしまっていた。


「お前のせいで獲物を逃したのだ。暇つぶしに付き合え。もしかしたら、帰れるかもしれんぞ?」

「……35、くらいだろう」


 そんな言葉を信じられるか、なんて思いながらも、ジョシュアの方も時間稼ぎのそれに付き合ってやる。本当に助かるかもしれない。万が一、といった事もある。

 呆気に取られながらも何とか、ジョシュアは女の話し相手をするのだった。


「ほう。その年齢は今の人間からすれば若いのか? どうなんだ?」

「は……あ、いや、別に若くはないだろう」

「ほう? ならばお前は何故、ハンターなんぞを続けているのだ? もっと楽に生きていける道もあるだろうに」

「何故と言われても……俺に出来るのなんてこれしかない。生活の一部だから」

「成る程成る程。だが、お前は、この私に出会って尚、そのハンターだのを続けるのか?」

「生きていけるなら何でもいい。アンタが見逃してくれればの話だが」

「それもそうか」


 緊張感のまるでない会話に、ジョシュアは分からなくなる。命の危機だと言うのに、一体自分は魔族相手に何の話をしているのだろうかと。

 先ほどまでは、あっという間に首を掻き切られるような、そんな危機感を感じていたというのに。緩みそうになる緊張感を繋ぎ止めるのに苦労した。

 しかし、その次の瞬間だった。


「だがな、小動物とは言えこの私が逃すわけなかろう?」


 そこでジョシュアは息を呑んだ。女は情け容赦もなく突然フッと笑みを消したかと思うと。そう言って再び、殺気を身に纏い出したのだ。

 瞬く間に周囲が、女の発する力の気配に包まれる。先程と同じだ。


 魔術に疎いジョシュアにも分かる程の膨大な魔力。それと同時に、周囲に何やら結界のようなものが張られたのが分かった。


 これでもう、ジョシュアと女とを邪魔できる者などいない。騒ぎに気付いて駆け付けた者があったとして、ジョシュアがそこにいることにも気付かないだろう。これはそういった類いの結界だった。

 ジョシュアは一気に、現実へと引き戻されたような気分になった。


「折角見つけたご馳走の邪魔をしてくれたのだ、私が満足するまで付き合ってもらう。妙齢の処女なぞ早々居ないのだぞ? ここまで連れて来るのに私がどれだけ時間をかけたと思っているのだ。せっかく、何度も味わおうと思っていたのに……」


 そう言って、見せつけるようにわざとらしく大きく溜息を吐いた女を見て、ジョシュアはようやく気付く。


 処女の女性をご馳走と呼ぶ魔族で、鋭く伸びた牙で首筋に噛み付こうとするような種族。ハンターならば嫌でも気付いてしまう。

 その女の正体に、ジョシュアは戦慄した。


「……アンタ、吸血鬼か」


 そんなジョシュアの声を聞いた途端、女はニヤリと笑った。その姿にゾッとして、危うくナイフを取り落としそうになる。


「如何にも」

「最高位の魔族……滅んだはずじゃあなかったのか」


 ジョシュアの呟くような声は、虚しく周囲に響いた。

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