五章

第21話 それは誰の話なのかと聞かれて

 女神の吐息がかかった娘が、ツイと顔を上げました。

 頼りなさげに伏せられていた彼女の睫が翼のごとく広がり、黒くつぶらな瞳に輝きが一つ立つのを見た時、今後手に入れる財産の全てが無価値になったと、心地よく諦念致しました。


 華奢な身体を若木の様に伸ばし、細い顎を僅かに上げる姿を見守っていると、新しい伝説を見たがる神々はこんな気分だったのだろうと、笑い出したくもありました。


 てんで素人の彼女の語りを、ここまで期待してしまうのですから恋とは恐ろしいものです。しかし、彼女の語りが無事に終わった時、恋の作用ではなかったと打ちのめされる予感もありました。

 なにしろ、今語ろうとしている美しい娘は、語り比べでサンパギータ様が語った物語を全て紡いだ娘なのだから。

 私は彼女が語りの声を上げる前から彼女の語りの虜となって、蕩け崩れないように氷の芯より静かに息を潜めて見守りました。


 いよいよ彼女が声を発そうとした時、チャリンと銀の匙が幾つか落とされました。

 か細い彼女の喉が、ピクリと揺れました。

 私には如何様にも助け船を出す自信がありましたが、何もしませんでした。

 彼女が今まさに作り上げようとしている世界観を壊してしまう損失を考えると、耐えた方が良いと判断したのです。

 そして、その勘は正しかった。


「―――金貨の零れ落ちる音など、聞き飽きていたわ」


 驚いたことに、彼女は別人の様に乱暴な声で言い放ちました。

 意外な声量と言葉に思わず顔を上げた人々へ、彼女は捲し立てました。


「私の住まう宮殿は、広く平らな大地に縦にも横にも長く伸び、配色は白と青と桃色。どのバルコニーからも領土が見渡せた。何千何万という建物が密集し、昼は埃を舞上げ、夜は灯火となって瞬いていた。その中央を大きな川が大蛇のようにうねり、船が行き交いひしめいていた。季節ごとに選ぶ離宮は東西南北に九つ。夏に氷を食べたがる私の為に、領土で最も北の土地に、もう一つを新しく建設中だった。

 あらゆる色の宝石をおはじきにして戯れたのは、この広間より広い自室。シルクで織られたペルシア絨毯の上には七人の立派な侍女達がくつろぎ微笑んで……マーヒ、ニシャ、アユーシ、サクシ、ビラマ、ダクシャ、ディピカ……琥珀を連ねたサン・キャッチャーの光が煩いほど散る中、この私へ微笑んでいた。皆王侯・軍人階級クシャトリアの美しい娘達だった。それから、そう……スパンコールが煌めくトルコ刺繍のレエスカーテンにじゃれるのは、獅子狗シーズー犬と白い虎。白い虎の毛並みをご存じ?」


 捲し立てられる内容に、ある者は猜疑と侮蔑のこもった苦笑いをし、ある者は眉をひそめ、ある者はただ目を丸くするといった具合に彼女へ注目が集まりました。

「奴隷以下の娘が、何故そんな景色を語れるのだ?」全ての者の目が、そう呻いていました。


 白と青と桃色の配色の宮殿?

 領土を見渡すバルコニーから見える景色?

 何千何万の建物を見下ろす?

 九つの離宮?

 氷を食べる?

 宝石のおはじきに、噂に名高い絨毯とカーテン。七人の貴人を傅かせ、白い虎を、撫でる?


 ここより豪奢な世界。ここより珍しい景色。それを目の前の娘が語っている。

 本来なら言葉すらまともに話す事がままならない、奴隷以下の娘が。


 皆こう思ったのです――あり得ない、きっとほころびがある筈。もっと聞かねば。


 悪意の中に飛び込んだも同然でしたが、その場の者全ての関心を一網打尽にしたのですから語り出しは成功です。

 語り部は聞いてもらう事が一番大事ですから。


 しかし、それ以外の興味を持ったお方もおられました。

 それはラアヒットヒャ様でした。

 彼は再び語り出そうとした彼女を片手で制し、お尋ねになられました。


「それは誰の話なのか」


 なんと無粋な質問だろうと、私は口に含んだ酒を吹きそうになったものです。

 御前は今まで、物語と現実の区別がついていなかったのだろうか?

 否、そんな事は無かった。

 不可解な気持ちでその場を見守っていると、彼女が細く震える声で言いました。勝ち気そうに語っていた表情が、いつもの庇護欲をそそる表情に変わっています。


「……優美な湖上のラージャ様、彼女の事は……不要ナクサの姫とでもお呼びください」


 卑屈な仮名が名乗られました。

 その劇的な変化は、「語り出した誰か」が彼女の演技なのだと皆を我に返らせます。

 一瞬でも圧倒されてしまった事に耐えられない者が数人、酒を煽り自分で自分をごまかしておりました。

 ラアヒットヒャ様は顎髭を指先で乱し、彼女へ目をすぼめて呟きました。


「ナクサの姫……」

「……はい。わたしの作り話でございます。お気に召さなければ、わたしの首を跳ねてそれを語りの数にしてくださいませ」

「良いだろう。しかし、嘘は言うでないぞ」

「物語と嘘は違いますゆえ、わたしは嘘を言いません」

「語り部らしい言い草であるな、……語れ」


 彼女は主に一礼し、顔を上げました。

 ランタンの灯火を受けるその顔は、既にゾッとするほど別人です。

 元の彼女が恋しくて、泣きたくなる程でした。

 私の知らない娘となって、彼女は再び語り出しました。

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