第35話 ヤクザ公務員
有村結衣の署名活動はかなり上手くいった。満足のいく数が集められたおかげで、叔父もお店の存続に肯定的な意見を持つようになっていった。しかもそれは彼女の叔父だけではなく、大和田屋を始め、再開発に反対する地元の声も増え始めていた。
「これが、私が集めた署名の全てです」
路地裏にある、小さな喫茶店。有村は集めた署名を提出するため、市の担当者とそこで会っていた。若くて感じのいい見た目だったが、実際は少し違った。
「よくこんなに集めましたね」
「ありがとうございます!」
市の担当者がこの喫茶店を指定した。市役所まで行きますと、有村は言ったが、担当者はなぜかこの喫茶店を推してきたのだ。
「これ集めるの、時間かかったでしょう?」
有村から預かったその分厚い書類を、担当者は持ち上げてそう言った。想像より重かったのだろうか、すぐにテーブルに置いた。
「はい。最初は皆さん、署名なんかしても意味ないって言ってたんです。でも徐々に集まってくると、地元を思う人も増えてきて、気づいたらこんなにたくさんの人が署名してくれたんです」
「へー、そうなんだー」
担当者の反応は意外と薄い。有村の思っていた反応とはなんだか違った。
「これ、一人で集めたの?」
「はい、一人です」
担当者は眉をピクッと上げ、うんうんと何度か頷いた。
「すごいねぇ、お嬢ちゃん」
「もうお嬢ちゃんって言われる歳でもないんですけどね」
「あらそう?それは悪いねぇ」
何も考えず喋っているのだろう。口から出る言葉がどれも軽い。有村は至って真面目なのにも関わらず、担当者は終始彼女を下に見ているような態度だ。
「すいません、ちゃんと聞いてます?」
「え?ああ、もちろんもちろん。すごいねぇ」
同じようなセリフを、もう何度も聞いた。有村の署名も、ちゃんと真面目に扱ってもらえるのだろうか。有村はかなり不安だった。
「あの、これから私は何をすれば?」
「もう何もしなくていいよ、別に」
担当者に冷たくあしらわれる。彼女の言葉はことごとく担当者に跳ね返される。その度イライラが募っていく。
「これって、企業の方にもちゃんと伝えてくれるんですよね?」
「企業って?」
「この地区を再開発する企業です」
「あー、ファブリックさんのことですね」
ファブリックと言えば、日本に留まらず世界でも最も有名な企業の一つだ。何をしている会社なのかは、正直有村にもよく分かってはいない。しかし、有村が相手にするには少々大きすぎる会社であることは言うまでもない。
「ファブリックさんにも、この署名は渡してもらえるんですよね?」
口調を強めていう彼女の視線は非常に鋭く担当者に突き刺さっている。だが、彼は一切動じない。
「ははは、それは無理な話だね」
彼はそう笑い飛ばした。さも当然のように。
「いやいや、ちょっと待ってください。ならなんのための署名なんですか?」
「馬鹿言うんじゃない。そんな紙切れで再開発が無くなるとでも思ってるのかい?」
担当者の嫌味な言い方は、きっとわざとだ。担当者に、最初から真面目に署名を受け取るつもりが無かったことに気づくと、有村はとうとうイライラがピークに達した。
「なら、これを直接ファブリックさんに直接渡します」
「無駄だね。やめときな」
有村も頭が回る人間だ。市の立場になって考えてみると、再開発は悪くない話だ。今のまま商店街を維持するよりも、大きな建物を建てた方が税金も多く入るのだろう。さらに、もしファブリックと密癒着があるのなら、市も半ば強引に再開発を進めようとしてもおかしくはない。多少の市民の反乱はある程度織り込み済みのはずだ。
「じゃあ、マスコミに公表します」
有村が捨てるように言ったその言葉を聞いた瞬間、担当者の顔から先ほどまでの笑顔が消えた。有村はその瞬間を見た時、調子に乗って口を滑らせてしまったことを後悔した。
「あぁ?今なんて言った?」
その形相はもはや市の役員とは思えない。ヤクザだ。有村はもうその男の顔すらまともに見れそうになかった。
「ご、ごめんなさい……」
とにかく謝る他にない気がした。少し様子を見て、また仕掛けるしかない、そう考えた。しかし、その判断は少し遅かった。
「ちょっと来い、お前」
担当者は有村の腕を強引に掴んで引っ張った。彼女の腕を握る握力は必要以上に強く、振り解こうにもそうはいかなかった。
「ちょ、ちょっと、待って!」
「うるせぇな。ちょっと黙れ」
喫茶店の中にも関わらず、男は有村の腹部を思いっきり殴った。あまりに痛さに有村は悶絶し、その場に倒れ込んだ。
「立てやコラァ。こっち来い」
再度腕を掴まれると、抵抗する術もなく喫茶店の外に連れ出されると、さらに狭い路地に投げ出された。受け身をうまく取ったものの、殴られた腹部や強く掴まれた腕がズキズキと痛む。
喫茶店から少し離れると、人の姿はほとんどない。有村はここがどこだからわからなかった。ただ、電車の駅の近くにある、線路の高架の下だったと言うことはわかった。
きっとあの担当者は、元から有村のことを力ずくで処理するつもりだったのだろう。彼女はそれに気づくと、すぐさま携帯電話を取り出した。
「おいてめえ!余計なマネすんじゃねえ!!」
担当者はすぐに気づいて、携帯を奪おうと飛びついてきた。有村は体を使って上手く避けたが、揉み合いになると力は遠く及ばない。両手で握りしめていた携帯を、すぐに男もガッと掴んだ。
「ははは。誰かを呼ぼうったって無駄だ」
徐々に携帯が有村の手の中から抜けていく。もうこの状況で携帯を操作することはできない。有村は必死になって携帯を守ってはいるが、死守できたとして誰かに連絡を取れるとは思えなかった。
だが、有村が諦めかけたその時だった。
プルルルル、プルルルル……。
手を離しかけた瞬間に、携帯電話が鳴った。チャンスは今しかない。有村に悩む時間はない。彼女は脚を大きく上げて、ヒールの踵を男の腕に思いっきり振り下ろした。
「あっ!!いってぇ!」
男は油断していた。思わず携帯を離した。
「くそ!おい!やめろ!」
有村は一瞬の隙に画面をスライドし、電話を取った。電話をかけてきたのは、あの池谷だった。
「慎也くん!助けて!お願い!!」
それが電話の相手である池谷に伝わったかどうかはわからない。だが、彼女にできることはもうそれぐらいしかなかった。次の瞬間、男の手によって携帯電話は奪われ、通話を切られてしまった。その時、電車が二人の上の高架を通過していった。
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