第5章 邂逅


 中途半端な登場人物たちに喝を入れてやっても良いと思うが、喝を入れたところで根本が解決されなければ、彼らが再びこのささやかな闇に陥るのは火を見るより明らかであるため、保留にしておく。

 彼らは真面目である。それでいて献身的とも言える。しかし彼らは気概が無く、宙ぶらりんの状態で苦悩し続けている。

 面倒臭い奴とはこういう者たちを指す。

 それでも彼らは、彼らなりに生きている。

 奥村小牧のように自死することなく生きている。


 十七歳で人生の幕を自ら下した小牧の存在が、中途半端な彼らを集結させることになった。


 母や友人とは表面を取りつくろうような関係しか持てない、人付き合いが苦手でファザコンの草部亜衣は、唯一信頼を置いている花本政也を引き連れ、歓楽街を巡っていた。政也が自分へ想いを寄せていることなど欠片も気づかない亜衣は、今日もこうして知らずに政也を傷つけるのであった。その政也の方も、亜衣に傷つけられることを覚悟した上で彼女に寄り添い続けている。

 二人は既に居酒屋で食事した後で、亜衣の方はほろ酔い気味であった。

 陽気に鼻歌を歌いながら歩く亜衣の後ろで、政也は己の不甲斐なさに嘆息する。傷つきたくなければ、さっさと告白して盛大にフラれて解放されるべきである。しかし、彼女を失う恐怖を味わうくらいなら、このほろ苦い痛みに耐えながらもそばにいた方がマシであると思ってしまうのだ。意気地なしとは自分のような人間のことだろうと、政也は思った。

 突然、亜衣が立ち止まり、前方へ目を凝らす。

「どうかしたか?」

「あれは……」

 亜衣の視線の先には、黒の革ジャンをまとった長身の男がいた。颯爽さっそうとした足取りで近くの建物へ向かっている。黒髪に能面みたいな顔。硬派な印象で、近づき難い雰囲気の男だった。

「奥村先輩だ」

 亜衣は男が消えていった建物へ歩き出す。

 奥村景親なら政也も知っていた。修士課程に在籍中の先輩であり、無口な秀才として知れ渡っている。人を寄せ付けぬ厳格なオーラを持つためか、グループに混じることは全くない。新歓のような飲み会の場にも訪れないため、彼と仲を持つ者はほぼいない。

 そんな影のような存在になぜ亜衣が興味を抱いているのか、政也には見当がつかない。

「おい、なぜ追う?」

 亜衣の肩に手を置き、政也は尋ねる。

 立ち止まった彼女は、政也を見上げた。

「気になるの」

「は?」

「私の友達のお兄さんは、どんな人なんだろうって」

「友達の兄貴にこんなところで話しかける気か?」

「自殺した妹を持つ兄って、どんな人なんだろうって」

「自殺……?」

 亜衣は神妙な様子だった。

 絶句する政也に背を向け、亜衣は景親が入った建物、そこの地下へ続く階段を下りていく。

 政也も慌てて後を追う。二人が降り立った先に現れたのはガラスドア。バーの入り口だった。僅かに店内の明かりが漏れ、薄汚れたコンクリートの床を照らしている。しかし亜衣が見ているのは、ガラスドアではなく、右手奥に設えてある鉄製扉。従業員専用入り口だ。

「先輩はこっちに入っていった」

「ここのスタッフなのか?」

「そうなのかも」

「どうするんだ? スタッフなら入ったところで話せないと思うぞ」

 亜衣はしばしおとがいに手を当て、考え込んでいた。

 政也は黙って彼女を見つめていた。

 現在の時刻は午後二二時。時間をかけられるとしても一時間くらいであろう。

 あらゆる事態を想像し、亜衣は逡巡しているようだったが、やがて踏ん切りでもついたのか、俯いていた顔を上げた。

 亜衣は背筋を伸ばし、政也に威勢良く述べた。

「入ってみる。もしかしたらバーテンかもしれないし。姿が見えなければ他のスタッフに聞けばいいのよ」

「そうかい」

 こうして、亜衣と政也は張り詰めた空気で充満されている店内へと向かうのであった。


 語り始めようとした飯島颯太の口を塞いだのは、来客を知らせる入り口のベルだった。

「飯島さん、ちょっとお待ち下さい」

 日向旭は颯太の背後からやってくる二人組のカップルに挨拶する。二人はぎこちなく笑いながら、カウンターにいる颯太の右側へ、椅子を三つほど空けて座った。

 旭は颯太に謝罪の会釈をすると、カップルの相手を始めた。

「何かお決まりになりましたら、お声がけください」

「あの!」

 彼女の方が、何か聞きたげに声をかけてきた。

「どうされました?」

「奥村景親さんて、ここにいませんか?」

「「え」」

 彼女の一言に、旭と颯太は思わず驚きの声を吐露してしまった。

 旭は、彼女がなぜ景親の存在を問うのかという疑問と、なぜ颯太が反応したのかという疑問で、困惑していた。

 颯太は、この場所でなぜ教え子の兄の名を聞くのだろうかと驚き、彼女の方を見ていた。

 そして亜衣は、なぜバーテンダーと隣の客が同時に反応したのか疑問で、バーテンを見上げていた顔を、隣の客へと向けた。

「君は、あの葬式にいた高校生の、草部さん?」

「……あなたは、小牧ちゃんの通っていた塾の講師の方、でしたっけ?」


 憂鬱な雨が降る葬式の日以来の対面だった。

 化粧をして巷の女子大生そのものに仕上がった亜衣と、さらにやつれて痩身となった颯太がそこにいた。

「久しぶりだね。随分大人っぽくなって」

「先生は、ちょっと痩せましたね」

「そうかもね。僕はもう先生ではないから、飯島でいいよ」

「飯島さんですね」

 旧交を暖めるというには素っ気ない会話が交わされる。

 政也は頬杖をつき、黙って聞いている。

 旭は慌てて問うた。

「二人は一体どこで知り合ったんですか?」


「奥村小牧ちゃんのお葬式です」

「奥村小牧さんのお葬式でお会いしました」


 奥村小牧の名前を両方から聞いた旭は唖然とした。そして次の瞬間、柱の陰に潜む恋人へと視線を移す。

 彼は迷うことなく、カウンターへと姿を晒しに来ていた。

 旭につられて全員が、こちらへ歩み寄る景親を目に捉える。

 景親は眉間に皺を寄せ、革ジャンの両ポケットに手を突っ込んでいた。

 景親の足音は一定で、それが妙な緊張感を生み出していた。

 長身で真っ黒な服装の彼は、冥界から来た死神の如く不気味な印象を湛えていた。

 険しい顔つきのままカウンターまで来ると、立ったまま三人を一瞥し、旭に紙幣を渡した。

「これでなんでもいいから作ってくれ」

 旭は受け取ると、グラスを取り出し作業を始める。

 グラスを転がる氷の軽快な音が、やけに耳につく。

 景親はカウンターの一番端に腰をかけ、タバコを取り出し点火する。

 旭以外の全員が見つめる中、景親は煙を吐き出し、気だるげな目で宙を見つめている。

「お前ら一体何者だ? 端のやつから自己紹介しろ」

 妹の葬式に出席したことを語る二人に、それを傍観している女の付き添い。

 男は何を語ろうとしていて、女はなぜ自分のことを呼んだのか。

「K大一年の花本政也です。草部の友達です」

「K大二年の草部亜衣です。小牧ちゃんは高校の同級生でした」

「小牧さんが高校生の頃、彼女の通う塾で講師をしていた飯島颯太と申します」

「なるほど」

 花本以外は生前の小牧と接触している人物であることを、景親は知った。

「あの、景親」

「なんだ?」

 旭は困惑した顔のままだった。

「その、確認したいことがあるんだ」

「何をだ?」

「飯島さんに聞きたい」

 旭は生唾を飲み込み、軽く一息つくと、心にくすぶる疑惑を口にした。


「さっき言っていた女子高生って、景親の妹のことでしょうか?」


 これは旭の予感だった。

 奥村小牧は自ら殺人犯の許へ殺されに行ったという。

 その殺人犯は既に逮捕されているため、颯太は彼女の死とは無関係である。

 しかし、颯太の漏らした奇妙な科白。

——直接殺したわけではないが殺したと同然のことをした——

 この表現が、旭の中で引っかかっていた。

 そこへ死んだ小牧の名前が浮上したため、一つの予想が立ったのだ。

 

 飯島颯太は、奥村小牧の死に関与しているのではないだろうか?

「その通りです。日向くん。僕は奥村小牧さんと関わりを持った時期がありました。その話をするつもりだったのです」

 その途端、景親と亜衣が立ち上がり、颯太の両側から接近した。

「あんた一体、うちの妹に何をしたんだ!」

 景親は颯太の胸ぐらに掴みかかり、殺人者の如く凶悪な目で噛み付くように言う。

「小牧ちゃんのことを知っているの?」

 亜衣は颯太の袖を掴んで問う。

「おい、二人とも何しているんだ! 落ち着けって」

 政也が慌てて立ち上がる。

「落ち着けるわけないでしょう!」

 亜衣が政也を睨む。

「だからって二人して責め立てたって仕方がないだろう!」

 政也は、颯太に掴みかかる二人の手を解き、どうにか落ち着かせ、亜衣の両肩に手を置き、彼女を座らせる。

 景親は鬼の剣幕のまま席に戻り、灰皿に置いていたタバコを一気に吸う。

 颯太は胸を撫で下ろした。

「景親、お酒ではなくて、みんなにコーヒーか紅茶を出してみようと思うんだけど」

 旭が腫れ物に触れるように話しかける。

「なんでだ?」

 景親の眼光は、旭を見るときだけは僅かに和らいだ。

「飯島さんの話をみんなで聞くのなら、落ち着けるノンアルの方が良いと思って」

「……俺のは砂糖を入れてくれ」

「もちろんだよ」

 亜衣が顔を上げる。

「もしかして、先輩甘党ですか?」

「そうだが」

 暗闇に潜む狼みたいな外見とは裏腹に、可愛らしい一面があったものである。

「だったら、クリームとか乗せてみませんか? 花本、あの飲み物美味しかったよね?」

 政也は苦笑する。

「あれ多分、カフェモカに近いものだ」

「そうなの?」

「近い飲み物があるとしたらカフェモカだと思うぞ。ググったら、モカっていうのは港の名前で、そこから出荷されるコーヒー豆を使ったものをモカと呼ぶそうだ。対するカフェモカは、エスプレッソにミルクを加え、ホイップクリームをトッピングし、チョコレートをかけた、偽物のモカだ。モカの味わいにカカオのような風味があることから、これに似せた飲み物を作る際にチョコレートを使用することになったらしい」

「なら、そのカフェモカを用意しようかな」

 エスプレッソの苦味と、それを緩和するようなスキムミルク。そこへホイップクリームにチョコレートまでかかる。とてもモカコーヒーを真似た代物とは思えない。

 数分後に旭が運んできた四つのコーヒーカップには、どれもホイップクリームとチョコレートの網目が乗っていた。

 旭は三人の前へ、順番にカップを置いていき、最後に自分の分をお盆から手に取った。

 片思いの女に良いように扱われている惨めな男と、恋愛が成就できずに気持ちを引きずり続ける厄介な女と、鬱病の妻と向き合えず過去に捕らわれている情けない男と、妹の死に囚われている男と、その男の恋人。

 彼らは、まろやかで甘ったるい中に微かなほろ苦さを含む飲み物に口をつける。

 ココアよりも苦く、コーヒーよりも甘く、チョコレートの存在が際立ち、大人ぶったような苦さを持つ、爪先立ちした少女みたいな飲み物だった。

颯太は両目を強く閉じ、当時の風景を瞳の裏に映し出しながら、語り始めることにした。


「お話しましょう。僕が知る、奥村小牧さんのことを」




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