第3話-1

 姿見に移った要が神妙な顔で頷いた。下ろしたてのブレザーに常磐色のネクタイ。中学時代は学ランだったから、高校の制服姿にはまだ違和感がある。


「じいちゃん、ばあちゃん、行ってきます」


 いいと言ったのに、玄関を出て外まで見送りに来てくれた義祖父母にやや遠慮がちに片手を上げて、要は自転車のペダルを踏む足に力を込めた。祖母は満面の笑顔で、祖父はいつもの無表情で、要が見えなくなるまで見送ってくれていた。


 要はこの春から、長野県内の高校に通うことになっている。下宿先は、夏休みにもお世話になったアキラの実家。三年間も要を住まわせるのを、二人ともあっさり快諾してくれた。


 緩やかな坂を自転車でしばらく下ると、待ち合わせ場所の公園では既に二人が自転車に乗って、要を待っていた。


「遅えぞ要!」ブンブン手を振る、朝から元気な茶髪の少年と、人相の悪い大柄な少年。二人とも要と同じ制服姿。爽介と誠――どちらも、ひと夏をともにした大切な友人である。


 一週間ほど前からこっちに移り住んだ要だが、夏ぶりに三人で再会したときは大いに盛り上がったものだった。そのとき自然と、入学初日から一緒に登校しようという話になった。


「悪い、遅くなった。……あれ、夏生は?」


 爽介が「たぶん遅刻だな」とニヤつくと、誠は「あるか? 夏生に限って」と眉を寄せた。


「女の子はイロイロ準備が大変なんだぜ。特に入学初日だし、要とは半年ぶりに会うんだからな。たぶん支度に手間取ってると見た」


「……? 俺と遅刻になんの関係があるんだよ」


 夏生はつい昨日まで家族で沖縄に旅行しており、要も直接会うのは夏休み以来になる。


「あ、ライン入ってたわー。『ごめん遅れるー! 先行っててー!』だってさ」


 それを聞いて誠が露骨にテンションを下げる。


「チッ……初日から夏生と二人で登校するって俺のプランが」


「よければオレらのことも、たまには視界に入れてくれよな」


 爽介と誠が自転車を漕ぎ出したので、要は一度だけ夏生の家がある方向を振り返ってから、二人のあとに続いた。


 要たちがこれから三年間通う学校は、山を一つ越えた先にある。自転車で片道五十分。初日ということもあり余裕を持って出発した三人だったが、正門にたどり着くと、もうけっこうな数の生徒がいた。長野県立光葉こうよう高校。山の麓に古びた校舎を横たわらせる、いたって普通の田舎の高校。ここら一帯は、光葉町という小さな町だ。畑や田んぼ、だだっ広い公園に囲まれて、コンビニの一つもない。


 長野の高校で野球をしたい、と大真面目な顔で相談されて、養父のアキラは面食らっていた。それでも結局、好きなようにさせてくれたアキラには感謝している。自分の体は自分で管理すること。お金は無駄遣いしないこと。やるからにはマジでやること。以上のことを約束させてから、要に長野での生活を認めてくれた。毎月実家に要の生活費と小遣いまで振り込んでくれるという。要はあんなに酷いことを、たくさん言ったのに。


「よーし可愛い子探そっ!」「ナメられねぇようにメンチ切っとくか」とそれぞれ宣言した両脇の二人を無視して先を歩き、こじんまりした校舎の正面入口に到着。そこは取り分け多くの新入生でごった返していた。どうやら、クラス分けが張り出されているらしい。


 長身に物を言わせて後ろから掲示板を覗き見る。今年の新入生はたったの六十二人で、クラスは二つしかない。もちろん特別今年が少ないわけではなく、全校生徒二百人未満という、東京育ちの要としては想像を絶する小規模な学校だ。


 自分の名前は、掲示板の上の方を見ればすぐに見つかった。一組。出席番号は、二番。


 その上に、彼女の名前があった。


「あ、オレ二組だ! やったぜ誠と一緒!」


「終わった……夏生と離れた……死のう……」


 誠の肩に飛び乗って肩車されている爽介が嬉々として叫び、誠は可哀想なほど顔を真っ青にしている。待っている同級生たちの邪魔になるので、この世の終わりのような顔をしている誠を爽介と二人で引きずり、広い場所に出る。三人のスマートフォンが一斉に音を立てたのはそんな時だった。開いてみると、ラインアプリに新しい通知が来ている。


『ついた! みんなどこー?』


 四人のグループラインに、そんな吹き出しが出現していた。何故だか、要は『校舎前』という簡単な三文字をすぐに発信できず、結局爽介に先を越された。『今校門! すぐ行く!』と返事が来たので、その場で待つことになった。爽介が思い出したように口を開いた。


「要は夏から会ってないんだもんな。アイツ、すげー可愛くなってるぞ」


「夏生は生まれた瞬間から可愛いんだよあばら折るぞ」


「あたり強くない?」


 二人のやりとりを尻目に、要は心中で「どうでもいい」と呟いた。要は夏生と野球をしに来たのだ。気になるとしたら、ちゃんとスポーツ選手の体になっているかどうかだけで――


「――わっ!」


 楽しそうな高い声が背後からしたかと思うと、軽い衝撃が背中に乗っかってよろめいた。


 振り返って、何か言おうとして、要はそのまま口を開けて固まった。


「久しぶり、"要"!」


 要の目線の少し下、頭にあごを乗せられそうな至近距離で、向日葵みたいな笑顔が弾けた。


 柔らかな髪が肩にかかるくらいまでに伸びて、ブレザーの下に着た薄水色のブラウスは、僅かながらも、胸の部分が記憶にない膨らみ方をしていた。チェック柄のスカートの丈を年頃相応に短くして、そこからのぞく華奢な脚は、前より長くなったような、引き締まったような。背が五センチほども伸びていた。女の中ではもう大きい方に入るだろう。だが、きっともう誰も、ユニフォーム姿の夏生を男に見間違えることはない。


「……おう、久しぶり。夏生」


 要の高校を決め、夢を決め、運命まで決めた張本人は、悪びれる様子もなく笑っていた。

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