第三話

 圧倒的カリスマによって足利の権威を確立した義満だったが、その死は呆気ないほど早く訪れた。

 義嗣の従三位参議叙任からわずか三日後の四月二八日、義満は当時みやこで流行していた咳病に倒れた。つい二箇月前に行われた北山行幸ではさも楽しげに帝と歓談していた義満のことだから、誰しも早期の回復を信じて疑わなかったが、病状はあれよあれよと重篤の度を増し、いよいよ諸寺に対して病気平癒の祈祷が命じられたころには既に手遅れだった。

 応永一五年(一四〇八)五月六日義満薨去。享年五一。

 足利義満研究においては、明朝より「日本国王」に冊封された事実をもって

「義満は明の冊封下に入ることによって朝廷の権威を否定し、これを超越しようと試みた」

 とする見解がかつては主流であった。いわゆる「王権簒奪論」である。

 しかし教科書にまで掲載された「日本国王」号については、陪臣による朝貢を許さなかった明の目を欺き、交易のためにやむなく賜ったというのが実際のところで、義満本人でさえ本音の部分では明への臣従を悔やんでいたようだ。その証拠に義満は、死の床にあってうなされながら

「明の冊封に入って我が国の神々の怒りに触れたから、病になったのだ」

 と口走ったらしいのである。

 土着の神々の神罰を恐れるこの言葉からは、明皇帝の権威に依拠してまで天皇家を越えようなどと企てた簒奪者の主体的意図は覗えない。

 周知のとおり義持は義満の死後、日明貿易を謝絶している。

 義満は、自身の側室にして義持生母である藤原慶子が亡くなったまさにその日、悲しむどころか却って酒宴に興じており、そのことが当時一五歳で多感な時期にあった義持の反感を買ったのだと伝えられている。折り合いの悪かった父への意趣返しで日明貿易を中断したという理屈である。父嫌いの私情を優先して実利を捨てた義持の政治手腕を疑問視する向きもあったが、前述のとおり貿易中断は他ならぬ義満自身が遺言したことであり、義持はそれを遵守したにすぎない(『善隣国宝記』)。

 そして日明貿易中断と共に、父子の折り合いの悪さを物語るエピソードとして語られがちだったのが、故義満に対する「太上天皇」号贈呈とその謝絶問題であった。義持は父の死と同日、朝廷より打診されたこの尊号贈呈を、時の管領斯波しば義将よしゆきと相談した上で断っているのである。

 朝廷より亡父へ尊号が贈呈されると聞いて

(なにを今さら……) 

 内心密かに吐き捨てる義持。

「太上天皇」号は、義満が生前から求めていた尊号であった。父の存命中には

「前例がない」

 として断り続けてきたものを、死んだ途端にくれてやるというのだから、これを故人に対する当てつけと言わずなんと言おう。

 父義満の死は、足利家が有する権威の総合計から、父の有していた部分がごっそり削り取られることと同じであった。義持はこれから先、なんらかの方法により削り取られた部分を補填していかなければならないのである。既に亡くなった父への尊号贈呈は、むしろその補填しなければならない部分を増やすだけで、義持にとっては負担以外の何ものでもなかった。

 もし義持がそのことに気づかず、父が望んでいたものだからといって喜んで飛びついておれば、同じ尊号を今後にわたって得るためにそれ相応の負担を強いられ続けることになろう。義持には、父の死という弱みにつけ込んだ朝廷の底意地の悪さが目に見える気持ちだったに違いない。朝廷がせっかくくれてやると言った尊号を謝絶した所以は、当てつけに対して当てつけで応酬した結果であった。

 父が死んで削り取られた権威を補填していかなければならぬ、という立場に立ったとき、義持が改めて気付かされたことがある。義嗣の存在価値である。

 嫡男義量への将軍位継承を望む義持にとって義嗣は潜在的な脅威であった。前述のとおり短期間で異例の昇進を果たし、「新御所」と呼称された義嗣を、次の室町殿と世間は見立ててもいた。夫義満を喪った日野康子などは、猶子である義嗣にテコ入れし、今後何かにつけて巻き返しを狙ってくるだろうことも十分予想されることであった。

 しかし

「足利家全体の権威を上昇させる」

 この観点に立ったとき、義持を不安にさせるほど義嗣を推しに推しまくった晩年の義満の意図が、義持には今こそはっきりと理解できた。

 義持は応永九年(一四〇二)一一月一九日、一七歳のころに従一位に昇叙されている。

 その上の正一位となると生前叙位が稀であり、死後に贈呈される栄典としての側面が強い位階だったから、義持は従一位に叙された時点で頂点を極めたということになる。義持が位階を極めたということは、義持にテコ入れする形での足利家の権威上昇策が尽きたことをも同時に意味していた。

 この状況を打開しようと思えば

「他の足利を取り立てる」

 これ以外に方法がない。

 そこで義満が白羽の矢を立てたのが義嗣だったというわけである。

 ただしこれには強い副作用が伴った。言うまでもなく後嗣問題で禍根を残しかねないという副作用である。実際世間は「新御所」と称され希代の累進を重ねる義嗣こそ次期将軍と噂するところしきりであった。

 ここで義円(後の足利義教)を思い出していただきたい。義円は義持の同母弟である。血筋からみれば義持により近いのは義嗣ではなく義円ということになる。その近すぎる血縁ゆえに、昇進に伴う副作用を危惧され、後継候補から強制的に排除させられたのが義円だったのではあるまいか。

 等持院において亡父の喪に服する義持。共に籠居する義嗣はといえば、北山第に父を看取った悲しさから憔悴しきっていた。

「父を喪って……私にはどうして良いやら……」

 長い睫毛を濡らしながら途切れがちに絞り出す義嗣。ここ二箇月で急激に公家社会に進出した義嗣には、まだまだ後ろ盾が必要だった。不安が、義嗣を押し潰そうとしていた。

「父には及ばぬがわしが父に成り代わって引き続きそなたを取り立てよう。このようなときこそ兄弟ともに手を携えて、足利を盛り立ててゆかねばならぬ」

 義持は、義嗣の白く華奢な手を握りながら言った。

 義満の中陰仏事最終日に当たる六月二五日、義嗣は追悼文を読み上げている。『書経』より、周の武王死後、若き成王を支えた魯公周公旦と衛君康叔の故事を引いて、兄弟間の協力を誓ってこそ亡父への忠孝となる旨の追悼文を読み上げたのである。これはひとり亡父への追悼の思いを込めたのみならず、兄将軍義持への服従宣言でもあった。

 義持と義嗣。この兄弟の間に亀裂のひとつも生じていないように、人々には見えた。

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