第2話 ルーヴルに行ってはならない

 ああ、先生。小説の取材ですね?


 旦那様の事件のことについては、わたしの口から語れることは少ないと思いますけど……。

 私が磨いている、この銃ですか? 奥様のものです。アンナ奥様の。他でもない、旦那様が随分前に注文なさったものでして……。旦那様は、アンナ奥様にも、護身用の銃が必要であろうと。でもまさか、ご自身がご自分の護身用の銃で、その、お亡くなりになられるなんて、わたし、思いもしなかった……まさか、旦那様がそこまで思い詰めてしまうなんて。

 ──すみません。あの日のことはお話しできそうになくって……本当はこの銃も、触れたくないくらいなんです。思い出してしまうから。



 え?

 あ、はい。ルーヴルのこと、ですか。わたし、メイドとしては長くないので、聞きかじった話になりますけれど。メイドの間では有名な話です。

 大旦那様と大奥様が事故でお亡くなりになられる前のことです。──『ルーヴルには行ってはならない』って、ざっくりとしていて、意図がつかめなくて、よくわからない御告げですよね。ですからおふたりは、旦那様……ロジャー様をフランスから遠ざけたのです。ルーヴルの地を踏ませさえしなければ良いと、そう思ったらしいのです。

 もともと大旦那様は、品物の方からやってくるような商売の仕方をなさっておいででしたから、そのご子息のロジャー様がイギリスの外へ出ることはなかったのですが。……。


 こちらへどうぞ。


 先生。この書斎をご覧ください。これらはすべて図録です。美術館、史料館、博物館……4代かけて集めた人類の叡智ですわ。これはロジャー様が、奥様であるアンナ様に贈ったものの1つなのです。この部屋、すべて。世界の全てです。それほどまでに、アンナ様を寵愛されていたのに……、……。

 話が逸れました。すみません。


 ──ですから、ルーヴルになど行かなくとも、彼はルーヴルに行けたのです。ルーヴル美術館の、つまり、図録を見ることによって。

 そして、確か、13歳だと聞いています──ロジャー様は何かにお目覚めになられた。

 何かに撃ち抜かれたように目を見開いて、天啓を受けたかのように発言したと、メイド達の中でも噂になりました。


「ぼくだけの女神ヴィーナスを探す」と。


 私が聞いたくらいですから、当時は相当の衝撃だったのでしょうね。メイド達のそれぞれに縋り付いてその顔を覗き込んで、違う、違う、きみじゃない、などと言って回ったそうです。メイド全員の顔を覗き込んで、落胆なさったとか、そうでないとか──わたしなら、きみじゃない、だなんて言われたらたまったものじゃないですけれど。

 ロジャー様に何が起こったのかと、この書斎に足を運んだメイドが目にしたのは、開きっぱなしのルーヴル美術館の図録で……この、両腕の欠けたミロのヴィーナス像のページだったそうです。何度も見返したんでしょうね。すぐこのページが開くんです。ほら。


 ロジャー様は、そのミロのヴィーナスにいたく感銘を受けてしまったのではないか──と。でも、噂ですよ?単なる噂。真実は、お亡くなりになられた旦那様にしかわかりません。


 ミロのヴィーナス。腕がないことがかえって美しいだなんて、私にはとても、難しいと言いますか……高尚すぎて、理解すらできないのですが……それって多分、想像の余地があるということなのかな、と思います。想像の余地があることが美しいとは、私は思いませんけど。


 、美しいものに目のきくロジャー様のお眼鏡に叶うのですから、ミロのヴィーナスは美しいんだと思います。


──先生。冗談は無しですよ。私が美しいだなんて。アンナ奥様の方が美しいに決まっているじゃないですか。ロジャー様に運命的に見初められたアンナ奥様が、この家では一番お綺麗な方なんです。


 でも、今、アンナ奥様は……。


 ……先生。何があっても奥様に「あの日のこと」を聞くのはおよしになってください。

 絶対ですよ。

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