1:15 疫

【アーテア大陸 開拓基地02 北東約25km地点】

Apr/25 22:30


 開拓団の人間からは『ラプトル風』と呼ばれている、その肉食恐竜は飢えていた。


 先日、その『彼』は二匹の仲間とともに、初めて見る硬そうな『何か』を襲ったのだが、返り討ちにあってしまった。さらには巨大な魔竜の成体までもが追い討ちをかけてきて、彼一匹だけが這々の体で逃げ延びたのだ。

 彼には仲間と連携して狩りをする程度の知能はあったのだが、記憶力が弱いので、その時のことは相手の大雑把な形と、凄まじい恐怖を感じたという印象くらいしか憶えていない。

 人間で言うところのPTSDを発症するほどデリケートにできてはいないが、それでも時折、あの硬そうな何かや、巨大な影が近くにいるんじゃないかと、ビクビクと周囲を見回すこともあった。


 そして、その時に受けた腹部の怪我が治らず、痛みで狩りもろくにできない状態が続いていた。手足にも痺れが残っている。狩りの仲間ももういない。辛うじて、草原に転がっていた死骸にわずかに残っていた腐肉を口にした程度だった。

 この調子で行けば、間もなく彼自身もその死骸と同様の姿になるのだが、あいにく他者の死骸を見て、自身の末路を連想するような想像力は備わっていなかった。

 頭の中にあるのは、疲労と、圧倒的な飢えだけだった。

 だから、危険を察知する本能も鈍っていたのだろう。


 彼と彼の種族は、肉ならばだいたいなんでも食べる。共喰いさえも、忌避しない。死んでから時間の経った死骸でも、普通に腐っているだけであれば気にせず喰う。

 そんな彼らでさえも、絶対に喰わないモノがあった。

 それを無理やり人間の言葉に置き換えるならば、「吐き気を催す、忌まわしく悍ましいモノ」といったところだろうか。

 それは見ただけでわかる。彼らの本能が、『アレを食べてはいけない』『アレに近づいちゃいけない』という強烈な忌避感を訴えるのだ。もちろん彼らには言語などないので、直感としてだが。


 ある種の恐怖でもある。ただ、それは魔竜の成体のような、わかりやすい圧倒的強者に感じるものとはまた別枠である。『アレ』に対して感じるのはそういう恐怖ではない。根本的に、恐ろしさのベクトルが違う。

 強いか弱いかでいえば、『アレ』は絶対的に弱いだろう。しかし、本能的に受け付けられない。

 『アレ』はダメなのだ。喰ってはいけない。近寄ってもいけない。

 そこに理屈はない。直感だから。とにかくダメなのだ。

 進化の過程で、特定の物体に対する嫌悪感、直感が本能のレベルで備わっていた。そういう性質を獲得したからこそ、種として生き残ってこれたとも言える。


 心身ともに正常であれば、彼は本能に従っただろう。

 だが、肉体は傷つき、飢えによる極限状態で、本能も磨耗しきっていた。そんなときに、彼は『アレ』に遭遇してしまった。





 上弦を超え、七割ほどに満ちたセリーンが辺りを照らしていた。


 日が暮れてもなお、空腹に苛まれながら彷徨い続ける彼の前に、ふらりと一匹の恐竜が現れた。

 群れからはぐれたのか、四足歩行する中型の草食恐竜が、ゆっくりと歩いていた。肉食恐竜である彼が目の前にいるというのに、まるで無警戒であるかのように、まったく逃げる素振りも見せなかった。

 薄闇の中で、手近にあったシダ類の草に近づくと、ひどくゆっくりしたペースでその葉を食べ始めた。


 本来、その種類の恐竜は変温性であり、活動は太陽の熱を受けられる昼間が中心となる。また、夜間の活動に適した感覚器官も持ち合わせていない。何かに追い立てられたとかでなければ、こんな時間にふらふらと活動するようなことはないはずだった。ましてや、捕食者の目の前でのんびり餌を食べているほど、警戒心が弱くもない。

 もっとも、彼にはほんの些細な違和感を憶えるほどの観察力・洞察力もなかったし、彼にとって大事なのは喰えるかどうかだけだった。


 しかし、絶好の獲物のはずのそれは、『アレ』の特徴を備えていた。

 目は白濁し、皮膚は一部が爛れて腐り落ち、独特の腐臭を放っている。普通なら静かに地面に横たわって朽ちていくだけのはずなのに、緩慢で足取りが覚束ないながらも立って歩き、ゆっくりと動いている。あまつさえ、餌を食べている。


 普段だったら、彼は逃げ出していただろう。だが、彼にとっては不幸なことに、飢えが危険を察知する本能を上回ってしまった。もはや限界だったのだ。


 肉。腐ってるのに動いてるけど、とにかく肉。肉。肉々しいほどに肉。


 彼はそれに飛びついてしまった。

 獲物は襲い掛かられてもまるで反応しなかった。爪を突き立てられても平然としていた。血は吹き出ず、替わりにドス黒い粘液が静かに垂れるだけ。明らかにまともな獲物ではなかった。

 しかし、彼は獲物の腹に喰らいついた。そして、『アレ』を口にしてしまった。

 ひどい味だ。そこらの腐肉でさえ、ここまでひどい味はしない。ひどすぎて嘔吐してしまうが、戻した分も補うべく、さらに喰らう。

 かすかに残った本能がかろうじて警報を鳴らし続けているが、飢えには勝てなかった。

 彼はとにかく胃の中にその肉を詰め込んだ。

 終いには、横隔膜などの筋肉も消耗しきって、吐き戻す力さえ出なくなった。


 それから数分もたたないうちに、彼は白目を剥き、口から泡を吐いてその場に倒れた。体が痙攣していた。


 彼に腹を喰い散らかされた獲物の方はといえば、捕食者のことをまるで気にすることなく、千切れた内臓を垂らしながら、よたよたとゆっくり歩き去っていった。



 彼は死というものを理解していない。ただ漠然と、失敗を悟っただけだった。

 味がなんであれ、胃袋が膨れたことで、彼は最期の一時に多少の幸福を感じられただろうか。

 そうして彼の意識は消えた。



 彼はそこで終わったはずだった。だが、彼の中では『アレ』が活動し始めていた。

 目には見えないミクロの世界でそれは進行していた。


 『アレ』が分泌する毒素によって、胃の粘膜が爛れ、ぐずぐずに腐れ落ちた。そこから『アレ』は彼の体組織へと侵入していった。


 そこは『アレ』が分裂増殖するのに適していた。

 1個が2個に、2個が4個に、4個が8個にと、倍々に増える。65,536個が131,072個に、262,144個に……。

 免疫系もすでに敵ではなく、『アレ』は爆発的に増殖した。増えた分は鞭毛を使って血流が止まった血管の中を這い回り、さらに宿主の体の隅々にまで広がっていった。

 やがて、『アレ』は彼の脳細胞や神経系をも侵蝕した。


 彼の循環器系はとっくに機能を停止していて、彼の細胞はすでに死滅を待つばかりの状態だった。だが、『アレ』は空間に満ちる力を利用して、そこにあった老廃物を組みなおし、活力として死んだ細胞に中途半端に分け与えていた。



 彼の亡骸だったものが、ゆっくりと身を起こした。

 目は白濁し、皮膚は一部が爛れて腐り落ち、独特の腐臭を放っていた。普通なら静かに地面に横たわって朽ちていくだけのはずなのに、緩慢で足取りが覚束ないながらも立って歩き、ゆっくりと動いていた。


 動いてはいても、『アレ』によって歪な形で動かされているために、彼の体はかなりの部分で機能障害を起こしていた。

 脳にも大きなダメージがあったが、まだ断片的な思考が残っていた。それは、獲物に爪を突き立て、噛み付くという攻撃本能が中心だった。そして、たまたま『アレ』が多く蔓延っていた筋肉などは、逆に以前よりも強化されていた。

 それらは結果的に、『アレ』を相手に植え付け、『アレ』の増殖を手助けするものとなっていた。



 月は彼の姿をずっと見下ろしていた。だが、アーテアの広い大地の片隅で起きた些細な変化に、月が気に留めることはまだなかった。

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