第2話 探り

 前田さんのご主人、前田隆二さんは約束の時間ぴったりに来てくれた。

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 俺は小さめの個室に前田さんを案内した。すぐに田所さんがお茶を入れて持ってきてくれた。

「どうも」

 田所さんは軽く会釈をして、部屋から出て行った。俺と前田さんの2人だけが空虚な部屋の中に残された。

「は、はじめまして。弁護士の池谷と申します」

「前田です。よろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします」

 前田さんはかなりいかつい男性だった。強面で体つきも良く、羨ましいぐらいに身長が高い。

「今回は奥様と離婚されるということで、えーっと、財産の配分や親権を奥様と争っていくことになります。宜しいですか?」

「ええ。よろしくお願いします」

 前田さんは優しく微笑んだ。

「ええっと、預かった資料は目を通しておきました。奥様が」

「あの。さっきからあいつのこと奥様って言わないでください。怒りが蒸し返してくるんで」

「ああ、す、すいません。申し訳ございません」

「はあ」

 ご主人は俺にも聞こえるような声でため息をついた。さらには腕を組んで、背もたれにもたれて俺から目を逸らしてしまった。

 離婚裁判を多く見ていると、結婚生活の大変さがよくわかる。ストレスを溜めた両者が一歩も引かず言い争う。耳を塞ぎたくなるような暴言が出る場合も少なくない。そんなにも精神状態が追い込まれるのに、わざわざ結婚なんかする理由はない。

 きっと前田さんも同じような状況なのだろう。ずっと我慢してきたが、奥さんの不倫でとうとう堪忍袋が切れたのだろう。

 結局、結婚とはそういうものなのだろう。自分の時間と自由を奪われ、苦を押し付けられる。俺の目の前の前田さんがまさにそれを体現しているかのようだった。

「あいつが裏切ったんです。なのに親権だの財産だの抜かしやがって。自分勝手にも程があるだろ?」

「ええ。ま、まあそうですね」

「勝てるんですよね?裁判になっても」

「今のところは、そうみて問題ないかと」

 俺の言葉を聞いて少し安心したのか、前田さんはハンカチで額の汗を拭き取った。

「なら良かったです。では今日はこの辺で。予定があるので」

 カバンを手にして、俺に軽く頭を下げると、何も言わずに事務所を出ていってしまった。まだ来て5分も経っていなかった。

「池谷先生、どういうこと?」

 田所さんは、結局一口も飲まれなかったお茶を片付けていた。

「いや、予定があるって……」

「ふっ。あいつも浮気してんじゃねーか?奥さんの不倫を理由に別れたいだけだったりしてな」

「そ、そんなまさか。やめてくださいよ橋本先生!きつい冗談を」

 背中がゾワっとした。だがその冗談を俺には否定しきれない。橋本先生のこういう予想は案外当たるし、あの大きい態度を見ていればその可能性が高いことも一目瞭然なのだ。

「おい池谷、あいつしっかり監視しとけよ。旦那の不倫が本当だったら、それが相手に知れたらまずいぞ」

「は、はい」

 それは忠告でもなんでもない。どうやら俺はかなり大きな爆弾を抱えてしまったようだ。

 だが俺は前田さんのご主人の弁護人である。如何なる理由があろうと彼を裏切ってはならない。例え彼がどれだけの悪だとしてもだ。なぜなら悪を守るのも弁護士としての正義だからだ。俺はそれを大学でも六法全書からでもなく、橋本先生から教わった。

 しばらく悩んだ挙句、前田さん夫婦の周囲に探りを入れることから始めることにした。事情が詳しく分からない限り、攻め手に欠けてしまう。俺は前田さんの子供が通っている小学校に足を向けた。


 その小学校は事務所から電車を1時間弱のところだった。高いビルなどは少ないベッドタウンのような小洒落た町で、落ち着いた雰囲気がとても心地よかった。

「あ、あれかな?」

 駅から地図を頼りに10分ほど歩いた。やがて住宅街の一角に、平べったい校舎が姿を表した。その建物の大きさや風格から、それが薪葉小学校であることに疑いはなかった。

 時間は昼過ぎ。正門は完全にしまっていた。俺は仕方なく古びたベルを押した。

《はい、どなたでしょうか》

「さ、先ほどお電話させていただいた橋本法律事務所の池谷と申します」

《あー、池谷先生ですか。ちょっと待っててくださいね》

 すると校舎から何人か人が出てきて、俺のいる正門まで走ってきてくれた。そしてすぐに鍵を開けてくれた。

「あ、ありがとうございます」

「お待たせしました。どうぞ、こちらへ」

 俺はその小学校に足を踏み入れた。グラウンドの土の感触が不思議と懐かしく感じた。ここの卒業生では決してないのだが。

 横に長いグラウンドを横切って、年季のある建物に入った。登りづらいほど緩やかな段差の階段を登ったら、右手に職員室が見えた。その職員室の奥にある応接室に俺は案内された。そこの部屋だけにはエアコンが内蔵されていた。

「えーっと、申し遅れました、私1年生の学年主任をしております長居です。確か前田さんのお子様のことで聞きたいことがあるとか」

「はい。ご協力をお願いします」

「もちろんです。おい、弁護士先生がいらしてるんだぞ!お茶を出せお茶を!」

「いやいや、あの、いいんです。お構いなく」

「そんなわけにはいきませんよ、先生。お客様なんですから」

 長居先生は若い女の先生にお茶を運ばせた。彼女はなにも言わず黙々と俺の前にお茶を置いた。俺は彼女に礼を言った。

「あっ、こいつが前田倫太郎くんと真紀ちゃんのクラスの担任の大石です」

「あ、そうなんですか。ど、どうも。池谷です」

「1年2組の担任の大石咲です。こんにちは」

「長居先生、大石先生からお話を伺ってもいいですか?」

「あ、そうですか。まあいいですよ。ほら大石、座れ」

「失礼します」

 彼女はどうも居心地が悪そうだった。その理由は俺にも薄っすら分かったが、注意する勇気を俺は持ち合わせていなかった。

「実は前田さんご夫婦が離婚されることになりまして、それでお子さんの親権などで争っていまして。先生方からお子さんの状況や、前田さんご両親について知っていることがあったらと思って、お伺いした次第です」

 長居先生は腕を組んで、神妙な面持ちを作った。対して大石先生は俯いていた顔をひょっと上げ、何か言いたげな目を俺に向けた。

「それなら私がご説明します。前田さんのご主人はとても気さくな方で、お子様にも優しく、大事に思っているお父さんでした。しかし母親の方は、お子様にはあまり興味がないような方で、行事などにもあまり来られないことが多いですね」

「はあ、なるほど」

 俺は持参したペンで手帳にメモを取った。

「あの、大石先生はなにかご存知ですか?」

「大石は私と同じ意見です。聞かなくても結構です」

 長居先生は俺の質問を強引に遮って、大石先生に発言する機会を与えようとしなかった。俺は流石に疑問を抱かざるを得なかった。だがこれ以上詮索するのは得策ではない。突っぱねられると二度と話を聞けなくなる。今回はもう引くしかないだろう。

「ありがとうございます。では、これで」

「いいんですか?授業風景などもお見せできますが」

「ありがとうございます。でも今回は遠慮しておきます。予定もあるので」

「そうですか。では正面までお連れしますね」

「どうも」

 俺は長居先生に気付かれぬよう、ソファの間に自分の名刺を挟んだ。

「大石、お茶下げとけよ」

「はい」

「では池谷先生、行きましょう」

 彼女が俺の名刺を拾ってくれることを祈りながら、俺は応接室を出た。

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