12.エゴで失ったもの

 葉子の胸にさらにじっくりゆっくりと楔が刺さり、鈍い痛みなのにズキズキと続いて、呼吸が荒くなりそうだった。

 どうしてこんなに憎まれるようになったのか。本当に蒼のことだけ?

 それでも仕事中、サービス中なので、懸命に平静を装う努力をする。

 矢嶋社長はもう、ただただにっこりと微笑んでいるだけ。


「そうでしたか。あちらのメートル・ドテルの男性が提供されるものは、素晴らしいものなのですね」

「はい。素晴らしいです。何度いただいても極上です」

「そうですか。次回検討してみます」

「ぜひ、そうしてくださいませ。予約が重なっていないことを今度はご確認されるとよろしいかも。それにしても、こちらのレストランで、予約がかぶったのでこのような対応をされるとは思いませんでした。まさか、まだ修行中のセルヴーズさんを使われるだなんて。とんだ対応でしたわね」


 もう矢嶋社長はなにも返答せず、そっと会釈を返しただけだった。

 安積先生が満足そうに去って行った。


 胸の楔が痛い――。でも全て事実。葉子は先生のようにプロになれた時期が一度もなく、なのに素人として日々、動画を配信していて気構えもその程度。いまのクレープフランベだって、お相手は提携先社長さんのテストではあったけれど、もしお客様であれば、とてもではないけれど召し上がってたいただくレベルでもない。


 先生が去って行くと、矢嶋社長が声を掛けてくれる。


「よく堪えましたね。サービス中はなにがあっても、今後もそうしてくださいね」

「はい」


 安積先生のご一行様が玄関へと向かいお帰りの時間となった。


「一緒にいらっしゃい。葉子さん」


 見計らったように社長が席を立ち、葉子を連れて玄関へと向かう。


 コートを身に纏った安積先生は、その日も蒼に一生懸命に『おいしかった。素晴らしかった』と讃えている。

 ギャルソンの神楽君が玄関のドアを開け、蒼がお見送りの姿勢を整えたそこに、矢嶋社長も並んだ。その隣に並ぶように葉子も言われる。

 蒼と社長と葉子が一列に並ぶ。

 そのお見送りの態勢を知った安積先生の笑顔が消える。


「いつも、こちらのご利用、篠田をご指名くださって、ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」


 矢嶋社長のお辞儀に合わせ、追うようにして蒼とともに葉子も頭を下げて見送った。


 三人揃って頭を上げると、いまにも泣きそうな安積先生の顔がそこにあったのだ。


 お客様だと思っていた男性が、蒼の上司だと気がついたようだった。

 そこからなにを感じるのか。彼女ほどの大人の女性なら様々なことに思い馳せることが出来てしまうことだろう……。


 他のお客様もおかえりになり、本日のフレンチ十和田、クローズとなる。


「篠田。来い」

「……はい」


 閉店後、蒼は矢嶋社長の怒声を浴びていた。

 給仕長室でふたりきりで入っているが、その叱責がホールまで聞こえてきた。


 一緒に片付けをしていた神楽君が、葉子のそばでぽつりとこぼした。


「ここは、ホストクラブじゃねえって。まったく」


 葉子を外し、男性だけが給仕するそこで、女性達が蒼や若いギャルソンに向かって、かしましい揶揄を繰り返していたと教えてくれた。


 そうなる店の空気をつくってしまうのは、メートル・ドテルの責任になる。


 だから蒼が責められている。

 彼はなにも悪くないのに……。すべては中途半端な自分が調子に乗っていたからだと思う。


 だから、社長。怒らないで。

 葉子は思わずそう進言したくなり、給仕長室へと向かっていた。


「わかっています。私の責任です」

「どうしてこうなるまで放置をしていた! お客様の言うがままだけがサービスではないとわかっているだろう。店の空気、従業員を守ること、厨房の回転を保つ、すべての調和をコントロールできてこそ、ディレクトールを兼任するメートル・ドテルだ」


 そう聞こえて、葉子はなりふりかまわずにドアを開けて間に入ろうとした。


「三月まで待てない。一度神戸に戻ってこい。いまここにおまえがいるのがいちばんのリスクだ」


 蒼が――

 神戸に戻される――?

 いちばんのリスク――?


「……承知、いたしました」


 しかも、蒼がその場で即答してしまった。


 先ほどの楔が、ずっしりと胸の中心まで突き刺さりのめり込んだ痛みが走った。今度は激痛。


 なんで。こんなことになっているの。

 どうして? 私、なにをしてきたの?

 ただ、ただ、秀星さんを追ってきただけ……。

 どうして……?


「葉子。何をしている」


 父も矢嶋社長に連れ去られた蒼が気になったのか、そこにいた。

 ドアの向こうで続いていた矢嶋社長の説教の声も聞こえなくなる。

 ドアの外に葉子と父がいることに気がついたのだろう。


 社長がドアを開けてくれる。


「十和田シェフ。お話しがあります」

「はい……」


 だが矢嶋社長は、葉子を中に入ることを許してくれなかった。

 ひとりだけ通路に残され、ドアが硬く閉ざされる。


 それでも男達が話している声が聞こえてくる。きっと社長も葉子に聞こえていることは百も承知で、それでも、ここから先はまだ一介のセルヴーズは入ってくるなという線引きをしているのは、葉子にもわかっている。


「篠田を一度、返していただきます。代理のメートル・ドテルをすぐに派遣いたしますので、それでお許しください」

「私の娘の関係者から起きたことです。篠田君だけ責めるのはどうかと思います」

「責任もありますが、あちらのお客様の目的を削ぐ、いま熱しているものを一度冷ましていただく冷却期間だと思ってください」

「……そうですね。そのほうがよろしいかもしれません。ですが、私もやっと篠田君と波長が合ってきたので残念です」


 父も、もう二度と帰ってこない覚悟をしていると葉子は悟った。


 また……。葉子から、信頼している人が消えていく。


 葉子はその場を離れる。

 その日の夜、蒼はもうホールには戻ってこなかった。

 葉子と後輩のギャルソンの男の子ふたりと片付けをした。




 その日の晩。葉子はレストランのそばにある実家の自室で、秀星の写真をみつめていた。

 店の前で、父と彼と葉子と制服姿で並び、母が撮影してくれたものだった。


「秀星さん。エゴは綺麗じゃないって言っていたね。私のエゴを気に入らない人もいるんだよね。人には汚く見えるんだね」


 あんなに気にならなかったのに。人になにをいわれようが貫く勢いとエネルギーが湧き上がってくるものをいままで感じていたのに。

 いまはちょっと殴られただけで……。


 違う。違う。ひとりじゃなかったんだ。ここまでエゴをやりとおしたそこに、そのエゴすら支えてくれている人々がいて、でも葉子はひとりでやりきったように勘違いをしていたのだ。

 それが鼻につく。憎らしく思われる。


 エゴは時には人を傷つける。

 知らないうちに葉子は、誰かを傷つけていたのかもしれない。


 明日も仕事。サービスに影響しないようにと、葉子ははやく就寝をした。秀星の写真を胸に抱いて。泣きながら……。なかなか寝付けなくて、それでも夜遅くに力尽きるように眠れたようだった。


 朝起きて、支度をして、経理を担当している母が矢嶋社長と父と会議をするのに忙しそうにしていたので、言葉も交わさずに葉子は出勤をする。


 葉子は自宅で制服に着替えているので、そのままの姿で出勤をする。

 いつもレストランにもギターを持って行く。カメラを手放さない秀星と一緒だった。


 皆が出勤する前に、本日の唄の録画をしておくことにする。

 給仕長室を開けて、窓辺にある丸椅子に座る。

 今日も白樺木立は積もった雪とおなじ白い色彩で佇み、その向こうの湖も結氷して真っ白な雪が積もっていた。


 録画の準備が完了。ギターを構える。


今日のリクエストは――。


 葉子は口を閉ざす。もう一度、息を吸って。


今日のりくえす……。

今日のリクエストはBUMP OF CHICKENの……メロディーフラッグ……


 喉元をそっと手で押さえる。

 声が、出ない。

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