第0章 植え込みにブラ

十三岡繁

第0章 植え込みにブラ

 彼女との待ち合せ時間までは、あとまだ一時間ほどある。やっと取り付けたデートの約束に浮かれ過ぎて、待ち合わせ場所に早く来すぎてしまった。時間つぶしに本屋にでも行こうかと思って歩き始めたが、ふと目についた喫茶店に入ることにした。


 喫茶店で何も注文しないで座っているわけにもいかないので、メニューの最初に書いてあったブレンドコーヒーをオーダーした。コーヒーを待つ間、ふとガラス越しに道路に目をやると、歩道の植込みの下に何か白い布切れのようなものが見えた。


 数秒間凝視してそれが何かが分かったとたんに目を逸らした。多分それは女性ものの下着…そう、ブラジャーと呼ばれるものに違いなかった。口にしたコーヒーこそ吹き出さなかったが、もしかしたら少し顔が赤らんでしまっているかもしれない。歩道を歩いている人は、植込みが邪魔になって上から見ても気が付くことは無いのだろう。この喫茶店は1階にあって床の高さも道路からほんの少し上がったくらいだ。窓際の席に座って視線が下がったから気が付いたのだ。


 なぜそこにそんなものがあるのか?時たま道路の路肩に靴下や軍手が片方だけ落ちているのを見かけることがある。サンダルや子供の靴なんかも見たような気がする。それはそれで不思議だとは思うが、ブラジャーの比では無いだろう。

 昨日の夜に酔っぱらった女性がそこでストリップをして忘れて行った?ここは結構な街中で、近くにはお酒を飲める店もたくさんある。この喫茶店の上がどうなっていたか思い出せないが、賃貸住宅になっていて洗濯物を落としたのかもしれない。まぁきっとそんなところだろうと思ってあまり気にしないことに決めた。


 それだけであればどうという事のない話なのだが、そのあとが不思議だった。


 僕はその後も平静を装って、コーヒーをゆっくりと飲み続けた。ブラの方には視線を向けないように気を付けながら、外を行き交う人々をただボーっと眺めるように努めた。それでも時たま、チラッとブラの方を見てしまう。誰かが拾うわけでもないので、当たり前だがそれはそこにあり続ける。そうしてつい落とし主はどんな女性なのかと想像してしまう。男というのは本当にバカな生き物だ。ここから見えているすべての人間の中で、自分しかそのブラの存在には気が付いていないのかもしれない。そうして自分だけが邪な想像を膨らませていることは酷く後ろめたかった。


 そんなささやかな葛藤に脳内では身悶えしているうちに、ふと向こうから近づいてくるひとつの人影が気になった。

 いや、人影かどうかを疑うくらいにその姿は小さかった。一瞬子供かとも思ったがそうではない。近づいてくるにつれて細部も見えてくる。黒ずくめの服装をしていて、後ろにかごのようなものを背負っている。手にはトングのようなものを握っていてこちらの方へ向かって、ピョンピョンと跳ねるように移動してくる。かなり変わったいでたちと動きだと思うのだが、不思議と道行く人は誰も気にする様子は無かった。


 そうしてその小さな人間は先ほどのブラの所まで来ると立ち止まった。体が小さいせいかかがむこともなく、白いブラをトングで掴むと背中のかごに放り入れた。そうして入れた後に突如こちら側を振り向いた。僕と目が合うと、確かににやりと笑った。その笑い顔はどこかで見たことがあるような気もしたが、思い出すことはできない。とにかくあまり気分のいいものではなかった。僕は咄嗟に目を逸らし、コーヒーをまた一口すすってから、おそるおそる視線を先ほどブラの落ちていた場所に戻した。当然そこにはもうブラは落ちていない。と、同時に先ほどの小さな人影も消えていた。振り返って人影が近づいてきたのとは逆方向も確認したが、どこにもその姿は見当たらなかった。



 その後の彼女との初デートは散々だった。もちろん先ほどのブラの話などはするはずもない。まずは映画でも見ようという事で、何が見たいのかを聞いたら何でもいいと彼女は言った。なのでたまたまリバイバルでやっていた自分の好きな作品を見に行った。映画が始まって30分も経たないうちに、横に座っている彼女を見たら眠っていた。そうして映画が終わるまで目を覚ますことはなかった。

 その後は食事という流れだったが、これもまた彼女が何でもいいというので庶民的なイタリアンの店に入った。彼女はメニューを見るなり、ダイエット中だから炭水化物は食べられないとか言って、結局サラダしか食べなかった。もちろんそのあと飲みにも誘ったが、明日早いからと言い残して早々に去って行ってしまった。遠ざかる彼女の後姿を見ながら、きっとこの人の世界線は自分のそれと交わる事はないんだろうなと感じた。


 1人になってしまったが、自分としてはすっかりお酒を飲む口になっていたので、帰りにコンビニで缶チューハイを数本買ってから帰宅した。部屋のあかりをつけて、リモコンでテレビの電源を入れてから冷蔵庫の扉をあける。中には昨日買ったチルドの餃子が入っていた。買ってきた缶チューハイを冷蔵庫に入れて、代わりに餃子を取り出してフライパンで焼いた。冷凍してあったご飯をレンジで解凍しようかとも思ったが、昼に彼女が言った『ダイエット』という言葉が妙に頭に残っていて、晩御飯は餃子だけにすることにした。


 最近の缶チューハイはアルコール度数が高い。先ほど買ってきたものも9%あった。酒にはそんなに弱い方ではないのだが、数本飲むとかなり酔いがまわってきた。テレビは特に見たいものがあるわけでもなかったが、BGM代わりにだらだらと流し続けている。お笑い芸人がなにかどうでもいいような話をしていたが、気が付くと涙が頬をつたっていた。


 酔いがまわってもすぐに眠る気にはならず、気がつけば結構遅い時間になっていた。餃子は空になったので、皿兼用のフライパンを洗おうかなと思ったところで、突如玄関の呼び鈴が鳴った。このアパートは古いのでインターホンなんて上等なものは付いていない。

『こんな時間になんだろう?荷物かな?』僕は玄関の踏込みまで行って、ドアスコープで外を確認してみた。しかしそこには誰もいなかった。

 一応玄関扉をあけて見回してみたがやはり人影は無い。サンダルを引っかけることもせず、靴下のままで一歩だけ外廊下に踏み出して、扉の裏側も確認したが何もない。軽くため息をついて扉を閉め、鍵をかけてから部屋の中に戻ると、床に置いた小さなテーブルの向こう側、つまりはテレビの前に昼間見た小さい人間がちょこんと正座していた。しらふであったならば驚いて声を上げたかもしれないが、アルコールがいい塩梅にまわっていたからか、僕は取り乱すことは無かった。


「やぁどうも」小さい人間はそう挨拶をした。

取り乱してはいないが、頭が混乱して何も返せない僕に向かって彼は続けた。

「あなた見つけちゃいましたよね」それが何を意味するのかはすぐに分かった。昼間のブラの話だろう。特に悪いことをしたつもりもないが、見てはいけないものを見てしまったという後ろめたさはあった。


 気が付くとテレビの音は消えていた。小さい人間の後ろに画面は見えているので電源は入っているはずだ。しかしその画面の切れ端を見る限りは、映像は動かずに静止していた。


 小さい人間は話し始めた。

「異世界転生ってありますよね。普通に生活をおくっていた人間がある日突然、異世界に転生するというあれです。あの人間ってどうやって選ばれているか知ってますか?」

 そんなことを僕に聞かれても困る。ラノベでその手の話はいくつか読んだことがあるが、異世界転生なんてものは空想の産物だろう。実際に行ったという人の話は聞いたことが無い。最も異世界に行ってしまうのだから知りようもないが・・・。


 僕が答えずに黙っていると、小さな人間は話を続ける。

「日常に少しおかしなものを混ぜておくんですよ。コンピューター用語だとイースターエッグですね。それには気が付く場合と気が付かない場合がある。最初はこの世界の量子力学でいう所の重ね合わせの状態ですね。そこから気が付いた時と気が付かない時で世界線が分かれるんです。そこで気が付いた場合の世界線を異世界につなげるというわけです」


「あなたはわざわざそれを教えに来てくれたんですか?」だからなんなんだという言葉を丁寧に言うとそうなった。もし自分が選ばれたというならば、さっさと転生でもなんでもさせればいい。


「いや、転生先やら付与されるスキルについては、また転生時に交渉してもらえればいいんですが、元世界での消え方に納得いかないという声が多く寄せられてまして…一応事前に要望を聞いておこうという事になりました。あなたの場合何かありますでしょうか?」

「いや、消え方と言われても良く分かりませんし、希望の出しようもないですね。というか私は転生するんですか?」我ながらもっと他に、彼に言う事があるだろうとは思ったが、アルコールがまわった脳で言えるのはこんなところだろう。

「じゃあ希望は無しにしておきます。いやーこちらとしてはそれが一番助かります。あ、安心してください。このあたりの記憶は消えてしまいますから…」


 そこまで聞いてまぁ転生は置いておいても、いや結構大事(おおごと)だとは思ったが、それよりも『ブラはないだろう…』と心の中で叫んでいた。


<了>

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