第7話 話し合い

 凪がエントランスのロックを解除してくれたので、エレベーターに乗った。

 どうやら凪の家は十階らしく、音もなくエレベーターが上昇していく。

 目的の階に着いたので外に出て少し歩くと、清二が一つの扉の前で止まった。

 インターホンを鳴らせば、すぐに扉が開く。

 答え合わせをしたはずだが、銀色の髪と人形のように整った顔を見た事で、お世話をする相手が凪だという実感がようやく沸いてきた。


「やあ凪ちゃん、こんにちは」

「……こんにちは」

「早速だけど、入っていいかい?」

「…………はい」


 じとりとアイスブルーの瞳が物言いたげに細まったが、それでも凪は文句を言わない。

 その姿に清二が苦笑を浮かべ、彼女の脇を通って家へと上がる。

 次はいよいよ海斗の番だと家に入ろうとすれば、凪が玄関の真ん中に立ち海斗を通せんぼした。


「こんにちは、天音」

「こんにちは、西園寺先輩」

「上がってもいいけど、覚悟しておいてね」

「了解です。何が起きても大丈夫ですから」


 普段は全く動かない表情が、申し訳なさそうに歪んでいる。そこから察するに、片付いていない家に海斗を上げるのは心苦しいようだ。

 本来は今日の話し合いをするつもりなどなく、清二以外を家に上げるとは思っていなかったのだろう。

 そのせいか、凪の服装もラフな長袖とズボンだった。

 適当な部屋着であっても不思議と似合っているのだから、美少女は狡い。


(にしても、ホントにこんな人の部屋が散らかってるのか………)


 顔を合わせた回数はそう多くないが、海斗の中での凪は何でも出来るイメージだ。

 なので、ここまで来ても彼女が片付け出来ない人だとは思えない。

 とはいえそれは海斗が抱いた凪の勝手なイメージなので、口にはしないが。

 胸を張って応えれば、凪が顔を曇らせながら海斗に背を向けた。


「ならいい。どうぞ」

「お邪魔します」


 玄関で靴を脱ぎ、奥へと進む。

 この先が凄まじい事になっていると分かっていても、初めて女性の家に上がる事にどうしようもなく心臓の鼓動が早くなる。

 ふわりと香る桃のような甘い香りも、海斗の心を乱す要因の一つだ。

 必死に鼓動を鎮めつつリビングであろう部屋に着くと、そこには知らされていた通りの惨状さんじょうが広がっていた。


「…………」


 まず目に入ったのは、部屋のあちこちに散乱している洋服だ。

 ただ、その中に明るい水色や白等の三角形の布地や、紐の付いたものが見えたので、急いで視線を逸らした。

 単に片付ける気がなかったのか、それとも散らかった部屋を見られるのが嫌でも、下着を見られるのに嫌悪感はないのか。

 何にせよ、思春期の男子高校生にとってはあまりにも心臓に悪い。

 出来る限り意識しないようにリビングを見渡せば、散らかっているのは服だけでなく沢山の本もだった。

 どうやら昼休みに読んでいるライトノベルだけではないようだが、その中の一つに『倫理哲学論』とあった。勿論、海斗にはさっぱり分からない。

 唯一の救いは、食べ残し等がない事だろう。代わりに飲んだ後のペットボトルが散らばっているものの、その程度ならまだ大丈夫だ。

 これぞ汚部屋の模範と言える有様に声を出さず、凪への宣言を守った自分を褒めたい。


「と、取り敢えず話を聞いて良いですか?」

「なら座って話そうか」


 テーブルに備え付けられている椅子に清二が座り、ペットボトルを端に寄せた。

 その横に凪が、そして彼女の正面に海斗が座ったのを確認し、清二が口を開く。


「見てもらったら分かるけど、これが凪ちゃんの部屋だ」

「……コメントは差し控えさせてもらいます」

「ぅ……」

「そうしてくれると助かるよ」

 

 流石に羞恥が襲ってきたのか、凪が白磁の頬を僅かに赤く染めた。

 その様子に清二が何とも言えない微妙な表情を浮かべて続ける。


「海斗くんには簡単に説明したけど、週に一度は掃除をしに来たり、ご飯を作りに来てたんだよ。まあ、掃除に関しては一度に全部という訳にはいかなかったけどね」

「なるほど、それが金曜日だったんですね」


 清二が一週間に一度掃除に来るのにこの散らかりようはおかしいと思ったが、どうやら毎回全てを掃除している訳ではないらしい。

 片付けた傍から一瞬で散らかされるという、最悪の可能性を考えていたものの、それは避けられたのでホッと胸を撫で下ろす。


「それで、海斗くんには僕の代わりをしてもらいたい」

「確か、バイトの時間が減ったとしてもお金は出るって話でしたよね?」

「その通りだ。むしろ僕としては凪ちゃんのお世話が一番で、バイトには一切顔を出さなくても構わないと思っているよ。お金に関してはこれまでと変わらない金額を出すと、改めて約束する」

「なら次ですね。以前聞きましたが、もう一度確認します。掃除と料理は毎日ですよね?」

「ああ。僕は店があるし、凪ちゃんに嫌がられたから一週間に一度だったけど、本当なら毎日来たいんだ。まさしく代わりという事だね」

「なるほど、話は分かりました」


 これまでの話から察するに、凪は料理をしない、もしくは出来ない人間だ。

 女性が料理出来て当然だとは思っていないし、多少は腕に覚えがあるので、料理をする分には問題ない。

 掃除に関しても、結局はバイトの延長でしかないので大丈夫だ。

 そしてこれらの事は、全て清二が凪の両親からお願いされていたのだろう。

 頼まれた側の清二と交代相手である海斗で擦り合わせをするのは当然だが、やはりこの家に住んでいる人の意見も聞くべきだ。


「西園寺先輩はどうですか? 正直な意見をお願いします」

「…………わ、私は、天音に掃除されたくない」


 言い辛そうに顔を俯けながら口にしたのは、本来であれば口答えする権利がないと分かっているからのはずだ。

 いくら一人暮らしで部屋を自由にしていいとはいえ、それには限度があるのだから。

 ましてや清二にすら手間を掛けさせているのだ。我儘だと言っても良いだろう。

 ここまで来ても自分で片付けないのは、本当に片付けが出来ない人なのか、それとも何か理由があるのかもしれない。

 ただ、凪が本心から嫌だと言うのなら、海斗のすべき事は決まっている。


「分かりました。……すみません清二さん。この話、断らせてください」


 恩人である清二の役に立てない事は心苦しい。このまま凪の部屋を放置しては駄目だという事も分かっている。

 それでもテーブルに頭を付けて懇願こんがんすれば、正面から息を呑むような音が聞こえた。

 そして右斜め前からは、重い溜息が聞こえてくる。


「……そう、か。残念ではあるが、君が決めたのなら仕方ないね」

「本当に、すみません」

「無理を言っているのは僕なんだ。君が気に病む必要はないよ。一応聞くけど、そう決めた理由は?」

「大した事じゃありません。嫌がる女性の家に上がってあちこち触るのに、俺が納得出来ないだけです」


 学校でも美桜と並ぶくらい有名な美少女である凪。

 そんな人の私生活に関わる事が出来る立場は、男子にとって喉から手が出る程に欲しいものだろう。

 例えそれが汚部屋を片付け、お世話を焼く事であっても。

 勿論、海斗とて思う所はあり、折角の接点を消すのが勿体ないという気持ちは僅かにある。

 しかし清二に様々な事を教えられた者として、凪の意見を無視するお願いは引き受けられなかった。

 せめてもの強がりとして苦笑しながら告げれば、彼の顔に微笑が浮かぶ。


「なるほど、よく分かったよ。それでこそ海斗くんだ。……凪ちゃん、この話は無かった事にしたい。無理に押しかけて来た僕が言うのも何だが、それでいいかい?」

「あ、え、その……」


 頷くだけで望んだ結末が手に入るというのに、何故か凪は首を縦に振らない。

 不思議に思って彼女を見つめると、アイスブルーの瞳が気まずそうに逸らされた。

 清二も凪の態度に疑問を覚えたのか、隣を覗き込む。


「どうしたんだい?」

「……………………天音なら、いい」

「はい?」


 有り得ない言葉が耳に届き、思わず聞き返してしまった。

 すると凪がきゅっと唇を噛んで海斗を見つめる。


「玄関で料理を受け取るだけ。それでいいなら、天音に料理を作って欲しい」


 凪のお世話という点で見れば、その提案では全く出来ていない。

 しかし、白紙になるよりかは状況が好転していると言って良いだろう。

 まさか「作って欲しい」と言われるとは思わず、海斗の頬が歓喜に緩む。

 ちらりと清二の様子を窺うと、驚きに目を見開いていたものの、すぐに「任せる」という風な微笑を浮かべた。


「俺で良ければ、これからよろしくお願いしますね」

「うん。よろしく」


 散々断っていたのにお願いしたのが気恥ずかしいのか、凪が小さくはにかむ。

 これまで一度も見た事のなかった笑みに、海斗の心臓が虐められたのだった。

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