いっしょに食べよう

河野章

第1話

「それじゃぁ、またね。バイバイ、実咲貴(みさき)ちゃん」


 その言葉が、三坂貴史(みさかたかし)には最後通牒に聞こえた。

 貴史は二十六歳で、八歳の娘、実咲貴の父親としては周囲より随分若かった。

 大きな瞳にやや神経質そうな細い眉、身長だけは人並みにある。身体を鍛えてもいた。体躯に似合わぬ童顔を隠そうと眼鏡をかけたり髭を生やしたりしたこともあるが、似合わないのですぐにやめた。常に、周囲の目を気にしていた。

 若く見える、実際若い父親だから……舐められたんじゃないかという思いが一瞬掠める。


「お世話に、なりました」


 実咲貴の私物をナップザックに入れて貰い、職員から受け取りながらどうしても視線は地を這った。

 今日が実咲貴の最後の学童保育の日だった。

 学童保育は一般的には六年生まで使える筈だった。だが例年、二百人の定員を必ず越える。世間は厳しくまた平等であろうとする。内部のくじ引きで二百人を決めるという噂もある。六年間最後まで通える子もいる。全く利用できないままの子も当然いる。二年連続で在籍できた実咲貴はラッキーだったのかもしれない。


「お世話になりました!」


 実咲貴が貴史を真似てペコリと頭を下げる。肩まである栗色がかった髪がさらりと揺れた。

 

 実咲貴の母、つまり貴史の妻は2年前に他界した。交通事故だった。

 なので、今はいわゆる父子家庭だ。勿論、貴史は仕事をしている。実咲貴を見てくれる親類縁者も近くにはいない。優先的に学童に通えるものだと信じこんでいた。

 しかし三年目に差し掛かろうとしたこの春先に、突然「来年度からは通えません」と無情にも職員から言われたのだ。書面で通知もきた。

 確かに実咲貴は手のかかる子じゃない。貴史自身も高校卒業以来勤めている会社で、残業を免除されるなど恵まれた環境にある。仕事も営業から内勤の事務へと転属させてもらえた。

 それでもだ。

 親ひとり子ひとりで……ぐっと拳を握りしめる。




「パパ、明日から学童ないの?」


 学童をあとにして、家路につくと手を繋いだ実咲貴が不思議そうに聞いてきた。 

 学校からはそんなに遠くはない。小さな商店街を抜けて公園を通りすぎればマンションはすぐだ。子供の足でも十五分かからない。


「うん、そう。定員がいっぱいなんだって。明日からは、お家でお留守番な」

「ふうん」


 実咲貴は分かったような分からないような返事をして、貴史から視線を逸らした。

 最近は……いや、実咲の母である咲良(さくら)が死んでからずっとこうだ。実咲貴は貴史を見ない。視界に入れないようにしているかのようだ。

 最初のうちは仕方ないと思っていた。母を失ったのだ、態度が変わっても仕方ないと。しかし、一年経っても、二年経っても……三年目に入っても、実咲貴の態度は変わらなかった。いつも心ここにあらずといった風で視線はすぅっと貴史の上を通りすぎる。

 活発ではあるのだ。よく喋り、よく遊ぶ。学校でも問題行動など起こしたことはないらしい。だが、視線が合わない。

 そして──。


「夕飯、何にしようか実咲貴。パパ今日は」

「ナゲットとポテトがいい」


 そこだけははっきりと実咲貴は言った。繋いだ手をぷらぷらと揺らしながら目線はもう商店街の惣菜屋に向いている。

 宥める声で貴史は言った。

 

「実咲貴、実咲貴。ナゲットとポテトは昨日も一昨日も、食べただろ? 今日はパパが作るから別のものに──」

「チキンナゲットとポテトが良いの!」


 眉をしかめちらりと貴史を見上げると、実咲貴はするりと手をすり抜けて総菜屋へと走っていった。

 貴史は思わずため息をついた。上手くいかないことばかりだ。

 薄暗くなりかけの春の空は、雲が多くまだ肌寒かった。




 結局いつものようにチキンナゲットとポテトフライを買って総菜屋をあとにした。

 実咲貴は咲良が死んでからずっと、家ではほとんどこれしか食べない。たまにトーストや買ってきたハンバーガーを一齧りはするだろうか。

 心配になり、家庭訪問や二者面談で先生に聞くと、給食はすっかりきれいに食べているという。男子に混じって牛乳二本目争いに参加することもあるほどだと。

 学校ではきちんと食事を摂っているのだということが安堵にもなり不安でもあった。

 外食すれば、食は細いながらも出されたものは口にする。

 つまり、貴史が作ったものだけ食べない。

 どれだけ材料や見映えに気を付けても、実咲貴は「いらない」「食べたくない」「変な匂いがする」などと言い、絶対に貴史の作った料理を口にしなかった。

 公園を抜ける。

 実咲貴は上機嫌で買ったばかりのナゲットが入った袋をブンブンと振り回していた。貴史は連日続くナゲット攻めに少しばかり胃が痛かった。

 

「実咲貴、食べ物をそんなに振り回すのは止めなさい」

「はーい。あっ!」


 ナゲットの入った袋は実咲貴の緩んだ手からすぽんと抜けて、勢いよく弧を描くと随分と先の砂場へと落ちた。


「ああ! ほら!」


 少し苛々した声を出してしまったかもしれない。いつもこうだ。優しく接しなければならないと思っているのに、マイナスの感情が溢れてしまう。

 「ごめんなさい」と小さく呟く実貴の手を引いて貴史が砂場に向かおうとすると、先にそのビニール袋を拾い上げた手があった。

 夕暮れの微かな日差しを横から受けて、その人物の笑顔は温かに見えた。


「よく飛んだね。大記録だ」


 大柄な男だった。

 標準的な身長を越える貴史が見上げるほどに背が高い。縦にも大きいが横にもがっしりとした肉体を感じられる体つき。黒く、少し長めの髪を首の後ろで結んでいる。口も目も大きく、鼻梁は高い。一瞬、体格も相まって海外の血が混じっているかと思うほど彫りが深い顔立ちだった。年齢は三十をいくつか過ぎたあたりだろうか。

 けれど男は腰を折るようにして実咲貴に話しかけると、ついで貴史に目線をやってペコリと頭を下げた。


「しっかり紙袋に包んであったので、中身は汚れてはないようですよ」


 ビニール袋についた砂を払いながら、男が実咲貴に袋を手渡そうとした。知らない男から実咲貴に直接ものを渡されるのを警戒して、貴史は先にさっと前へと出た。


「あ、ありがとうございます」

 

 声も自然と固くなった。けれどそんな貴史の動きにも気を悪くした風でもなく、男は貴史の方へ袋を差し出しながらにこりと笑う。


「いえいえ。……拾っただけですから」


 では、と男は貴史に袋を返して公園を先に立って去っていく。

 同じ方向? と思いながらも貴史は実咲貴の手を握り直す。


「迷惑かけちゃっただろ、ほら」

「うん。でもおじさんが拾ってくれたよ?」

「……知らない人だから、優しくされても着いていったりしたら駄目だよ」

「はーい……」


 小さい声で付け足すと、少し不服そうではあったが、実咲貴は少し口を尖らせただけで素直に頷いた。

 目の前の男の後ろを数歩空けて二人で着いて歩く。公園を出て右に曲がり、すぐの横断歩道を渡って……貴史達のマンションだ。目の前の男は躊躇なくエレベーターに乗り込んだ。後ろにいた貴史達には気づいていたようで、男が、エレベーターを開けたまま待っていてくれる。

 仕方なく貴史は実咲貴をつれて、小走りでエレベーターに乗った。


「はは、ご近所さんだったんですね。僕、こういう者です」


 男が、尻ポケットから貴史に名刺を差し出した。同じく実咲貴へも小さな紙片を手渡す。


「ビストロ・ソワールの……いち……?」

「一修吾(にのまえしゅうご)、です。ちょっと変わった名前でしょ?」


 男がはにかんだ笑顔を浮かべる。そうこうするうちに貴史達の部屋がある三階に着いた。


「よかったら、今度ご飯食べに来てください。店は駅前寄りの商店街の端っこですから」


 貴史達がエレベーターを降りると、笑顔のまま手を振って男は、修吾は上の階へと上っていった。止まる階を眺めているとすぐ上の四階に住んでいるようだった。

 ふと、実咲貴が嬉しそうに「ねぇねぇ」と貴史の手を引いた。


「ねぇ、これ読めるよ実咲貴! 一(いち)! さっきのおじさんは、じゃぁ……いっちゃん!?」

「……知らない人に勝手にあだ名をつけちゃ駄目だよ」

「知らない人じゃないもーん。いっちゃんだもーん」


 実咲貴はすっかり修吾のことが気に入ったようだった。わかったわかったと生返事をしながら、「ああ、こちらの名刺を渡すのを忘れたな」とふと貴史は思った。

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