第3章 花本政也

 漫画のように手の平で頬を叩かれ、涙ぐんだ顔を見せつけられフラれるという経験がある人間は、この世界中でどれほどいるのだろうか? 実際のところ、そんなものは漫画の中だけの話と思い込んでいたのだが、驚くことに漫画ではなく現実で起こってしまった。一年浪人して入学した大学の新歓で、なんとなく仲良くなった割と美形の女子と付き合い出し、順調な華の大学生活が幕開けしたのだが、その半年後、見事なビンタをお見舞いされて破局した。


「お前そっけないからね。ちゃんと相手のことを察してあげられなかったんだろ?」

 実に腹の立つことを言うが気楽に絡める同級生Aが、動物でもおちょくるように、俺の腫れた頬を箸で突いてくる。

「痛いぞやめろ。人の顔がそんなに面白いか?」

「こんな面白い顔してるやつ、からかわないでどうするよ」

 俺は無言でAのビールジョッキを拝借し、勝手に飲んでやる。

「おいこら、フラれた腹いせを俺で晴らすな!」

「お前といるとイライラが倍になり、不幸が倍になった気がする。だからビールも倍飲んでやる、畜生!」

「何をのたまっていらっしゃるんだか、惨めだぞーお前」

「惨めを経験したことのない人間がこの世のどこにいるんだ? もし知っているならここに引っ張り出してみやがれ! 是非とも爪の垢を煎じて飲んでやる」

「赤ん坊くらい?」

「なめたこと言いやがって!」

 広い座敷の安い居酒屋で無様に言い合う二人だが、周囲は二人の声をかき消すほどの騒ぎであった。大学のサークルや会社員の飲み会など、どの集団も宴会騒ぎで喧しい。

「しかしまあ、この店は安いだけあって酷い有様だな。安酒で大量の酔っ払いを出してやがる」

「俺は花本はなもとがいて助かってるぜ〜。浪人生って最近減っているもんだから、一年で気楽に居酒屋へ誘える人間が少ないからさぁ」

 俺とAがつるむ理由はもっぱらここにある。同じ一浪同士、話がしやすく酒も飲めるので、難しいことを考えずにいられるのだ。昨今は、飲み会で無理強いをすることに厳格な傾向があるため、先輩たちも無闇に後輩を誘わなくなっている。

 しかしながら、先ほどからピッチャーでしかビールを頼まないお隣の大学生どもには、昨今の傾向など無関係なようだ。

「俺らの学部って、真面目か?」

 隣を凝視しながらAに問う。

「ああ、そこのテーブルはインカレってやつ。それも結構悪評高きヤバめのインカレだよ。仕切っている学生の中に、どっかの組の息子がいるとか言う噂」

「やばいじゃねぇかよ」

 思わず身を引いてしまった。

 そんな得体の知れぬ連中の隣で、失恋のヤケ酒をしていたと思うと身の毛がよだつ。もしも酔いが回って、連中の誰かに粗相を働きかけたりでもしたらどんな地獄が待っているであろうか。

「この場所は安心安全が保障されていない。あるのは安価なものだけだ。Aよ、店を変えないか?」

「そうだねぇ、さっきまではまだ見ていられたけれど、何やらあそこのボスらしき人、自前の瓶を持ち出している。多分スピリタスだと思うぞ」

「Aよ、即刻撤退だ」

 そんな理由で、恐るべしインカレ軍団の目に止まらぬうちに、別の店へと移動すべく、会計を済ませて足早に外へ出たところだった。

 店の引き戸から夜の街へと出たところで、二人組の女性に出くわした。

 様子を観察していると、彼女らも俺らと同様に、恐るべし爆弾客を抱えるこの店から撤退したところのようであった。

 俺が一人なら何もしないが、今日は女を見ると本能のように声をかけてしまう奴を率いていた。

「お! ねえねえ二人とも、これからどっか行かない? こっちも二人だからさ! こいつ、フラれたばっかで傷心だから癒してやって!」

 無礼にも俺を指差して、Aは二人のマドモアゼルに声をかけた。

 この時は気がつきもしなかったが、二人は俺らと全く同じ大学、同じ学部の先輩後輩であった。二人いる女性のうち一人、セミロングの気の強そうな顔つきの方が、俺の腫れた頬を見て小さく笑った。

これが、草部亜衣との初対面であった。


 草部はこの時からすでに森田教授のことが好きだった。

 浪人の俺と違い、草部は現役入学であり、歳は同じだが学年は一つ上だった。二年の授業は森田教授の担当のものを幾つか取っていたらしく、教授の授業の日はやたら興奮していた。

 俺にしてみれば、あの目つきの悪い狼みたいな中年男のどこが良いのか、全くもって理解不能であり、草部の口から教授の話を聞く度に、この女の趣味嗜好を疑い揶揄することもあった。


 冬を間近に迎えた肌寒いある水曜日、食堂で会う約束をして待っていた俺の目の前に現れたのは、なぜか目を充血させた草部の姿であった。

「ごめん、ここに来るまでには顔を何とか戻すつもりだったんだけど、無理だったわ」

「とりあえず場所を変えよう。俺が泣かせたと思われる」

 実際は俺が泣かせたとか周囲に思われたところで痛くも痒くもない。こんな状態の草部を見たのは初めてで動揺していたのだ。咄嗟の己の言動を心の中で責めつつ、草部の手を引いて人気のない場所へ移動した。

 寒風吹き荒れる中、俺と草部は大学構内のベンチに腰をかけていた。

 隣から鼻を啜る音が聞こえる。

 俺は黙って、彼女が落ち着くまで待つ。

 ふと見上げる空は、彼女の心境でも表しているかのように、冷たい灰色だった。

「ごめんね花本。ご飯食べたかったよね」

「いいや。別に」

「もう、3限始まるよね? 行っていいよ」

「俺とってないし」

「嘘つくな」

「すいません」

 再び沈黙が訪れた。

 横目で草部を見ると、ようやく涙は引っ込んだようで、口にハンカチを当てていた。

 水曜の3限は一年の必修である。これまで欠席は無い。今日くらい休んでもバチは当たらないだろう。正直、毎度書かされるレポートが成績となるので休むのは辛いが致し方ない。

 ようやく草部が語りだしてくれた。

「昨日、私の父が再婚したの」 

 まず、草部の両親が離婚していたことが初耳だ。

「離婚したのは大分昔なんだけどね。私は母の手ひとつで育てられていて、父には滅多に会えなかった。会うときも、母は父と距離をとっていて、あまり長い時間父と一緒にいることはできなかった。なんで離婚したのかは、私は知らない。だからこそ、私は、母も好きだけど父のことは、もっと強く好きで、欲していた。そんな父が結婚するって話を聞いて、その時はおめでとうって言って、喜んでいたんだけど……。いざ、誰とも知れぬ女の人と幸せそうにしている姿を見たら、心がぐちゃぐちゃに掻き乱されて、大切な宝石を粉々に砕かれてしまったような気持ちになってしまって。相手の女の人にも娘がいて、父はその子の父となってしまった。父の血を引くのは私なのに、あの人はもう、私の父ではなく、本当に本物の他人となってしまったとわかってしまった。その瞬間、私はもう、式場から駆け出していた」

 声を震わせながら語る草部を見て、こいつがなぜ森田とかいう教授に恋をしたのか理解した。   

 草部の心は、父親からしか貰えない愛情が欠落していて、彼女はその欠落したものを求めるがあまり、興味を持つ対象年齢が上がっていたのだろう。

 およそ俺には分かり得ない、母子家庭の女心がそこにはあった。

「それを引きずって、今日も泣いていたわけか」

「ごめんね。子供っぽいよね」

「いや、いいんじゃないか? 大学生なんてまだ子供だ」

「いいのかな? 父の再婚を素直に喜んであげられず、挙げ句の果てに逃げ出すだなんて、私は父に本当に酷いことをしてしまった」

「それでいいと思う」

「なんで?」

 草部が目を腫らした顔をこちらに向けた。

 俺も彼女の方へ体を向ける。

「自分の気持ちに素直になることがあったって、俺はいいと思う」

 草部の表情は困惑していた。

「草部の親父さん、多分悪い人ではないと思うが、離婚している時点で草部の心に傷を負わせているのは確かだ。昨日お前が逃げ出したことで、親父さんはお前の気持ちに気がついたと思うぞ。俺が親父さんなら、お前に謝りに行く。再婚したって、自分の娘としてお前と向き合う」

「そうかな……」

「俺がお前の親父の立場ならそうする。ただ、お前の親父のことを俺は知らないから、お前の親父がどう出るかはわからない」

 大学生になり、二度目の女の涙を見てしまった。頼むから俺の前で泣かないでもらいたい。

 俺は慰めの言葉を探すのがあまり得意な方ではないからだ。冷静に話を聞いて、冷静に分析結果を述べる性格ゆえ、気の利いた言葉が出てこないのだ。ホストに脱帽する。

 ともあれ、こうして俺は草部の一面を垣間見ることとなった。これ以降、草部がいくら森田教授について語ろうとも、彼女の趣味嗜好を疑い無慈悲な台詞を吐くことはなくなった。もともと何を言っても彼女が傷つく気配など無かったが、だからと言ってそこに胡座をかいたままでは俺が成長しないと思ったのだ。

 ビンタを食らったのだから、少しは学習しなければならない。 


 草部は親父さんと話をしてきたそうだ。

「喫茶店で話してきたよ。寂しい思いをさせてきて、本当に悪かったって謝られた」

 常識的な見解を持つ親父さんのようで、俺は安堵した。

「良かったな」

「うん。会いたければいつでも連絡していいよって、番号教えてもらった」

「今まで知らなかったのか」

「母が嫌がると思うと、悪いと思って聞けなかったの。父も同じように考えていたみたいで、遠慮していたみたい」

「なるほどね」


 今思えば、俺は草部といることで女心と言うものを学習していた。

 複雑で難解、共感は不可能。それでも、興味があった。

 学年が上のくせして、大学の授業に微妙についていけてない草部とは、一緒に勉強する機会も多かった。彼女は、勉強はできても研究にはあまり向かないタイプの人間であり、何かあればことごとく俺に聞いてくるのだった。

「お前そんなんで進学希望なのかよ。就職にしておけよ」

「嫌。やりたいことがあるんだもん」

「金は大丈夫なのか?」

「父が出してくれるって」

「良い親父さんだこと」


 草部はいつまで経っても森田教授が好きで、俺はいつまで経っても彼女ができなかった。

「当たり前だろ、周りはお前と草部亜衣がデキてると思っている。お前、草部と離れない限り彼女なんて作れないぞ?」

 Aの言うことは至極正論である。

「と言うか、俺はてっきり花本は草部が好きなんだと思っていたんだけど、違うわけ?」

 俺とAは安いしゃぶしゃぶを突いている。

「よくわからない」

 心に靄がかかったように、なぜか自分が何を感じているのか言葉にできないのだ。

「そんなことあるかよ。男と女が一緒にいる理由なんて、気がある時くらいだろ」

「いいや、本気でわからないんだ。草部のことは気の合う奴だと思っている。でもなんというか、これは恋愛ではなく友情な気がしてならない」

 煮えた肉を根こそぎ奪ったAは、ビールとともに流し込むようにそれらを平らげた。

 俺は、仕方がないので新たな肉を投入する。

「お前ね、そんなこと言ってられるのは今のうち」

「どういうことだ?」

 Aが俺を箸で差してくる。

 俺はあからさまに顰め面になる。

「男女の大きな相違点、それは身体。お互いに自分たちがどんな生物であるのかを知った瞬間、お前らなんてあっという間に落ちていくぞ?」

「どこに落ちるって?」

「恋愛の沼だよ。今は互いの人間性だけで付き合っているから何も感じないだけだ。草部を女と思って見始めたら、そこからもう始まってしまう。というか、俺にこんな説教させるなよ、お前は初恋も知らぬガキか? 童貞か?」

「うるせーよ」

 今度は俺が鍋の中身を食い尽くしてやった。


 忌々しい友人Aの台詞はしつこく俺に纏わりついて離してはくれなかった。

 奴の言うことが正しいとは思いたくないが、正しかったということを思い知ってしまったのだった。

 それは何気ない日常の中で起きた。

 草部は相変わらず森田教授にご執心で、その日も彼の授業を受けた後の嬉しそうな草部を、俺は見かけた。まだ授業が終わったばかりで、教室の扉からは人が流れ出てきていた。草部は、遠目に俺を見つけると、大きく手を振った。偶然通りかかっただけであり、放課後二人で勉強する予定も飯を食う予定もなかったが、彼女がこちらへ来るように手招きするので、そちらへ歩いて行った。

 教室の前で待つ草部の許へ辿り着いた時、室内から出てきたのが森田教授であった。

「先生、今日もお疲れ様です!」

 森田の前で、草部は突然可愛らしく笑うのだった。声も俺といる時よりも弾んでいる。

「草部、最近レポートの質が上がりましたね」

 口から出るセリフこそ先生らしさが漂うが、やつれた顔もヤニ臭さも、到底女子が受け入れられるタイプとは言えない。素材が良いだけの汚いおじさんにしか見えないという感想である。

「本当ですか? これからも頑張ります!」

「是非そうしてください、それでは」

 森田はそれだけ言うと、一瞬だけ小さく手を振り廊下の向こう側へと消えていった。

 彼は草部を一生徒としか見ていないと思われる。そもそも、教師が生徒に手を出すことは御法度だ。教師を続けたいのであれば、生徒に色目を使ってはならないし、また逆に対してもきちんと対処しなければ、退職に追い込まれるのがオチであろう。

 そんなことを心で呟きながら草部へ視線を向けた時、俺は凍りついてしまった。

 

 草部は完全に女の顔で、去り行く森田の背を見つめ続けていたのだ。


 この光景こそ、漫画の世界だけではないのだろうか? と疑いたくなったが、紛れもなく現実だった。俺には決して見せない色っぽい表情。その視線は絶対俺には向けられない。

 この時、俺は初めて、草部が切れ長で綺麗な奥二重の目をしていることに気がつき、初めて鼻筋が通った比較的整った顔立ちであることに気がつき、やや浅黒い健康的な肌をしていることに気がついた。気が強そうな印象を持つが、少女みたいな繊細さを持っていて、好きな人に対して一途で、自分に正直な、そんな女であることに気がついた。

 そして同時に思ってしまった。

 

 なぜその顔をこちらには向けてくれないのだろうかと。


 思った時には草部に背を向けて駆け出していた。

 後ろから呼び止める声が聞こえたが、聞こえないふりをして全力失踪した。

 闇雲に、無我夢中に、とにかく草部から離れようと手足を千切れんばかりに動かした。

 階段を駆け下りる途中転びそうになりながらも、溢れ出る感情が草部に届かないようにと、必死に走り続けた。

 普段あまり運動をしていないため、エネルギー切れで立ち止った時には、肩で息をしており、頭や背中から大量の汗が吹きこぼれていた。

 日が暮れて、寒空が広がっていた。

 オリオン座の見える冬の空は、澄んだ空気の中に冷たい孤独を内包しているように思えた。

 上着を脱いで熱を覚まそうとするが、火照った体はなかなか休まらない。

 激しい呼吸が耳に響く。胸が苦しい。

 頭の中がぐるぐるする。気持ち悪い。

 草部のはにかんだ笑顔。

 草部の人を小馬鹿にしている顔。

 草部の難しいことを考えている顔。

 草部の飯を食っている時の顔。

 草部の寝ている顔。

 草部の泣いている顔。

 「なんだこれ」

 気がつけば胸には大量の棘が刺さっていた。

 「馬鹿なんじゃねぇの、俺」

 右手で胸を押さえていたら、目頭が熱くなってきた。

 いつの間にか頭の中が草部でいっぱいになっていた。

 しかし、このいっぱいになった心のやりどころなど無い。

 声を殺し、頬を伝う雫を拭い続けていた。


 草部は女だったし、俺は男だったのだ。


 草部は気まずそうに俺の顔色を伺っていた。

 俺は、ただ黙々と学食の安いうどんを啜っていた。

「あの、花本。こないだ予定でもあったの? 突然走って行っちゃうから、びっくりしたよ」

 彼女からすれば、友達が突然どこかへ走り去っていったことになる。

「気にすんな。ちょっと腹の具合が悪かったんだ」

「え、そうだったの?」

「ああそうだ。数日カバンに入れっぱなしだったペットボトル飲料にでも当たったんだろう」

「そうなの?……」

「そうだ」

 釈然としない様子だが、彼女は納得してくれた。

 あの次の日俺は学校を休み、土日を挟み、本日三日ぶりの対面であった。

 心の整理とやらに時間を作らなければ、親父の結婚式の翌日に涙目で現れた草部の如く、俺の顔も酷い有様になっていたであろう。そんな事態を招くことは流石にごめんであったため休ませてもらった。メンタルケアは重要である。

「花本」

 今日の草部はテンションが低い。俺のせいであることは承知である。

「なんだ?」

「あの、花本は、私とあんまり一緒にいない方がいいんじゃないかな?」

 遠慮がちに視線を落としながら彼女は言う。

 俺は食事を中断し、彼女を見つめた。

「なんか友達に言われて思ったの。私達気が合うから仲良くしているけど、もし花本が彼女作りたいとか思っていたら、私と頻繁に会っているこの状況が弊害になるかな? って思ったんだ。同性の友達と違って、異性の友達ってそういう仲に勘違いされやすいでしょう?」

 俺と目を合わせてくれない草部に、少し苛立ちを覚えた。

「それは、草部の恋愛成就を考えた時、俺の存在が邪魔になるから頻繁に会うのを辞めようと言っているのか?」

「そんなこと言ってないよ……」

「そういうことだろう」

「違うって!」

 草部がいきなり立ち上がった。周囲が彼女に注目する。

 ようやく俺と視線を合わせてくれた彼女の表情は、悲しみや苦悩が感じられた。

 周囲の視線に遅れて気がつき、軽く周りに会釈すると、彼女は再び腰を下ろす。

「そんな歪曲した捉えた方しないで。邪魔なんて一言も言ってない」

「じゃあどういう意味だ」

「だって、花本は、彼女が欲しいとか思ってないの?」

「思っている。欲しい」

「でも、私といたら彼女作れなくない?」

 俺はうどんを啜ってわざと返事を遅らせる。

 草部の視線を受け続けながら、うどんを咀嚼する。いつに増して美味しくない。

 飲み込むまでのあいだ考えていたことは、人の気も知らぬこのお嬢様に、どんなことを言ってやれるかであった。

 俺は三日間のあいだ涙を流し続けて部屋から出られなかったのだが、そんなことを草部が知る由もない。

「お前といたって彼女くらい作れる」

「え?」

「俺は、俺のそばにいてくれて、可愛らしくて、頼ってきてくれる女が好きだ。俺と向き合ってくれそうなそんな女が現れたらアタックするつもりなんで、草部が俺の恋路を気にする必要なんてない」

 我ながら滑稽だと思う。

 こんなに上手く事実を隠せるは思わなかった。

「俺は今まで通り、草部の力になれれば良いと思っている」

 自分が心底気色悪い人間だと思ったのは、これが人生において初めてのことだった。

 向かいで草部は安堵の溜め息をついていた。彼女は本当に鈍感で疑うことをしない。

 俺の好みとして語られた女が、まさしく彼女本人であることなど、彼女は毛ほども思わない。

 森田教授への無謀な恋を、草部がどのように決着をつけるつもりなのか俺は知らない。  

 決着などつけぬままずるずると引きずり続けるかもしれない。

 それでも、根強く彼女の経緯を見守り続けてみようと思った。

 俺の執着は思いのほか強かった。

 彼女がこちらを見てくれるまで、待つことができればと願うことにした。


 もしもの可能性にかけて、俺は長期戦に臨むことにしたのである。



 草部はおかしい。

 この女は俺のことを何だと思っているのだろうか。

 しかし、この境遇に胡座をかいている自分もいる。

 自分が幸せなのか不幸なのかよくわからなくなってきた。


 ある帰宅中での出来事。

「先生、私のことなんて眼中にないんだよね。もうずっと、積極的に接しているつもりだけど、全く私の方を見てくれる気配がない」

 草部がこんな弱気な発言をした。

 ハードルが高すぎる相手なので、他人から見ればこういう事態は容易に予測できてはいたが、彼女にとっては想像以上だったのか、かなり落ち込んでいるようで表情が暗かった。

 吐く息が白く、身に染みる寒さが、俺と草部を襲っていた。

「教師が生徒に手を出すことは、普通ならありえないことだぞ」

 あったかい缶コーヒーで手を温めている。冬には最高の飲み物だと思う。暖をとりながら中身を少し冷まし、やや熱が取れて飲みやすい温度になってから口をつける。

「うん。先生は独身で、どこか寂しそうな気配があって、そんなところがとてつもなく可愛いんだけど……でも絶対に私になんか興味を持たないの。私だけでなく、女の人を作るつもりもないんだと思う。他の子たちが、先生結婚しないの? って聞いても、僕はこのまま一人で死んでいくと思いますよって言うだけ。先生はきっと腹をくくっているの」

「どうくくっているんだ?」

「一人で生きていくって。孤独になることはあっても、それでも一人で良いって思っている人なの。だから女の人なんか必要ない」

「孤独な人は自分を見てくれる人が現れたら嬉しいものだぞ?」

「でも、孤独を回避するための愛なんて長続きしないよ。だから、私は先生のことが大好きなんだけど、先生と付き合うことなんてできないんじゃないかって、最近思っている」

 草部の見立ては的を射ているような、そうでもないような、いかんともしがたいものだった。

 男として俺が思うに、森田は教授という立場上、生徒の前では気のない態度をとるだけだ。草部が言うような、女を必要としてはいない孤独を好む人間である可能性も否定はしないが、世の中の男の大半は女を多少なりとも求めているものだ。森田は、学生の前では本音を漏らさず適当にやり過ごしている、身の程をわきまえた男と見る。

「なら、どうするんだ?」

 素っ気ないことを言っているのは自覚している。しかし、今の俺に言えることなど無い。

 俺はただ、草部が俺を見てくれるようになってくれることを願っている。

 缶の飲み口から漂う湯気を見つめる。

 胸に刺さったままの棘は、未だにジリジリと痛む。

「それでも私は、先生が好き」

「そうか」

「でも、今の状況は苦しい」

「……そうだな」

「花本」

「何」

「私はどうすればいい?」

 日の落ちた曇天の空は、濁った藍色のような色合いを見せており、見上げていると底なしの不安に襲われそうであった。鼻腔が冷えた空気で赤く染まる。彩度の落ちた色合いの街は空しさを煽る。瞳にそんな情景を捉えながら歩いていたら、俺の足はなぜか止められた。

 俺はただ、彼女をそばで見守るだけに徹するつもりだ。

 それだというのに、彼女の行動は俺の心をとことん掻き乱すものであった。


「何のつもりだ? 草部」

「……たまにこうして、甘えてもいいかな?」

 彼女は俺の懐へ入り込んで、腕を俺の体に回していた。

 俺は彼女に抱きつかれていたのだった。

 右手に缶コーヒー があるため、俺の方は手を回してはやれない。いや、缶コーヒーなど無くても回してやることは、できればしたくない。

「どういう意味だ?」

 勘弁してくれ。一体いくつの棘を俺に刺したら気が済むというのか。

「ごめん。ちょっと感情をどう整理すればいいかわからないの……。甘えられる人が、花本くらいしかいないから……嫌なら突き放していいから……」

 草部はまたも涙ぐんでいた。彼女は本当に泣き虫である。

 そういうことは、女友達にしろと言ってやりたかったが、彼女には心から信頼の置ける女友達がいないのであろう。父や母にも妙に気を遣っている節がある。彼らに、大学教授に恋をしたなど、なかなか打ち明けられないのかもしれない。

 本当に孤独なのは草部の方ではないだろうか。

「そうか……」

 彼女が俺のことを一人の男として見てくれるまで、俺は何もせずに彼女を見守りたい。だから、この状況に乗じて彼女の心を俺へ振り向かせるようなことを、今はしたくない。

 そんなことをしても無意味なのは目に見えているからである。


 しかし、この状況で彼女を突き放すことができるほど、俺は潔い男ではなかった。


 彼女が俺のそばから離れることは怖かったし、彼女が俺に気を遣ってくるのも嫌だった。

 なんて中途半端な人間だろうと心の声で己に悪態をつきながらも、それでも彼女を振り払うことなどできなくて、胸に突き刺さる棘の痛みに顔を歪ませながら、空いている左手でそっと、綺麗に手入れされた髪を撫でてやるのだった。

 世の中にここまで空しい包容があることを始めて知った。


 これを機に、草部はたまに俺のアパートに来るようになったのだった。

 




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