新しい世界の話

一田和樹

悪魔の処方箋と呼ばれた疾病地政学

本稿は、起こり得る可能性を描いたフィクションです。


*この資料を利用する方へ

本稿はサイバー地政学大学院の「”多様な科学”と地政学」演習においての利用を想定して描き起こしたものが他の大学などの教育機関でも利用されるようになったものである。また、いくつかの大学では一般の方も無償でダウンロードできるようにしている。



1.疾病地政学とはなにか?

疾病地政学とは疾病、特に感染症を想定し、その地政学的な側面を研究するものである。感染地政学とも呼ばれる。医療人類学の知見の一部が利用されているが、本質的に異なるものであるので注意が必要。

疾病地政学の背景には2020年のコロナを皮切りに、パンデミックが定常的に発生するようになったことがある。疾病地政学の知見は感染症に対する免疫力を低下させ、ワクチンや薬剤の効果を低下させる攻撃を可能にする。

特定の地域や国の文化や社会を変容させることによって行われる攻撃のため、デジタル影響工作と連動することが多く、認知戦、心理戦の一部として利用される。そのため多くの研究者や実務者はデジタル影響工作に目を奪われてしまい、疾病地政学という知見が利用されていることに長い間気がつかなかった。

ほとんどの疾病地政学は、”多様な科学”に分類されるため、疾病地政学を理解するためには、”多様な科学”の知識が欠かせない。そこでまず”多様な科学”について解説する。


2.疾病地政学の暴露から現在まで

・”再現性の危機”

”多様な科学”=Variety of Scienceは、2025年頃に生まれた概念で、2030年代に大きく成長した。端的に表現すると、すべての科学は前提とする思想や理念によって異なる体系を持ち、それぞれが”科学的”であるとする考え方である。”多様な科学”には、Alternative Scienceなど他の呼び方もあるが、多くは卑下あるいは揶揄したニュアンスを含むものであるため、ここでは”多様な科学”を用いる。

背景にあるのは2005年代頃から続く”再現性の危機”だ。多くの科学論文で再現性が50%を下回ることが判明した(*1)。再現性とは、論文と同じ調査や実験を行って同じ結果が得られることを指す。再現性が50%以下ということは、その論文に書かれた内容と同じ調査や実験を行っても同じ結果になるのは半分以下ということを意味する。医学も”再現性の危機”に見舞われ、治験の信頼性が大きく損なわれることとなった。


”再現性の危機”に見舞われなかった科学の特徴は、観察者(実験者)と対象を研究対象に含めている、誤差を研究対象に含めている、実験や調査結果をアプローチにフィードバックしている、の3つだった。たとえば量子論やカオス理論などはこれらの条件を満たしていたが、多くの分野の科学はこれらの条件を満たしていなかった。たとえば治験においては実施する関係者や治験を受ける人々の「心」の状態(文脈的に心理学とは表記するのはふさわしくないため、一般的な慣習に従ってこの言葉を使う)が結果に大きな影響を与えることが知られているにもかかわらず、それを誤差として排除する方法論しか取らなかった(カオス理論が誤差の研究から始まったことに注意)。

*「心」については現在量子論で盛んに議論されている”汎心論”を参照。

このアプローチは、「現実に合わせて仮説を修正するのではなく、仮説に合うように現実を修正する」もので科学的とは言えない。ただし、当時多数派を占めていた機械論的世界観によくあてはまるため、ほとんどの科学者によって採用されてきた。

機械論的世界観とは、この世界は調査者や観察者がいなくても存在し、同じ条件で特定の事象が起きれば、常に同じ結果がもたらされ、それは調査者や観察者の有無や性質とは無関係である、とする考え方である。きわめて非科学的だが、わかりやすい。この非科学的態度は長い間にわたって科学界を支配し、量子論やカオス理論が世に出ても変わることはなかった。さらに機械論的世界観は日常生活やビジネスの現場でも、尊重すべきアプローチとされた。驚くべきことに、全く科学的ではない機械論的世界観は”科学的”、”論理的”と考えられていた。機械論的世界観が教条的に社会を支配していたことからこの時代を科学暗黒時代と呼ぶこともあるくらいだ。


”再現性の危機”が生まれた背景にはいわゆる”研究サプライチェーン”の問題も大きかった。研究に当たって必要なデータや資金あるいは人材などには提供元が存在し、そこに偏りや問題があれば、研究成果に影響を与える。結果合目的に多くの研究は政治的に利用されるため、あるいは企業の利益を増やすことを目的としていると言える。

研究サプライチェーンの支援者である政府関係者や企業経営者の多くが機械論的世界観を信奉していたことも事態の改善を妨げた。経済的影響力、社会的影響力を持つこれらの人々が非科学的な機械論的世界観を支持していたことはコロナを始めとするパンデミックや気候変動への対処を教条的、非科学的(本来の意味で)なものにしてしまった。


・三力論(トライ・バランス理論)

2026年に、匿名の告発で中国が2020年頃から三力論(トライ・バランス理論)をもとにした影響工作を行ってきたことが暴露された。いわゆる”チャイナブック事件”だ。

三力論はロシア発祥の概念で、さまざまな社会現象を整理するためのフレームワークである。国家、民間企業などの非国家アクター、市民の3つの力のバランスが取れている時、国家は安定し、バランスが崩れると不安定になるというもので、非常に単純だが、応用範囲が広い。中国やロシアが行っていた影響工作の多くは、このバランスを崩すために行われていた。

三力のフレームワークはV-Dem(民主主義の状況に関する指標で世界各国のデータを元に作成され、公開されている、*2)のデータセットからモデル化され、現実を反映した有効なモデルであることがわかっている。モデルは何種類かあり、自国の安定度の確認あるいは特定国の脆弱性の判定など目的に応じて使用されている。


ヨーロッパから広がった民主主義は、当時力を持つようになった富裕層が王や貴族から自らの権利を守るために発展した。そのまま発展すると、三力の非国家アクターが肥大し、国家は不安定になる。ヨーロッパではその過程で、国家と市民の力を増大させるような制度を充実させることで安定化を図った。一方アメリカは、放置したため、非国家アクター、特に民間企業が肥大化し、不安定な大国となった。

三力のうち市民の力はある時期までもっとも脆弱になりがちであった。市民が力を得た時には、組織となり非国家アクターとなる傾向が強かったので、市民が市民である間は脆弱となる。

しかし、SNSの普及によって市民の力が市民の状態のまま増大した。組織化しなくても無数の市民が影響力のある行動を取ることができるようになったためだ。アラブの春、ブラック・ライブズ・マターあるいはアメリカの白人至上主義過激派グループなどさまざまな形で市民が力を行使するようになってきた。組織にならない市民の活動はSNS以前にもあった。日本では、ええじゃないか、米騒動といった事件があった。しかし、あくまでもレアケースだった。


三力論の応用のひとつに特定の国の科学が三力のどの力からの支援を多く受けているかの特定がある。2028年に発表された論文でそのモデルが公開されたものの当初は全く注目されなかった。その後、複数の研究者が、各国において2020年から2025年にかけて世界を席巻したコロナの対策や効果が異なっていることに注目し、三力のモデルで説明しようとした論文が発表されたことで世界的な注目を浴びた。当時、コロナは政治的なイベントと言われていたが、それが三力論によって検証されたことになる。また、このことは同時に、三力の状態によって、異なる科学が存在することも証明した。当時、各国は意識せず異なる科学によって、コロナに対処していたのだ。コロナは政治的なイベントであると同時に、各国がそれぞれの社会に適合した”多様な科学”を開発したイベントでもあった。ここから”多様な科学”論が生まれた。


・”多様な科学”の誕生と疾病地政学

コロナ禍と三力論そして“再現性の危機”によって”多様な科学”は誕生した。もちろん、機械論的世界観に基づく科学者たちは猛烈に批判し、今でも続いている。どちらが正しいかはまだわからないが、”多様な科学”が量子論や非ユークリッド空間などを包含することから大勢は”多様な科学”容認に傾いている。

パンデミックは定常的に繰り返され、各国の対策は異なっており、それぞれ異なる効果をあげていた。嫌でも”多様な科学”を認めざるを得ない状況だったのだ。


多くの国、特に権威主義国が疾病地政学を研究していることは間違いないが、ほとんどが公開されておらず、公式には否定している。その理由は結果合目的に言えば、他国を攻撃するために研究しているためだ。疾病地政学はその性格上、死と災厄しかもたらさない。デジタル影響工作と合わせて使用されることから、その災厄は社会の分断を悪化させるなどさらに悪辣になる。

疾病地政学は、各国の医学、医療態勢が、”多様な科学”を基盤としていることに注目している。前述のように”多様な科学”は三力の特定の状態において成立しており、三力のバランスが崩れれば”多様な科学”が有効である基盤を失うことになる。したがって三力のバランスを崩せば医療効果が失われる。コロナ禍において、中国とロシアは三力のバランスを崩すことで、西側各国の医療を崩壊させてきたと言われている。欧米においてコロナ被害が甚大であった理由は疾病地政学だったという指摘ももっともだ。


日本もその疾病地政学を利用した攻撃のターゲットとなっていたことが、前述の”チャイナブック”で暴露された。疾病地政学は免疫力や治療の効果は「心」の状態で大きく変化するという前提を持っており、その前提は複数の実証研究で検証されている。日本は後述するシーパワーの国であったことにくわえて、第二次世界大戦後の平和を享受し、他の世界のごたごたとはほぼ無縁だった。三力のバランスで言うと、国家と非国家アクターの力が肥大し、市民の力は低く抑えられていたもののバランスは保てていた。そのバランスは市民を富裕層、一般人、疎外対象者(移民、障害者など)の3つに区分し、疎外対象者を可能な限り不可視にし、多数を占める一般人に「自分たちは安全」と認識させることで達成していた。

いわば現実に合わせた認識を持つのではなく、認識に合わせて“見える”現実を変えていた。機械論的世界観では当たり前のことだ。このやり方だと現実の危機が認識できなくなる。危機感覚が鈍いことはマイナスに働くこともあるが、免疫力や治療効果の面ではプラスに働くことの方が多い。そのため当初コロナの被害は低いレベルに抑えられていた。

しかし、東京オリンピックをターゲットにした中国とロシアの疾病地政学を利用した攻撃によって事態は急変した。非国家アクターであるメディアを利用して、医療や政府に対する不信感と危機感を煽ることで市民の発言、活動を活性化させて三力のバランスを崩した。市民の力が短期間に増大し、首相の暗殺、統一教会との癒着の暴露などでピークに達し、コロナ被害はOECD中で最悪となった。


3.疾病地政学の構造

疾病地政学は時代によって大きくふたつに分けられる。ひとつは2010年より前の前SNS時代には旧来の地政学を利用したモデル化、もうひとつはSNS時代に入ってからはサイバー地政学を利用したモデル化である。


前SNS時代には旧来の地政学の知見を生かした研究が多かった(*3)。ランドパワー国家は疾病地政学的には地続きの他国からの影響を受けやすいため三力のバランスが変化しやすく、科学の効力が失われやすいため危険な感染症が発生している際には効果をあげやすい。これに対してシーパワー国家は海で遮断されているおかげで、三力のバランスを保ちやすい。

また、ハートランドは常にさまざまなストレスにさらされており、三力のバランスが不安定になりやすい。

*ランドパワー、シーパワー、ハートランドなどの地政学用語は別途学習のこと。


SNS時代に入ると、サイバー地政学的な観点で疾病地政学をとらえ直すことになる。なぜなら三力のバランス、特に市民の力はコミュニケーションと情報環境によって変化し、体感事実と統計事実の乖離が拡大する。

統計事実とは統計などで検証された事実を指し、それは別に体感事実というものがある。統計上、殺人事件が減っていても日々接しているニュースでの報道が増えていれば増えていると感じる。体感事実は情報量や情報の範囲によって大きく変化する。たとえばSNSを経由して世界各地で起きた悲惨な事件や少数派である陰謀論や差別論などの情報が大量に入ってくると、それらが多数のように錯覚する。特に人間はネガティブな情報により強く反応するため、統計事実との乖離が拡大する。

また、メディアの発信する内容の偏りも乖離を拡大する。報道の偏りはプリンストン大学の実証研究などで明らかになっており、ディスインフォメーションやデジタル影響工作以上に多くの人々の現実認識に悪影響を与えている(*4)。疾病地政学的に言えば、メディアはその読者の健康状態に無視できない影響を与えている。

この体感事実と統計事実の乖離は文化、社会的、地理的条件によっても異なり、現在のサイバー地政学はこの点を中心にしたものが多い。海底ケーブルや古典的サイバー攻撃をテーマにした研究はすでにひととおり完了しており、優先度の高いものとなっていない。


メディアとSNSはネガティブな情報をより多く取り上げ、流通させる偏りがあるため、SNSの普及は体感事実と統計事実の乖離を拡大し、メディアとの相乗効果でその乖離はさらに広がった。多くの人は素直に疑問に考えた。これだけ世の中が悪くなっているように見える(体感事実)のに、なぜ政治家や科学者はそうではないと言うのだろう?(統計的事実)。

デジタル影響工作によって乖離を拡大し、三力のバランスを崩せば、以前のバランスを前提とした対策の有効性は低下する。コロナ対策や医療態勢などへの不信を募らせるためのデジタル影響工作による分断と混乱は、疾病地政学的には”多様な科学”の効果を低減させる攻撃となる。コロナ禍で中国とロシアがコロナに関するディスインフォメーションを広め続けた(*5)背景には、こうした疾病地政学の知見があった。攻撃は見事に成功し、欧米を中心とするグローバルノースのコロナ対策の多くは失敗した。特に日本のコロナ対策の失敗は疾病地政学の威力を示した代表例として紹介されることが多い。



4.兵器としての疾病地政学の現状

以上のようにもともと中国とロシアの地政学的目的を果たすために開発された疾病地政学は、”悪魔の処方箋”あるいは”地政学的ウイルス”と呼ばれるほどに危険視され、国連では研究そのものの禁止の検討まで行われている。しかし、国連の場で懸念を表明している国でも密かに研究していることが多い。


・疾病地政学の位置づけ

疾病地政学に限らず、地政学は、”多様な科学”の知見を活用しているものの、科学というよりは外交あるいは軍事的なツールといった方がよい。疾病地政学を学問として深化させたい場合は、メタな視点からの”多様な科学”を調査、比較する比較科学論がある。


・疾病地政学の基本的な手法

疾病地政学は市民の力を増大させることに焦点を当てている。そのため、中国やロシアなどの権威主義国はグローバルノース各国の市民が自由に発言し、行動できるための支援を行っている。具体的には、市民の発言の拡散、市民に受け入れられやすい”多様な科学”の紹介、メディアワークショップや軍事訓練など多岐におよぶ。


また、疾病地政学はグローバルノースのビッグテックの資金と市民を結びつけて、活動資金を潤沢する手助けも行っている。グーグルなどのビッグテックが陰謀論や反ワクチンなどの主張に広告料金として多額の資金を提供していることはコロナ禍の頃から大きな問題となっており、その提供資金は数千億円(推定)の規模に達していた(*6)。陰謀論や反ワクチンなどのデマの温床を提供するビッグテックは疾病地政学を武器として利用する際の重要なインフラなのだ。

グローバルノースのビッグテックを利用する方法は2つの点で効果的である。ひとつはビッグテックを利用することで疾病地政学的攻撃を低コストで実施できること、もうひとつはビッグテックを結果合目的的な研究サプライチェーンの支援者に仕立てていることである。ビッグテックはアテンション・エコノミーに依存しており、多くの識者が指摘していたように民主主義に悪影響を与えている。ビッグテックが支援者になることで、結果合目的的に疾病地政学はグローバルノースの社会を蝕むものとなる。余談であるが、この手法はファクトチェックの影響力を低減させるためにも用いられた。ビッグテックがファクトチェック団体の主たるスポンサーになったことで結果合目的にファクトチェックは骨抜きとなった(ビッグテックにとってデマ、陰謀論、差別、ヘイト、誹謗中傷は重要なアクセス増加をもたらす金の卵だった)。

疾病地政学は今日の戦争で用いられる兵器の中ではもっともコストがかからず(ロシアでは黒字という噂すらある)、ターゲットに深刻なダメージを与えることが可能な知見と言われている。ただし、効果が出るまでじゃっかん時間がかかるのと、無効化される場合もあることが難点だ。


疾病地政学の知見を生かした攻撃では基本的な手法以外はあまり明らかになっておらず、各国の実態が暴露されるたびに新しい知見が増えている状態だ。また、多くの場合、より広いハイブリッド戦などの総合的な戦いと統合されているため、単独で論じられることは少ない。


この講義は1年間を通し、現代における「戦争」の実態を理解してもらうためのものであり、疾病地政学はその一部で、もっとも危険かつ実態がわかっていないものと言える。




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