第二十話 資料編纂室にいた訳

 天気のいいその日の午後、わたしは庭園の東屋でお茶を楽しんでいた。もちろん、他ならないハーラルトと。

 どうしても会わなければならないお客さまがいらっしゃる時以外は、わたしたちはこうしてお茶をともにすることにしている。


「ねえ、ハーラルトはどうして資料編纂室にいたの?」


「昔、俺が聖職者志望だったことは知ってる?」


 反問され、わたしは目をぱちくりさせる。

 そういえば、ハーラルトが大学に入る前にそんな話を誰かから聞いたような気がする。その時は「ハーラルトはお勉強ができるから、ちょうどいいんじゃないかしら」程度にしか思わなかったけれど。

 昔から、聖職者は学識のある人がなるものなのよね。


「聞いたことがあるわ。でも、どうして聖職者に?」


「俺の祖父が地方で神官をしていたからね。もう高齢だし、引退したんだから王都に移り住んだら、と父が勧めても、自分がいなくなったら村人が困る、って言うような人なんだ」


「すてきな方ね」


 わたしがそう言うと、ハーラルトは端正な顔を嬉しそうに輝かせる。


「そうなんだ! 息子が出世して叙爵までされても、自分は全然偉ぶらない人で、すごく尊敬してる」


「それで聖職者を目指したの?」


「うん、人の役に立つのもいいかなあ、と思って。父の本来の仕事は医師だから、そっちもよさそうだな、とは思ったんだけど」


 神官とか医師とか、人から尊敬を集めるような職業を権威が欲しいからではなく、人の役に立ちたいから選ぼうとしたハーラルト。わたしはそんな彼が恋人であることを誇りに思った。


「それなのに、どうして聖職者にならなかったの?」


「それが……大学で神学を学んでいたんだけど、周りがとにかく出世したくて上を目指してるって連中ばかりでさ。それに……あ、これ、言っていいのかな」


 そういう言い回しをされると、どうしても興味を惹かれてしまう。


「ここだけの話ね? 教えてちょうだい」


「うーん、リズになら言ってもいいかな。実はね、父は無神論者なんだ」


 え? 無神論者って、あの「神々は存在しない」って主張する無神論者?

 幼い時から国教の拝光教に親しんで育つマレ国民からは、完全に浮いている人たちだ。


 両親はそれほど熱心な信徒ではない。それでも国王といえば、国内における拝光教最大の擁護者であり、わたしはその娘だ。

 わたしの動揺を感じ取ったのか、ハーラルトが苦笑した。


「やっぱり、びっくりするよね。父は敬虔けいけんな神官の息子なのに、子どもの頃から神々の存在を疑っていたらしいよ。頭のいい人だから、本当に信頼している人にしかそんな話はしなかったそうだけど」


 お父さまはこのことをご存知なのかしら。そう考えた時、なぜかわたしは、きっと知っていると直感的に思った。

 ハーラルトはお茶菓子のクッキーをつまみながら、「話がそれたね」と言った。


「俺は大学で、欲にまみれた奴らを見て思ったんだ。神を信じていると言いながら、戒律も守らず、自分の出世のことしか考えていない奴らと、神を信じていないと言いながら、秘書長官として国王陛下を支え、民に仕える父とどちらが尊敬に値するか? ってね。気がついたら、官吏になろうと決めてた」


 ハーラルトはわたしが思っていたよりもずっと思慮深い。ついこの間まで、自分の恋愛と結婚のことしか考えていなかった自分が、無性に恥ずかしくなった。

 わたしは少し黙り込んだあとで、はたと気づく。


「でも、資料編纂室のお仕事って、民の暮らしとは直結しないわよね?」


 ハーラルトは赤みがかった茶色の頭に手をやる。


「それがね……父が学生の時にわざと次席になるよう勉強で手を抜いていたのを知って──あ、父は田舎に帰って開業医になるのが夢だったから、首席になると面倒なことになる、と思ってそうしていたらしいんだけど──『賢者は智をひけらかさない』ってこういうことを言うんだろうな、かっこいいなと思って俺も実践してみたら、いつの間にか資料編纂室に配属されることに決まってた。まあ、歴史は好きだから、あの仕事も悪くなかったけどね」


 そういうことだったのね。それにしても、ハーラルトってお父君のことが好きすぎない?

 納得すると同時に笑いが込み上げてきて、思わず吹き出す。それだけでは笑いはおさまらなかった。わたしはお腹を押さえ、ヒーヒー言いながら笑い続けた。


 ハーラルトが珍しく呆れた顔で、「そんなにおかしかった?」と訊いてくる。

 ようやく笑いの波が引いてきたわたしは、目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。


「……ええ、すごくおかしかった」


 そう答えたあとで、孤児院慰問の際に言い忘れていたことをようやく思い出す。この雰囲気で言葉にするのはどうかな、と思ったのだけれど、言いそびれるよりはいいと思い直す。


「ハーラルトといると、とっても楽しいわ。それに、いつもわたしの長所を見てくれて……わたしを大好きだと言ってくれて、ありがとう」


 ハーラルトはポカンとしたあとで、白皙はくせきの顔を真っ赤に染めた。


「……そ、そう。俺こそありがとう」


 そう言ったきり黙り込んでしまったハーラルトが、急に立ち上がる。


「あ! そうだ! 片付けなきゃならない仕事があったんだ! 悪いけど、お先に失礼するよ! じゃあ!」


 なんだかものすごく芝居がかった台詞回しね。

 わたしが疑問に思っているうちに、ハーラルトはそそくさと東屋を出ていった。


 ハーラルト、突然どうしてしまったのかしら。

 自分の伝え方が悪かったのだろうか、と少し気落ちしてしまう。


 一人寂しく香草茶ハーブティーを飲みながら、リシエラを呼ぼうかと考えていると、聞き覚えのある声がかけられた。


「あら、お姉さま」


 顔を上げる。少し離れた、庭園の道に妹のカトラインが立っていた。

 予期せぬ来訪者に、わたしは心持ち構えてしまう。


「……どうしたの? こんなところで」


「わたしだって庭園を散歩くらいします」


 唇を尖らせ、近づいてきたあとで、カトラインはハーラルトが去っていった方向を見る。


「ところで、さっき、ハーラルトお兄さまが慌てて駆けていらっしゃるのが見えたけれど、何かありましたの?」


 こちらが勝手にコンプレックスを抱いているカトラインに相談するのは、正直気が引けたけれど、自分では考えても分からないことなので、ありのままを話すことにする。


「よく分からないの。話していたら、用事があるから、と急に席を立ってしまって」


「話って、何を?」


「それはその……恋人同士の話よ」


 わたしの答えを聞いたカトラインは首を捻ったあとで、「もしかして」と言った。


「ハーラルトお兄さまは、恥ずかしくて居たたまれなくなってしまわれたのかも。ほら、ハーラルトお兄さまは昔からお姉さまのことが大好きでしょう。『好き』が暴走しそうになって、撤退したのでは?」


 もしかしなくても、わたしが「大好きだと言ってくれて、ありがとう」と告げたから?

 確かに一般的に女性よりも男性のほうが、色々と我慢するのが得意じゃないとは聞くけれど!

 今度はわたしのほうが恥ずかしくなってしまう。


「そ……そうなの、かしら」


「心当たりがおありのようね。ハーラルトお兄さまは、お姉さまのことを大切になさっているのよ。でなければ、自分の欲望に忠実に振る舞うはずだわ」


 ちょっと待って。あなたはまだ十三歳のはずよね?

 カトラインはテーブルに歩み寄ってくると、先ほどまでハーラルトの席だった椅子にちょこんと座る。


「あーあ、お姉さまが羨ましい。ようやくすてきな彼氏ができて」


「ようやくは余計よ」


「本当に羨ましいと思っているのよ。ハーラルトお兄さまは優しくて、お顔もお美しいし」


 自分の恋人が褒められているというのに、なんだか胸がざわざわする。相手がカトラインだからかしら。

 わたしはあえて澄まし込んでみせた。


「あなただったらあと何年かすれば、いくらでもすてきな男性と巡りあえるわよ」


「そうかしら? わたし、あまり楽観的に考えないようにしているの」


「どうして?」


「わたし、お母さまに似ている似ている、と言われるけれど、お母さまはお父さまと順風満帆にご結婚なさったわけではないし、ご結婚後も、お父さまがもてたことで気苦労もおありだったようだから」


 そう述懐する妹の表情は、妙に大人びていた。

 両親の結婚がスムーズにいかなかったというのは本当だ。詩曲『シュツェルツ王太子と美姫ロスヴィータの恋』にも描かれている。


 お母さまはお父さまとお付き合いして結婚を望んでいたのに、なんと当時の国王だったわたしたちの祖父に横恋慕されてしまったのだ。

 結局、お父さまがお母さまのもとを訪れ、既成事実を作ったことで、祖父も二人の結婚を認めざるを得なくなったらしい。


 ……うーん、今にして思えば、ハーラルトが言っていたように、あの曲は子どもに聞かせるものじゃないような気がする。

 両親はどういうつもりで、子どもだったわたしたちにあの曲を聴かせたのかしら。


 それにしても、わたしたち姉妹の中で一番美少女のカトラインがそんなことを考えていたなんて、考えもしなかった。妹には妹なりの苦労や悩みがあるのだ。

 カトラインはにこりと笑った。


「ま、わたしはまだ若すぎるくらいだもの、気長に婚活をしていきます。お姉さま、ハーラルトお兄さまを離しちゃダメよ。あんなにお姉さまにぞっこんで、絶対浮気しなそうな人、滅多にいないと思うわ」


 元彼に浮気された身としては耳が痛い話だ。でも、だからこそ、ハーラルトを大切にすべきなのだろう。


「ご忠告ありがとう。それよりカトライン、せっかくだからお茶でも飲んでいかない?」


「わあ、本当? いただくわ。お姉さまとお茶をご一緒するなんて久しぶり」


 素直に喜んでいるらしい妹を前に、少し口元が緩む。わたしはテーブルに置いてあるベルを鳴らし、離れた場所に控えているリシエラたち女官を呼んだ。

 その日、本当に久しぶりに、わたしはカトラインと話し込んだのだった。

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