第4話

 十一時も過ぎた頃、修吾は客を帰し始めた。

 貴史が後で聞いたところによると、六時に開店すること以外は特に店にルールはなく、閉店も客が少なければ十時頃、多ければ十二時過ぎてまでも営業するとのことだった。

 それでも客の動きから、今日は賑わっている方だと貴史でさえ分かっていた。

 それをさりげなく誘導して、修吾はぴたりと十一時半に客を帰し追えた。貴史を除いて。

 二人きりの空間に居心地の悪さを感じつつも、無銭飲食な上ずっと泣きっぱなしだった。貴史は落ち着いてからも修吾に申し訳なく、「帰る」の一言が言えないでいた。

 それを見越したかのように、修吾がエプロンを外しつつカウンターから出てきた。貴史に近づき隣の席のスツールを引くと少し距離を開けてそこへ腰かける。


「カブと白子のソテーは僕も気に入ってるんですが、お味はいかがだったでしょうか?」


 物腰の柔らかい、低く静かな心地の良い声だった。食事と同様、荒れた気持ちを穏やかにしてくれるような。強ばっていた貴史の体から力が抜けていく。自然と口元に笑みが浮かんだ。


「とても、美味しかったです。料理に詳しくないので、どう、形容して良いか分からないんですが……とても優しい味でした。料理で感動したのは初めてです」


 貴史は噛み締めるように答えた。その言葉に嘘はない。久しぶりの美味しい食事。ただ単に久しぶりだからではなく、この店の雰囲気や暖かさ。客の談笑に修吾の作る料理そのもの、全てに感動したのだ。

 自然と「実咲貴にも食べさせたいな……」と小さく口にしていた。

 すると、修吾がその巨躯を少し曲げるようにしてカウンターへと肘をつき、貴史の目をまっすぐ見つめ真摯な声で返した。


「ありがとうございます。えっと……実咲貴さん? ……あのお嬢さんのお名前ですか?あ、それとも奥さまの……?」

「いえ……娘の名前です」


 その言葉に修吾は目元を細めて笑み、それから「ワインはいかがですか」と貴史の答えを聞く前に立ち上がった。 


「もう店は閉まっているので、僕の晩酌相手になっていただけますか。……僕は良い話し相手になると思いますよ」

「……はは、私の話しなんて……」

「商売がら愚痴も惚気も別れ話も聞いてきました。吐き出して楽になるなら、是非話してみてください」


 ワイングラスを二つ手にした修吾は再びカウンターの貴史の隣に座り、飲みましょうと言うようにそれを差し出した。

 貴史は黙ってグラスを受け取ると、まだどこか言い淀みつつも、ポツリと言葉を口にした。

 

「娘が、心配なんです」

「実咲貴ちゃんが? ちょっと拝見しただけですけど、可愛らしくてとても元気そうに見えましたが……」

「そう、元気には見えるんです。けれど、妻が……咲良が亡くなってからというものの、僕の料理をほとんど食べてくれなくて」

「奥さまを亡くされて……しかし、実咲貴ちゃんはいったいいつから、普通の食事を取らなくなったんですか?」

「二年前、妻が亡くなってすぐにです。家ではチキンナゲットやポテトばかりで……けれど学校の給食は普通に食べているので、私が悪いのだと思います。目線もなかなか合わせて貰えなくて」 


 貴史はグラスのワインを一口飲み、あまり酒は強くないのだろう、目元を赤らめながら自嘲する笑みを浮かべた。


「しかも、今年からは学童保育にもからも外されてしまって……、あ、学童は学校が終わった後に預かってくれるところなんですけど、家で一人で留守番をさせなくちゃ行けなくなって、もうどうしたら良いか……」

「そう、なんですか。それはご心配ですね」


 二人の間にしばらくの沈黙があったが、二人ともが実咲貴を思い浮かべているのには違いなかった。

 そして、うん、と軽く頷く仕草で最初に声を発したのは修吾だった。なにかを決心したかのようにふいに立ち上がるとカウンターの中、キッチンスペースへと入っていく。


「ねぇ、貴史さん」


 冷蔵庫を覗き込み、何やら取り出しながら修吾が横顔で笑った。


「その悩みを一気に解決するのは困難かもしれません。けど、少しずつなら解決できるかもしれませんよ?」

「え……?」

「まずは、実咲貴ちゃんの明日の朝ご飯を考えてみませんか?」


 卵と食パンを手ににっこりと笑う修吾に、貴史は何事かと戸惑いの眼差しを向けた。




 翌朝、貴史はいつもよりほんの少しだけ早く起きた。

 実咲貴を起こさないよう手早く身支度をすると、冷蔵庫を開ける。そこには大きめのタッパーが入っていた。

 そっとタッパーを持ち出すと、貴史は蓋を開いた。黄色い卵液に浸った食パンが顔を覗かせた。


「よし、やるか」


 卵液に一晩浸して柔らかくなった食パンを、修吾の指示どおりにたっぷりのバターで焼く。片面にほどよい焦げ目がついたらひっくり返してまた焼く。ジューという音と、バターの焦げた良い香り。さらにバニラの甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


「焼くときに、押し付けちゃダメですよ。ふんわりした焼き上がりをイメージしてください」


 修吾の声を思い出す。昨夜、目の前であっという間にフレンチトーストの下ごしらえを終えた修吾は出来上がったそれをタッパーに卵液ごと詰めながら焼き方のコツを教えてくれた。それから、小さなコーンサラダを作ると小皿に盛ってラップをかけ、それも貴史に持たせた。

 しきりに恐縮する貴史に、修吾は「頑張ってくださいね」と軽く背中を叩いた。

 きつね色に焼き上がったフレンチトーストをふんわりと皿に盛る。メープルシロップを脇に添えて、サラダとナイフ、フォークまで準備する。牛乳をレンジにかけてから、貴史は慎重な面持ちで実貴の部屋のドアを叩いた。

「実咲貴ー、朝だぞー」

 ノックして数秒、声をかけてたっぷり十秒はかかってから実咲貴がうーん、と寝返りを打った。貴史は仕方なく部屋へと入り、カーテンをさっと引き開ける。快晴だ。

「実咲貴、晴れだぞ。早く起きて、朝ご飯を食べよう」

 朝ご飯の声にベッドの中でもぞもぞとしていた実咲貴がピクリと反応した。布団を被りゆるゆると首を振る。

「……朝ご飯、いらないもん」

「そう言わずに、いいからおいで」

「えー……いらないのにぃ……」


 そんな実咲貴を微笑みながら貴史は「今日の朝ご飯は誰が作ったと思う?」と少し意味ありげな問いかけをした。

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