よろしく

「作業は40分くらいかかるから、上の事務所で好きなもの飲んで待っててね。」

内藤はそう言って凛子から鍵を受け取ると、手際良くジェミニを工場の中へと引き込んだ。

凛子は先ほど内藤が駆け降りてきた階段を上り、靴を脱いで事務所へ入った。事務所は工場と同様に雑然としているが、客を退屈させないように雑誌や漫画の類も充実しておりどこか居心地の良さを感じた。先ほどまで内藤が休憩していたので室内にはコーヒーの香りが残っている、凛子はドリンクコーナーの紙コップを取るとポットのコーヒーを注いだ。注がれたコーヒーは部屋と同じ香りがした。


「深煎りだ……落ち着く。」

テスト勉強の眠気覚ましにコーヒーを飲むようになり、糖分の摂り過ぎをきらってすっかりブラック派になった。手に取った雑誌は新しい日付のものだが、表紙にはジェミニと同じくらいの古さのトヨタ車が写っている。

「ヤングタイマー?」

聞きなれない単語が気になりページをめくった。

『ヤングタイマー : クラシックカーやビンテージカーほどは古くない、1980〜2000年代前半頃に造られた車』と定義されている。

「ふーん、じゃああのジェミニもヤングタイマーってわけだ。」

ぺらぺらとページをめくり流し読みながら、凛子は内藤の作業が終わるのを待った。


    ◇


「終わったよー」

呼びかけながら階段を上がってきた内藤はどかっと机に座ると、すっかり冷めた飲み掛けのコーヒーを一息に飲み干した。それからパソコンに向かってキーボードを叩き、明細書を印刷しているあいだ話し始めた。


「ボクは元々苫小牧のいすゞの工場で勤めていたんだ、だけどいすゞが乗用車をやめるタイミングで独立してこの工場を始めたのさ。」

「そうだったんですか、いすずってもう車作ってないんですか?」

「いや、乗用車ってたとえばプリウスやフィット、セレナみたいな人が乗ることをメインにする普通の車のことだよ。いすゞは今でもトラックやバスは強いメーカーだよ。」

「ああー!そうだったんですね、見覚えはある名前だと思ったんです。」

「あのジェミニは1989年頃のモデルで、景気が良かった最後の時期に出たクルマなんだ。いすゞが乗用車をやめたのは2002年だけど、最後の方はもう自社で設計した車はほとんど無かったんだ。」


内藤は続ける。

「ボクは乗用車の自社設計が無くなった段階でもう先が無いと思って転職も考えたんだけど、色々と縁もあって同じ2002年からここで商売させてもらってるよ。普段は軽トラや原チャの面倒ばっかりだけどね(笑)」

「2002年ってわたしが生まれるちょっと前かあ。おじいちゃんの事を名前で呼ぶ人って珍しいと思うんですけど、その頃からの知り合いなんですか?」

「悟さんとはそれより前、いすゞ時代からの付き合いなんだけどね、いや……ああ、今日の工賃はお祖父じいさんから先に預かってるから払わないで大丈夫だよ、また5,000kmほど走るか半年経ったら持ってきてね。まあ、何もなくてもいつでも遊びにおいで(笑)」

内藤は凛子の追究をはぐらかしながら明細書と車のキーを渡して微笑んだ。


凛子は内藤の微笑みにつままれ、まあ今日のところは帰るかという気分になった。階段を降りるとジェミニは凛子が停めたように店の前に横付けされていた。鍵を開けて車に乗り込む、行きと同じように鍵をひねるとエンジンは軽やかに始動する。見送りの内藤に挨拶をし、やおらに発進した。

帰り道を運転しながら凛子は行きと運転の感覚が少し変わっていることに気がついた。ハンドルの位置が低くなっており、車との一体感がより高まっている。直進はより真っ直ぐ安定し、カーブや交差点を曲がるときもハンドルが軽やかに回るようになっている。

雑誌を読んでいた40分程の間に内藤は何をしたのだろう。そんなことを考えているとあっという間に家に帰ってきた。


久しぶりの運転で疲れた凛子はジェミニを軽トラの横に停めると、悟が玄関で凛子を出迎える。

「お疲れさん、無事帰ってきたみたいだね。どうだった?」

「内藤さん、縦も横も大きいね……あっ明細の話か、はいこれ。」

明細には「基本点検、オイル交換、シート座高・ステアリング高さ調整、パワステ調整」と書かれていた。

明細を見て悟は凛子に切り出した。

「うん、ちゃんとやってもらったね。じゃあ、月曜からこれで大学行けるね。」

「え!そういうことだろうなとは思ったけど、本当にいいの?」

「大学の近くに下宿するお金が貯まったら引っ越すなり、好きにするといいよ。それまではこの車を貸すから好きに乗っていいよ。その方が余計なお金も使わないだろ?」

「……わかった。じゃあお言葉に甘えさせてもらいます。」


    ◇


夕飯と風呂を済ませた凛子は車の中に財布を忘れたことに気がついた。部屋着で外に出ると夜風は肌寒く、ぴりぴりとする。

ドアの鍵を開け、暗い車内を見ると助手席の脇に革の財布が置きっぱなしになっている。身を乗り出して拾い上げるついでに運転席に座り、しばし物思いにふけった。

月曜日からの通学、休みの日はどこに出かけようか、友達はできるのだろうか。

「……よろしく。」

凛子はハンドルを親指で撫でてぽつりとつぶやいた。

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