第3話

 謎理論に基づき命名されたヘルシーカレーを食べ終わり、片付けも済ませると、食後の紅茶を飲みながら、お互いの近況報告という名の愚痴りあいが始まる。私はこの2年以上、隣国から拡がった新しい感染症に振り回されっぱなしだ。職場でも感染する人が相次ぎ、足りない人手でどうにか業務を回すのが日常と化している。ときどきこうして、職場では言いにくい話を家族に聞いてもらうことで、精神の平衡を保てている。

 

 姉はといえば、母の事情もあって、今年から環境が激変している。新たな生活サイクルや人間関係に苦労しているようだ。こういう話を聞くと、実家のことを何も出来ていないのが申し訳なくなる。

 修行中の身なので、休日出勤は当たり前、夜中に熟睡していても呼び出され、顔も洗わずに職場に向かう、そんな生活が終わったらきっと恩返しするつもりだ。そんな日が来るのかどうかわからないけど。何しろ50代の上司も一緒に呼び出されるのだから。

 ひとしきり愚痴を言いあったあと、私は自分の経験から得られた、つまりたいして根拠のないことをつぶやく。


「でもさ、食べられるうちは大丈夫だと思うんだよね」

「だから」


 この「だから」は接続詞ではない。地元の方言で肯定を表す言葉で、「そうだよね」くらいの意味だ。


「あさひから、『発熱した、ノドが痛い』て連絡あったとするじゃない?」

「うん」

「まず確認するのは、『食べてる?』だと思うんだ」

「まあ、自分でも、食べなくなったら生物として終わりだと思う」

 そこまでは言っていない。


「『人はごはんのみにて生きるにあらず』って言うしね」

 ちがうゾ? たぶん、意味も取りちがえている。元の意味は、物質的な満足だけではなく、精神的に充足されることも、生きていく上では必要だというニュアンスだったはずだ。分かって言っている気もするが。


「だから、好き嫌いしないでなんでも食べないと」


この「だから」は順接の接続詞。ただ、前提がまちがっている。

「帰るとき、さっきの残った唐揚げと、作りおきの煮物持っていってね」


 姉はいつも、忙しくて不規則になりがちな私の食生活を気にして、実家に寄ったときは必ず何かしら持たせてくれる。独り身なのに、その感性はすでに立派なおかんだ。いや、ありがたいのだけど。

 しかし、ここでのこの流れはトラップだ。


「入れたな?」

 ポーカーフェイスを装っているが、私が姉の微妙な表情の変化を見逃すわけがない。


「何を? 何に? 主語と述語ははっきりさせないと、重大なエラーにつながる恐れがあるよ」

 社会人の心得を説き始めたって騙されるものか。

「シイタケを、煮物に!」


「好き嫌いはよくないよ、ルナ先生。患者さんに指導してるんでしょ?」

 頭の中で、カーン! と試合開始の合図が鳴った。その皮肉な物言いは宣戦布告と受けとめた。


「シイタケなんて食わんでも生きていけるわ!キノコ類は量の割りにはカロリーが少なくて、有害な成分の入っているものも多いから、サバイバル環境では避けるべきなんや」

 こういうときは関西在住時に身につけたノリと勢いがよみがえる。

「でも、食物繊維やビタミンDは豊富だよ。食べないと骨が脆くなるかもしれないよ」

「植物由来のビタミンD2なんて摂らんでも、動物由来のビタミンD3は摂ってるし、適度に太陽光浴びて体内でも合成してるし」

「で、今はサバイバル環境なの?」


 ぐぬぅ……ボーッとしているようで、ちゃんと聞いて論理的に反論してくる。思えば子供のころからそうだった。ケンカっぱやいのは私で、空手の県大会上位常連だったこともあり、男子相手でも敗けた記憶はない。姉も空手は一緒に習っていたけど、そもそもルールもきちんと把握しないものだから、試合ではほとんど勝ったことがない。柔道でも同様で、そもそもスポーツのルールを覚える段階でやる気がないので、体力では劣っていないのに、試合となると黒星だけを積み重ねていた。

 一方で、姉の読書量はものすごくて、小学4年生のときには学校の図書館で読んだことのない物語はなく、5年生までには理科や算数の読み物も読破して、全てを読み終わっていないのは辞書とスポーツの入門書・解説書くらいと言われていたので、理屈では誰にも敗けない子供になっていた。そういえば、祖父に教わった将棋も、私はじっとしていることが苦手で、すぐに飽きてしまったけど、姉は半年もすると、有段者の祖父に勝てるようになっていた。とにかく頭の回転が速いのだ。

 

 このままでは分が悪い。論理には非論理で対抗だ。SNSで学んだ。

「栄養はともかく」

「話変えてきた?」

「っ!……ともかく、あのクニュクニュした食感と、学部のとき解剖実習で毎日嗅がされたホルマリンみたいな臭いが耐えられないの!椎茸殲滅!」

「あの大学の立て看板にその言葉があったけど、それ、意味ちがうから」

「……よく知ってたな」

「毎年高校駅伝であの前通るから、中継で映るよ」

「……まあ、要するにだ」

「要するに嫌いなだけだよね」


 SNSで学んだ戦術は役に立たなかった。 完敗だ。カロリー以外は実に論理的だ。


 なんとか反撃の糸口を探していると、呑気に姉が問いかけてくる。


「ところで、唐揚げは何キロ持って帰る?」


 単位はキロかよ!

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