第8話:私らの頃はセンター試験だったな、って。
朝、ニュースサイトを眺めていると、まだ見慣れない文字が並んでいた。
「共通テスト、ね」
意味もなく呟くと朱莉の耳には届いたらしく、訊き返してきた。
「どしたの?」
「んーん、なんでも。ただ私らの頃はセンター試験だったな、って」
「そうだね。その昔は共通一次試験だったっけ?」
「確かそんな感じ……。予備校にあった古い参考書にそう書いてあったような気がする」
さすがによく知らないけど。
今の受験生もセンター試験って名前にはもう馴染みがないんだろうな。
そんな感慨に浸っていると……
「ねえ、小枝はセンター試験どうだったの?」
「ん?」
「ほら、『あの科目が難しかった』とか『勘が冴えまくって高得点とれた』とかいろいろあるじゃん」
私は「ああ」と返事しつつ「あんまり上手くいかなかったな」と返した。
「そうなんだ?」
「うん、言い訳になっちゃうけど、体調悪かったんだよね」
「へぇ」
朱莉は意外そうに目を丸くした。
「小枝ならその辺、ばっちり決めてきそうなのに」
「まあ、前日にちょっとしたアクシデントがあってさ」
「どんな?」
どう話を取り繕っても言い訳くさくなるし、そういうことを語るのはあまり好きでない。
だから今まで話してこなかったけれど、まあ、とっくに大学まで卒業してしまった身だ。
ならばもう時効かと思い、私は前日にあった出来事を話し始めた。
◇◆◇
センター試験前日、会場に土地勘のなかった私は、念のため下見に足を運ぶことにした。
家から会場までは電車とバスを乗り継いで約二時間。
そこそこ距離があるからホテルを取ることも考えたけれど、普段の通学でも一時間程度はかかっていたし、少し早起きすればいいだけだということで悩んだ末に家から向かうことにした。
バスには乗り慣れていないとはいえ全く乗らないわけではないし、バス停自体もときどき利用している駅にあるターミナルの中にあった。
予定通りに会場最寄りのバス停で降りたあとはニ〇分ほど歩き、下調べしておいた道順通りに歩くと、きちんと大学の正門までたどり着いた。
そのまま門を通過して『受験生はここまで』と書かれた張り紙の前まで来ればおおよその建物の場所まで把握できたし、これなら明日も大丈夫と思い、そこで引き返した。
ここまではそれほど問題はなかった。
強いて問題をあげるとすれば、雪で足元が少々悪かったことと、喉にほんの少しの違和感を覚えていたくらいだろうか。
とはいえ喉のほうは痛いというほどでもなかったし、その日は無理せず早く寝れば十分に治る範囲だ。
だから念のためのど飴を舐めていた程度で、それ以上はほとんど意識していなかった。
実際、この認識は正しかったと思う。
予定から外れたのはここからだった。
下見を終えた帰り道、私は会場からバス停へと向かう途中でたまたま見かけた神社に、ふらりと立ち寄った。
せっかくだし祈願でもしていこうかな、と何気なく入っていくと、そこには地面に座り込んだ見知らぬおばあさんがいたのだ。
雪が積もっているのにわざわざ自分から座るなんてありえない。
私は慌てて声をかけた。
「どうしたんですか!?」
「ああ、ちょっと足を滑らせて転んじゃってね……。まったく、年はとりたくないね」
おばあさんはそう言って、しきりに足を擦っていた。
「怪我……ですか?」
「なあに、大したことない。ちょっと捻っただけだよ」
「捻ったって……。あの、立てないんですか?」
私が訊ねるとおばあさんは気まずそうに目を逸らしつつ
「ええと、まあ、ちょっと休めば大丈夫だから」と答えた。
あまりよくなさそうだ。
「救急車、呼びますか?」
「そんな大げさな。家も近くだし」
「でも……」
おばあさんが座り込んでいるのは雪の上だ。
言葉通りの病状だとして、普段ならともかくこのまま放置すると体調を崩してしまうだろう、と想像がついた。
「ご家族は家には……」
「今日は出かけてて、すぐには帰ってこないかね。というか、私のことは気にしないでいいからお行き」
そうは言っても、と逡巡する私に
「あんた、受験生だろ? 明日試験なんだからこんな年寄り放っておいてさっさと帰った方がいい」
と告げた。
その言葉で私の腹は決まった。
「いえ、今日は先輩の合格祈願にここへ来ただけで、二年生なんですよ。だから大丈夫です」
満面の笑みを浮かべながら言った私に、おばあさんは、それなら、とどこかほっとしたような表情を浮かべた。
話を訊くと、どうやら今日はお孫さんの祈願に学業成就で地元では有名なこの神社へと足を運んだらしかった。
予定通り祈願を終え、では帰ろうと踵を返したときに転んでしまったらしい。
まさか合格祈願に来たせいで転んでしまって救急車で運ばれたなんて、お孫さんの耳には決して入れたくなかったし、実際にそこまでするほどひどいわけでもない。
だけど呼べる人はおらず、またすぐに歩けるような状態でもないため、ほとほと困り果てていたようだった。
「なら、肩貸しますよ。家までどのくらいですか?」
「そこまでしてもらうわけにも……」
「いいですから」
きっぱり言った私に、おばあさんは迷いながらも「普段なら三〇分くらいかねぇ」と答えた。
三〇分。
肩を貸して歩いていくとなれば、二倍程度の時間は覚悟しなければならないだろう。
しかも私が今から駅へ向かうバス停とは反対方向で、土地勘もない。
となれば、最低でも追加で一時間半程度は外にいなければならなくなる。
少しだけ迷ったけれど、やっぱりやめますなんて言える状況でもなかったし、何よりそれだと私が気になって仕方がない。
結局、肩を貸しておばあさんを家まで送り届けることに決めた。
足元の悪い中、他人に肩を貸して歩くという作業は思っていたよりもずっと大変だった。
さらに最初に寄りかかってもらうときに膝をつく必要があった上、半分融けたような雪の上を長時間歩いたことから、履いていたタイツはびちゃびちゃに濡れてしまった。
やっとの思いで送り届けた後に『お礼がしたい』というおばあさんの進言を固辞して帰宅するころには、冷たい外気に反して身体は熱く重くなり、鼻は出るし喉もどんどん痛くなってきていた。
これはまずいな、と思いながらもどうしようもない。
急いで帰ってお風呂に入った後はベッドへ直行し、出来る限り長い睡眠をとった。
やはりと言うべきか、三八度程度まで発熱していた。
翌朝、まだ怠いながら幸いにも熱は下がっていた。
けれど頭は痛いし、鼻もしっかり詰まっている。
靄のかかったような思考のまま試験を受けることを余儀なくされたのだった。
◇◆◇
「とまあ、そんな体調で受けた結果がいいはずもなく、予定よりもだいぶ低い点数をとってしまったというわけ」
「あー、それは大変だったね……」
気まずそうに頭を掻く朱莉の姿を見て、「でも、後悔はしてないよ」と言った。
「そうなの?」
「だってあのまま放っておいたら、それはそれで集中できなかっただろうし、もっと悪い結果になってたと思う。だからあの状況ではあれがベストだった」
「でも、そんなに悪かったなら志望校も変更したんじゃないの?」
「まあ、そうだけど。でも、今となってはよかったなって思ってるよ」
「なんで?」
「だって志望校って言っても偏差値が高いからなんとなく選んでただけだし、ゼミもサークルもすごい楽しかったしね」
「小枝、めっちゃ頑張ってたもんね」
「言い方は悪いけど、もともとの志望校じゃないところに入学したから却って『後悔しないぞー!』って気合いが入ったのかも」
冗談っぽく言うと、朱莉は「あはは。それならむしろよかったのかな」と笑った。
「うん、それに――」
「それに?」
朱莉の目をじっと見る。
そのままぱっちりと数秒間合わせたまま沈黙していると、やがて朱莉はこてんと小首を傾げた。
その様子を見て、私はふっと息を吐いて「なんでもないよ」と軽く笑う。
やはり朱莉はその後もわけがわからなかったようで、顔に疑問符をいっぱいに浮かべたまま、しきりに首を傾げていた。
朱莉とも会えたからね、なんて言わないよ。
だって、なんか恥ずかしいし。
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