君に「要らない」と言われたとしても 2

 右腕はカイニの斬撃により蝕まれ、自ら切り落とすしかなかった。

 右翼はダネカの必殺により切り飛ばされ、もう飛べない。

 全身にダメージが入り、体の外にはダネカの斬撃による切り傷が、体の内にはカイニの極めて強力な蹴りによるダメージが浸透していた。


 キタ自身ではなく、キタが成長に導いた者達により、ネサクとルビーハヤブサはその力をとことん削り落とされていた。

 それが勇者の資質なのか。

 あるいは無関係なキタの資質なのか。

 それは誰にも分からない。


「『人間。一撃離脱で行くぞ。まだ魔物の襲撃は起こっていない。だが我々も翼と飛行能力を失っている。密かに行動を心掛けて、あの黄金の子供を避けて群れに突っ込み、ルビーの雨で一掃する。そうすれば……』」


「『……』」


「『……人間?』」


「『あ、ああ、すまない。少し、考え事をしていた……』」


「『フン。今更自分のやることに苦悩しだしたか?』」


「『……違う。一つ一つ、迷いを振り払ってるんだ。余計なことを考えたくない。我を忘れて走っていたい。このが醒めないまま、ゴールまで行きたい』」


「『殊勝な心がけだ。それでいい。お前を選んだのは私であり、私達だ。そして応えたのがお前だ。誓約は最後まで守ってもらう』」


「『……』」


 カエイが死んだという速報を勇者の勝利より先に受け取って、何もかもがどうでもよくなったネサクは、酒浸りになり、ロクに食事も取らないまま、酒を飲んでは透明な吐瀉物を吐き出し続けるだけの日々を部屋で送っていた。

 カエイが彼の生きる意味だった。

 それを失ったことで、カエイは悲しみを反芻するだけの抜け殻になった。


 あの声を聞くまでは。




『どんな過去でも一つだけ、変える権利を君にやろう。滅びと引き換えに』




 その声に応えた瞬間から、人は怪物に成り果てていく。

 体が、ではない。

 体は人のそれに擬態できる。

 変わっていくのは、心だ。


 滅びと引き換えに過去の否定を選び取った瞬間から、その人間はその妄執のために生きることになる。

 時間を巻き戻し、世界を終わらせてでも、叶えたい一つの願いに向かう。

 そして、気付けない。

 彼らは自覚を持つことができない。

 そうなった人間が、ということに。


「『この街は私にとって毒だ。過去を思い出すものが多すぎる。すぐに移動して攻撃を実行しよう。この街を見ているだけで、私は妙な気持ちになってしまう』」


「『ああ、それがいい。これ以上邪魔をされたくない』」


 その時。


 彼の運命が。


 因果応報が。


 勇者達の奮闘が。


 あるいは、妄執の必然が。


 ネサクの『狂おしいほどの後悔』に、別の終点を提示した。




「ネサク! まだこんなところに居たの? 一緒に避難しましょう」


「カエイ! 君を探して外に出ていたんだ。君が心配で……」


「もー、ネサクったら。ふふふ。でも、嬉しい。ありがとうね」




 ネサクは息を呑んだ。

 ルビーハヤブサは、どう判断すべきか迷ってしまった。


 身を隠しながら街を進んでいた、その途中で、ネサクは見てしまったのだ。


 九年前の自分が、九年前のカエイと抱き合っている、その光景を。

 歩き出していく若き日のネサクとカエイの二人を。

 繋がれた手を、触れ合う指先を。

 仲睦まじい少年少女の相思相愛を。

 いずれ死別で引き裂かれる、淡い相互の初恋の姿を。


「『───』」


 ネサクの胸中を満たしたのは、地獄を舐めるような幸せな懐かしさ。


「『頼む、ルビーハヤブサ……お前との約束は守る。最後まで共に戦う。だから、少しだけ我儘を聞いてくれ。私の、世界より重い願いなんだ』」


「『……時間に余裕が無い。手早く済ませろ』」


「『ありがとう』」


 ネサクは、過去の自分と、過去のカエイをひっそりと追った。


 分かっていたことだった。

 キタがこの街を見た瞬間、過去の自分とダネカが居ることに気付いたように。

 ネサクもまた、この街を見た瞬間、過去の自分とカエイが居ることを、分かってはいたのだ。


 それでも狂気に溺れるように、その事実から目を背けていた。

 それを直視すれば、過去のカエイに会いに行かずにはいられないから。

 そして、過去のカエイに出会えば、何かが終わる確信があったから。

 けれどももう、こうして目にしてしまえば止まらない。


 ネサクはカエイの死という結果を時間改変で覆すために、そしてそれによってもう一度カエイと出会うために、ここまでのことをしでかしたのだから。


「『……』」


 ネサクが見つめる先で、少年と少女が話している。


「カエイ、君は危ないところになんて行っちゃダメだよ」


「あらあら、過保護。これでネサクと結婚なんかしちゃったらどうなるのかしら。お人形さんの部屋みたいなところに閉じ込められちゃったりする?」


「なっ……そ、そんなことするもんか! 君は自由だから良いんだ! 自由気ままに歩き回って、人を助けて、人に優しくして、だから皆に好かれるんだ! そんな君が好きなんだ! 君を閉じ込めたりなんかしたら……だけど、それとは別に、魔物が攻めて来てるって時に君が外を出歩いてたら、もしもを思うと……」


「ふふっ、冗談よ。ネサクはそんなことしないって信じてるもの。ネサクは昔からずっと、私のことを一番に理解して、大切にして、尊重してくれてるものね」


「……あ、ああ、冗談だったんだ。まったく心臓に悪いな」


「ふふふ。かわいいわね、ネサク。ね、皆避難に夢中でこっちを見てないわ」


「? そうだね」


「頬になら、キスしてもいい? きっとバレないと思わない?」


「!?!?!?!?!!?!」


「ふふっ、これも冗談よ」


「か、カエイっ!」


 言葉と言葉が繋がっている。

 手と手が繋がっている。

 心と心が繋がっている。


 ネサクとカエイが繋がっている。


 けれどもう、未来には繋がっていない。

 カエイを救って、人類が滅びる未来か。

 人類が救われて、カエイが死ぬ未来か。

 どちらかしかない以上、この過去はずっと先の未来まで繋がっていない。


 無いのだ。ネサクとカエイが共に生きていける未来など。


「でもね、私はあんまり心配してないのよ。だってネサクが居るでしょ?」


「私に何ができるって言うんだ……」


「素敵な服を作れる。私の全部を愛せる。私を守ってくれる。三つかな?」


「っ……ば、バカ言っちゃいけない。敵は魔物に魔獣だ。私じゃあ一番弱っちいやつでさえ倒せないさ。最悪だけど、君を守れないに決まってる」


「きっと私を救おうとしてくれると思うんだけどなぁ、どんなことをしても」


「そういう君の無根拠に人を信じるところを、私は素敵だと思うけれど、同時に危なっかしいと思っているんだ。もうちょっとこう、気を付けて……」


「無根拠じゃないよ?」


「……?」


 首をかしげる過去のネサクに、過去のカエイが、たくさんの素敵な想いが湧き出ているかのような笑顔を向けた。


 まるで、花束のような笑顔だった。


 カエイが死んで、ネサクが失ったものだった。


 もう既にネサクが失って、過去のネサクがこれから失うものだった。


「ほら、昔、ネサクが野良狼から私を助けてくれたじゃない?」


「いつの話をしてるんだ! 3つか4つの頃だろう、それは。相手動物だし」


「えー? 私は今でも鮮明に思い出せるのになー?」


「……からかってるのか?」


「うふふ。ごめんね。でもほら、私はさ、あの時にネサクを好きになったから」


「あんな前から!? 初耳だぞ!?」


「言ってなかったもーん。おほほほっ」


「十年来の隠し事……!?」


「いつだってネサクは私を守ってくれるんだ、って思ったから。かっこよくて、賢くて、素敵な服で皆を笑顔にしてるネサク。私はそんなネサクにふさわしい私にならないと、って十年くらいずーっと思っていたのです」


「そんなことしなくても、君は昔から素敵だったじゃないか。私が君に釣り合わないことに悩んでいたくらいだ」


「そういうとこだぞっ」


 過去のカエイがネサクの右手を両手で握って、ぎゅっと体温を伝える。

 過去のネサクの顔が真っ赤になった。

 過去のカエイの顔も、よく見ればほんのりと赤くなっている。


 二人を見ているネサクが、胸を抑える。

 呼吸が浅く、速くなっていく。

 ネサクは過去の自分と過去のカエイを、食い入るように見ている。

 目を見開いて、息を荒げて、食い入るように見つめている。


「『……』」


「『おい、人間』」


「『……』」


「『どうしたのだ人間。お前の心が伝わってこない』」


「『……』」


「『……ネサク! 聞こえているのか!?』」


 これが、過去に戻ったネサクが見たかったもので、見たくなかったもの。


 狂おしいほどの後悔を生んだものの一つ。


 ネサクとカエイの、なんでもない愛の日々。


「ネサクにしか守れないものってのがね、あるわけね」


「服屋の倅に期待することじゃないって!」


「もー、戦う力の話じゃないの! さっき言ったわ。ネサクは私のことを理解してくれて、大切にしてくれて、尊重してくれてるって」


「そりゃ……君みたいな娘が相手なら、誰だってそうすると思うけど」


「しーてーまーせーん。家族だってネサクほどにはしてません!」


「そうかなぁ」


「私が一番守ってほしいのは、私の心、私の想い、私の願い、そういうのなの! 強いだけの人に女の子は惚れたりしません! 命を守ってもらったから好きになるなんてこともありません! その人が私の心を理解してくれて、心を大切にしてくれて、心を尊重してくれる……そう思った時に好きになるの」


 そして、妄執が霧の向こうに隠してしまった、本当の想い。


「ネサクは私が好きなもの、欲しいもの、こうしてほしいこと、されたら嫌なこと、見たくもないくらいに嫌いなこと、苦手な人のタイプ、好きな食べ物、お気に入りの色、全部ちゃんと知ってて、それを行動に反映してくれるでしょ?」


「そりゃ幼馴染だから。特別なことじゃなくない?」


「もー、それが特別なの! ネサクは誰よりも私のことを知ってくれてるから、私を不快にさせないし、私を嫌な気持ちにさせないし、寂しさを見抜いて近くに寄り添ってくれるし、いつも喜ぶものをくれるし、いつも楽しい気持ちにしてくれる、それが『ネサクが守ってくれてる』ってことなの!」


「なる、ほど?」


「あーもう分かってない顔! だから私はね、どんなに強い人よりずっと、ネサクの方が私の心を守ってくれてると感じてるってこと!」


「……照れるな、ちょっと」


「あ、かわいー。ふふ。ネサクは可愛いね。私の前でしか照れないんだよね」


「な、そんな、別に……そんなことは、あるけど……」


「ふっふっふ」


 過去のネサクと過去のカエイを見つめる、ネサクの拳が強く握られる。


 爪が手の平に食い込み、ネサクの血が流れる。


 けれども、ネサクはその痛みに気付きもしない。


「私がしてほしくないことを、ネサクは絶対にしないでしょう? それが私の心を守ってくれてるんだな、って思って……ふわぁーってなるんだ」


「そうしないように気を付けて生きてるんだよ、私は」


「ネサクはもし何かがあっても、私が他人を犠牲にしてまで自分の願いを叶えようと思わないとか、そういうところをちゃんと分かって動いてくれてるもの。貴方はいつだって、私の心を、想いを、願いを分かってくれてる。それが嬉しいの」


「忘れるわけないだろう! 君はずっとそういう優しい娘だったじゃないか」


「ふふっ、ふふふっ。だから、大好きぃー」


「ちょっと、抱きつかないでカエイ! ここ外だから!」


「部屋の中だったらいいんだ、やっらしー、私に何するつもりなの?」


「大切にしてるって話だったろ! 何もしないよ!」


「ふぅーんー?」


 抱き締めてにやにやする過去のカエイ。

 胸を押し当てられてあたふたとしている過去のネサク。

 二人を後方から見つめているネサクが、歯を強く食いしばりすぎて、口の端から血を流している。


 この光景が、この会話が、この想起が、ネサクに対する罰だった。

 そう。

 ネサクはずっと裏切っていたのだ。

 誰よりも優しい、カエイの気持ちを。

 カエイのために世界を滅ぼすということは、一面的にはカエイへの愛の証明として正解にもなるだろうが、本質的には心優しいカエイに対する侮辱に等しい。


 そんなことは誰が見たって分かりきっていたことだった。

 それでもなお、そこから目を逸らし、ここまで来てしまったネサクに対して、因果は応報する。

 本当は。

 この世でネサクだけが。

 カエイの理解者として、死んでいったカエイが嫌がることを、絶対にしないということができる男だったはずなのに。


「ねえ、ネサク。貴方は変わらないで居てね。あ、成長してもっと素敵な男の子になるのはいいよ? それとは別に、貴方は貴方のままでいてね」


「え、なんだいそれは。変に小難しいな」


「私、女の子っぽくなったでしょう? 髪も伸びたし、顔も大人っぽくなってきて、ネサクをドキドキさせるくらいには胸もおっきくなってきちゃった」


「してない!」


「してるでしょ。ネサクだって、どんどん背が伸びてる。世の中はどんどん物騒になっていくわ。人だってたくさん死んじゃってる。勇者は旅立って、平和なこの街にも信じられないような魔物の大群が来てる」


「……」


「変わらないものなんてないと思うの。永遠の輝きなんて絶対にない。でもね、変わらないでほしいと私が願って、変わらないと誓ってくれる誰かがいたら、そこにだけはきっと、変わらないものがあると思うんだ」


「それを私に頼みたいってこと?」


「そっ! 私ね、考えてることがあるの。ネサクがいつまでもネサクのまま、とっても優しい私の理解者のネサクのままなら、私は安心して進んでいける! どこまでだって頑張っていけると思うんだ! だって、私が大好きなネサクが、私の大好きなネサクのままで、ここで待っててくれるんだから!」


「はぁ、まったく、カエイはいっつも思いつきから動いてばっかなんだから」


 過去のカエイが上目遣いで頼むから、カエイにとことん甘い過去のネサクは、断るなんて選択肢がなくて。


「……分かったよ。私は君の大好きな私のままで居る。これでいいかい?」


「やたっ」


 そう、誓った。


 ネサクは覚えている。

 この過去の約束は、この過去だけの話ではない。

 時間を逆行したこのネサクも、過去にカエイとした覚えがあった。


 妄執の霧に隠された向こうに、絶対に破ってはいけない約束があった。


 その約束はもう、破られていた。


「いつまでも変わらない貴方でいてね。私のヒーロー」


「君のヒーローで居られるなら、私はなんだってどんなことだって耐えられるさ。そのくらいには君が好きだ。分かってるだろ?」


「まっ、かっこいいっ」


 少年と少女が、手を繋いで歩いていく。

 永遠にも思えた相思相愛があった。

 なくなることはないと確信してた恋と愛があった。

 それゆえ誓った、変わらない自分のままで待っているという誓いがあった。


 もう、どこにもない。世界にも、心の中にも。


 ネサクは誰も居ない方の壁を殴った。

 人間に擬態した体の、怪物の膂力が壁を粉砕する。

 貯水槽が弾け飛んで、小規模に水が撒き散らされる。


 涙さえ枯れ果てたネサクの頬を、一筋の水が伝っていった。






 幽霊のように、あるいは幽鬼のように、思考が空っぽになったネサクは、過去のカエイの前に姿を現した。

 過去のネサクは避難所の受付で大人と何やら話しているようだ。


 ネサクはカエイに微笑んだ。

 いや、違う。

 微笑もうとした。

 その顔に浮かんだのは、引きつった不気味な笑みだった。


 もう会えないと思っていた愛する人に、ネサクは何から言えばいいのか分からなくなって、とても無難に話しかける。

 話せさえすれば、カエイがいつもの優しさと明るさで、会話をいつもの調子にしてくれると、ネサクは無根拠に信じていた。


「……その、私なんだけど……分かるかい?」


 ネサクはそう問いかけた。


 カエイは、純粋な疑問符を浮かべるように、首を傾げる。


「? どなたですか?」


「───」


「ごめんなさい。でもお兄さんみたいな怖い顔の人とどこかで出会っていたらたぶん忘れてないかな、って思います。ふふっ、ごめんなさい」


 ネサクは。


 何も、言えなかった。


「……そうか。ごめん、人違いだったようだ。すまないね、お嬢さん」


「いえいえ。あ、私はカエイと言います。困ったことがあれば言ってくださいね」


「うん。覚えておく。決して忘れないよ」


 ネサクはカエイから離れ、路地裏に入る。

 路地裏には、装備確認用の大鏡が無造作に置かれていた。

 ネサクはそれで、今の自分の姿を見てしまう。


 ひどい有様だった。

 カエイと9年会っていなかったから顔が分からなかった、なんてレベルではない。

 目の下の隈、痩けた頬、カエイが死んだショックで白髪が混じっている髪なんてまだいい方だ。

 最悪なのは、その瞳。


 死んだ目をしていた。

 悪人の目をしていた。

 人を不幸にする疫病神の目をしていた。


 自分がこの世で一番不幸だと思い上がっている目をしていた。

 願いのためなら他人をどれだけ踏みつけにしていいと思っている目をしていた。

 明日に希望がなく、ゆえに他人の希望を蹴飛ばせる目をしていた。

 他人の嘆きなどどうでもいいと、達観してしまっている目をしていた。


 ネサクが見る鏡の向こうの自分は、信じられないほどに終わっていた。


 ネサクは知っている。

 カエイはこういう人間が嫌いだ。

 こういう目をした人間を、カエイは本当に苦手としていた。


 カエイは他人を幸せにする人間だから、他人を能動的に不幸にする人間を、本能的に自分の生き方の敵であるとする傾向があった。

 つまり、今のネサクである。


 ネサクは自分でも気付かない内に、カエイが最も嫌うタイプの人になっていた。


 は、もう居ないのだ。


 変わらないままで居るという約束は、もうどこにもない。


 ここに居るネサクはもう、カエイが好きになるような男ではない。

 とっくに自分を失った、哀れな生きる屍。

 カエイに愛された自分を失っていることにさえ気付いていなかった疾走者。

 カエイが最も嫌がることを、カエイをお題目にして実行していた狂人。


 カエイが、鏡が、ネサクをほんの少しだけ、正気の側に戻してしまう。


「はっ、ははっ」


 心の揺らぎで、擬態が溶けていく。


 ネサクが壁にボール当てをするような、虚しい呟きを垂れ流していく。


「『私は』」


「『カエイが私に願っていたことを、過去の私が約束したことを、踏み躙った』」


「『じゃあ、なんだ』」


「『どうすればよかったんだ』」


「『なあ、私よ、どうすればよかったんだ』」


「『優しすぎるカエイが守ったこの世界を、私は、私は』」


「『ああ、だから……目醒めたくなんかなかったのに……』」


 ネサクは、自分の内側に巣食う赤き鳥に向き合った。


「『なあ、ルビーハヤブサ』」


「『なんだ、人間』」


「『私が歴史を変えたら……人類は皆、滅びるので間違いないんだな』」


「『そうだ』」


「『そうか。……わかった』」


 その時。


 魔人の体から、半分ほど力が抜けた。


 ルビーの魔人は、二人で一人の絶滅存在ヴィミラニエ


 片方が絶滅存在ヴィミラニエとして成立しない存在になってしまうと、その力は急速に半減へと向かっていく。


「『すまない、ルビーハヤブサ』」


「『……』」


「『君と戦いたい。でも私の心が、ついてこない。私は……カエイに……』」


 腕は片方。

 翼も片方。

 力も半分。

 されど。

 ルビーハヤブサの戦意に、陰りはない。

 腐った瞳で悲しみの涙を流すネサクに対する侮蔑も、憎悪もない。


 ルビーハヤブサは、大切なものの喪失で涙を流す半身を、切り捨てない。

 失う悲しみを、そこから生まれる醜悪を、ルビーハヤブサは否定しない。

 それが、奪われて絶滅した彼が心に決めている、揺るがない生き方だった。


「『構わん』」


「『……』」


「『お前を選んだ私の責任というだけのことだ』」


 そうして。


 各々が各々の小さな旅路を終えて。


 この辺りで一番大きな裏路地の真ん中で、彼らは向き合った。


「『大人しくしていろネサク。貴様の戦いは終わりだ。私が決着をつける』」


 薄暗い路地裏だった。

 魔力灯が、一つ、二つと照らしているが、光量は少ない。


 ゴミ捨て場の生臭さが仄かに香る。

 路地の路面の隅っこに、小さな花が生えている。

 小さな魔物のスライムが、踏み潰されたような染みが地面に広がっている。

 建物の壁は薄汚れ、グレーの彩りをその場に与えている。


 そんな、最後の開幕が行われる戦場で。

 なんてことのない路地裏で。

 魔人に変身していくネサクと、魔剣を構えるキタが向き合った。


 これが、最後だと。

 これで、終わりだと。

 両者共に、本能的に理解していた。


「『……気絶して、そこで終わったんじゃなかったのか……』」

「『真の勇者は侮れるものではないと教えただろう』」


「君達が情け容赦なくトドメを刺していくような気質をしてたなら、僕はとっくに死んでいたし、君達の勝ちで決まってた。そう思うよ」


 キタの言葉に、魔人の目が細まる。


 キタはゆるやかに、魔剣クタチを肩口に担いだ。


「すまない。僕は恩を仇で返してしまうかもしれない」


「『はっ。そんなことは勝ってから言うが良い。……今度は、殺す』」


 キタの操る魔剣を見て、ルビーの魔人は嘲笑を浮かべる。


「『魔王を倒した偽勇者は消滅したか。いいことだ』」


「カイニは戻ってくる。冒険の書がそう教えてくれている」


「『……』」


「カイニは僕の代わりに途方もなく頑張ってくれていた。だから今度は、僕がカイニの代わりに戦わないといけないんだ。僕の未来のために戦ってくれたカイニのため、僕はカイニの未来を守る。だから戦うため、この魔剣も借りてきた」


「『未来、か』」


 ふぅ、と魔人が深く息を吐くと。


 魔人の左手の中に、これまでの戦いでは一度も使われていなかった、ルビーの長い剣が現れていた。


 右腕はない。右翼もない。半身は動かず、力の半分も使えない。

 だというのに今、魔人もまた、次なる力の担い手へと進化しようとしていた。


「『そんなものを得られなかったネサクとルビーハヤブサが一つになった世界への悪意。それが私だ。……覚悟はいいか?』」


「できてるさ、最初から」


「『待ってくれ、ルビーハヤブサ、私も力をお前に……』」


 黒剣が。

 紅剣が。

 街の狭間で、ぐらり、とブレる。






 たとえ、君に「要らない」と言われたとしても。


 ダネカに「お前はもう要らない」と言われてもなお、キタの記憶の中で、貴く燃え上がる時間が在る。


 カエイにたとえ「そんな救いは要らない」と言われたとしても、捨てることなどできないネサクの妄執が、ルビーハヤブサの強い意志が、その体を突き動かす。


 まだ何も終わっていない。

 終わるとすれば、ここからだ。

 決着がついた、その後だ。


 その先に、未来が決まる瞬間がある。


 最後に立っていた種族だけが、この先の未来を生きる権利を勝ち取る。






 九年前の自分達を見た男達が、対峙する。


 九年前の大切な人達を見た男達が、走り出す。


 過去はずっとそこにある。


 思い出はずっとそこにある。


 人の記憶の積み重ねこそが時間だ。


 記憶があるから過去を肯定できる。

 記憶があるから過去を否定する。

 肯定と否定は善悪に直結せず、成功と失敗すら善悪に直結しない。

 過去を認められない記憶、それが後悔を生む、それだけの話。


 正義など無い。


 ただ、あるのは。


「『行くぞ、絶滅存在ヴィミラニエ』」


「『来い、刻の勇者ヒーロー』」


 譲れぬ願い。


 そして、退かぬ信念だけである。


 踏み込む。勇者が。

 踏み込む。怪物が。


 勇者の黒剣と怪物の紅剣が火花を散らし、最後の戦いが始まった。

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