粉雪舞う白い世界で

ふちたきなこ

第1話 歌舞伎町のセラピスト

街行く人々はもうとっくに、それぞれの役割を果たすためのパーツとして動き出していた。


そして私もこの街を動かす小さなネジのひとつだった。


冬の冷たい空気の中で、朝日を浴びながら新宿駅の大ガード下をくぐり、ドン・キホーテを横目に、人込みをかきわけながら、私はママチャリを漕ぎひた走っていた。


道端ではカラスが生ごみの袋を突いている。


夜の比ではないけれど、私の行く手を阻むほどには、人の波は出来ていた。


息を切らしながら目的地にたどり着いた私は、道路沿いにママチャリを止め、鍵をかけた。


治安の悪いこの街で、同僚の男性スタッフは鍵を付けた新品のクロスバイクをもう3回も盗まれたと言うけれど、私のボロボロなママチャリはいまのところ盗まれる心配はなさそうだ。


その8階建てのビルは、歌舞伎町と呼ばれる繁華街にあった。


しかし歌舞伎町と言っても大きな靖国通り沿いにあるからか、裏通りの猥雑で危ない雰囲気からはかけ離れた清潔さを保っている。


通りの向こうには映画館があり、その看板には公開中のロードショーの主演女優が、生足のつま先を相手役俳優の口元へ差し出している。


自動ドアでビル内に入り、エレベーターに乗り込み、6のボタンを押す。


6階にたどり着き、廊下を右側に進むと、私のバイト先であるリラクゼーションサロン「リリー」の入り口がある。


男性が通う限りなく風俗店に近いグレーゾーンの店ではなく、健全なマッサージ専門店だ。


「リリー」という店名はオーナーの奥さんの「百合子」という名前から付けられたそうだ。


私はこの店「リリー」のセラピストとして働いている。


ガラスの扉を押し開けて暗い店内の電気を点けると、受付と待合スペース、そしてその奥にある均等に並べられた施術ベッド8台がその姿を現した。


待合フロアのすぐ右にあるベージュのカーテンを開き、3人で定員オーバーになってしまう狭いバックヤードへ入る。


そこでスタッフは着替えをしたり、空いた時間に食事をしたり、束の間の休息を取ったりするのだ。


時計の時刻は8時ジャスト。


開店時間は9時だから、1時間弱で営業が出来るように準備をしなければならない。


この作業をするのは早番の仕事で、毎日スタッフ二人体制で行われる。


私はイチゴ柄の入った紺色のスポーツバッグから制服を取り出し、素早く着替えた。


制服といっても上は店指定の空色のポロシャツ、そして下は自腹で購入したアディダスの黒いジャージズボンだ。


裸足は厳禁。ちゃんと白いソックスと見苦しくない室内サンダルを履く。


着替えが終わった頃に、もう一人の早番である古田さんがバタバタと大きな足音で店に入って来た。


「伊織ちゃん、遅くなってごめん!子供が保育園でグズってなかなか離れてくれなくて。」


「全然遅くないですよ?私も今来たばっかりだし。」


古田さんは30代後半のシングルマザーで、私と同じこの店のオープニングスタッフ。


2年前に店がオープンしたばかりの大変な時期を一緒に乗り越えた大切な仲間だ。


古田さんは店で施術を覚えた私と違って、鍼灸師の資格を持ったベテランセラピストなのだけれど、それをひけらかすこともなく謙虚で穏やかな人柄なので、安心して一緒に仕事が出来る。


「じゃ、朝の準備、さっさと終わらせちゃおうか。」


「はい!」


「伊織ちゃんの返事は、いつも気持ちがいいね。」


「それだけが取り柄ですから。」


古田さんが店内フロアに掃除機をかけ、私はその他の雑事をこなす。


バックヤードの天井近くにある祭壇の水を取り替え、邪気を払うための盛り塩を円錐形にして店の扉の下に置く。


昨夜に洗濯し干されたタオルやお客様用の着替え服を畳み、所定の位置へ仕舞う。


そうこうしているうちに、9時からのスタッフ達が出勤し始める。


この店「リリー」は20代前半から40代後半と幅広い年齢のスタッフが働いていて、男女の割合は半々といったところ。


お給料は完全出来高制で、お客様に施術をした本数に応じて支払われる。


一本は60分の施術だ。


施術内容は身体全体のマッサージ、足裏マッサージ、そして女性限定のアロマオイルマッサージがあり、店内で先輩に施術を教えて貰いながら技術を磨き、店長からの合格サインが出たら晴れてお客様に施術が出来るようになる。


私は最近になってやっとアロマオイルマッサージの合格を貰ったばかりで、日々緊張しながらもお客様に喜んで頂けるような施術を心掛けている。


「田山さん。アロマ一本入ったからよろしく。」


珍しく午前中から出勤している店長が、アロマを希望した女性客の会計を済ませると、そう言って私に目配せした。


私は即座に「はい!」と返事をして頷くと、レジの前に立つ女性客の側へ歩み寄った。


本日朝一のアロマのお客様は、茶髪ロン毛にミニのスカートからすらりとした足を出した20代前半と思われるギャル風の女性。


その身なりと少し疲れた表情を見て、たぶん歌舞伎町で働く女の子だろう、と思った。


私はその女性客にエッセンシャルオイルの希望を尋ねた。


エッセンシャルオイルは別名精油ともいい、柑橘系や森林系の香りを楽しむだけでなく、ストレスを和らげたり、身体のバランスを整えたりする作用がある。


「お客様。当店ではお客様にお好みのエッセンシャルオイルを選んで頂いております。種類はラベンダー、ゼラニウム、シダーウッド、グレープフルーツがあります。如何致しますか?」


女性客は少し迷っていたけれど「ゼラニウムで」と顎を軽く動かした。


ボディや足裏の施術は薄いカーテンで遮ったベッドの上で行うのだけれど、アロマオイルマッサージはお客様が肌を露出する為、店の一番奥の厚いカーテンで遮られた一室で行う。


私は女性客をいつものように奥の部屋へ案内した。


流れとしては、お客様が衣服を脱いで紙のパンツ1枚になり、うつぶせになったところでスタッフにお声掛けして頂き、その後施術を始める。


「それでは施術をさせて頂きます。本日は私、田山が担当致します。力加減が強すぎたり弱すぎたり感じましたらすぐにお声掛けください。それではよろしくお願い致します。」


お客様はうつぶせのまま軽く頷いた。


私は手の平にたっぷりのトリートメントオイルを乗せ、まずはそれをお客様のふくらはぎに塗りリンパを流していった。


トリートメントオイルとは精油を植物油で希釈したオイルのことで、これを使ってお客様の身体をマッサージしていく。


ふくらはぎが終わると足の裏のツボを押し、そして太腿の肉を親指と手の平で上下左右に摩り捻る。


下半身を入念にマッサージすると今度は上半身だ。


背骨に沿って親指を滑らせ、肩甲骨の上を反時計回りに半円を描く。


両腕、手の平、指、首筋などにもオイルを付け、リンパに沿って滑らせていく。


背中を充分にマッサージしたら仰向けになって頂き、鎖骨、首筋をオイルで流す。


お客様の希望によって強弱を調節するのだけれど、ダイエット効果を期待するからか、痛いくらい強めの施術が好みのお客様も多い。


60分をかけてこの施術をするのはけっこうな重労働だ。


これで3980円なのだから、エステに通うと思えばかなりお得な料金設定だと思う。


「リリー」はアロマオイルマッサージだけではなく、他の施術も60分2980円でサービスを提供している格安店なのだ。


体力勝負の大変な仕事だけれど、施術後のお客様のお風呂上がりのようなサッパリとした顔を見ると、疲れも吹っ飛んでしまう。


施術が終わり、お客様の身体を温かいタオルで丁寧に拭いた後、お着替えを待つ。


お客様の支度が終わると靴をベッドの下へお持ちし、店の扉まで案内して「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。」と一礼しながら見送り、無事完了。


お客様が使い終わったベッドを、次のお客様が来店するまでに整えるのは、手の空いたスタッフが手伝ってくれることが多い。


今日も客足が遅くスタッフの手が空いていたこともあり、一応ベッドを確認しに行くと、すでに綺麗にベッドメイキングされていた。


バックヤードで水分補給をした後すぐにアウターを羽織り、店長に「外、行ってきます!」と一声かけると、チラシを持って店を出た。


次のお客様の順番が回ってくるまでの空き時間で、ビルの側の路上でチラシを配るのも大切な仕事のひとつだ。


配っている時間は一切賃金が発生しないけれど、チラシを見て来店するお客様も少なくないのだから、これも自分たちの稼ぎの為なのだ。


店がオープンしたばかりの時は、まだ客が全然入らないこともあり、一日中チラシ配りをスタッフ全員で行っていた。


疲れと眠気で気を失いそうになり、花園神社の境内でしばしうずくまって休んだこともあった。


その時に比べれば、いまは客足も安定していて、チラシ配りは一回30分程度で交代できるのが有難かった。


「よし。やるか。」


私はそう小さくつぶやいて気合を入れると、店の名前と施術内容やその値段が大きく書かれているオレンジ色のチラシを、道行く人々に差し出しながら声を掛け始めた。



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