第32話

 幼い少年は、膝を丸めてじっと刀弥とうやを見つめている。歳は五歳か六歳か、そんなところだろう。

(変異体と居合わせて逃げ遅れたか、遊んでいて出るに出られなかったか)

 よく見れば、身体が小刻みに震えている。

 前者だろう。

 もしかしたら、刀弥が見た、顎から上がない女の遺体、アレが様をその目で見てしまったのかもしれない。それでも騒がずにいるのは、ここで騒いではいけないと自制心を働かせているのか、そこまで思考が追い付かずにいるだけなのか。

 通常、変異体と接触、もしくはその疑いがある者は例外なくMMMC地下ブロックPNDRへ移送され、検査を受ける。大半がとして帰されるが、万一陽性ならば、を取られて、最期が近くなると系列の病院に搬送されて看取られる。

 『ジョーカー』の罹患率が低い為、全体の母数に対して陽性の例はほとんどない。感染源は体液で、直接的・間接的接触に起因する。感染パターンの多くが変異体に噛まれたか引っ搔かれた場合が多い。

 目の前の少年は、特に傷を負っているようには見えない。だが、例えば涎の飛沫が付着したり被害者の体に接触したりすれば当然感染の可能性がある。

 刀弥と観生みうは『ジョーカー』に適合し、その抗体を有しているため感染によるリスクは極めて低い。正確には感染自体はしているのだが、人から人へと感染する状態ではなく、高い身体能力や並列思考処理能力を有してさえいる。

 何をそこまで考える必要があるのかというと、つまりは刀弥が少年と接触しても、ウィルス学的にはなんら問題ないという裏打ちだ。問題があるとすれば、それは『少年を守ることはこの場においては不利な要因ディスアドバンテージ』であり、刀弥からすれば少年を守ることになんらメリットがないということだ。

 そのはずなのだが、

(蓮山とこの子供と、何が違う…?)

 そんな、最近になってちらちらと思考を侵食する事柄を自問してしまう。

 これまで見てきた被害者は、顔も名も知らぬ人物だ。

 対して蓮山天音はすやまあまねは毎日顔を合わせている知り合いだ。

 ならば、知合いは助けるがそうでなければ助けないという理屈だろうか。

 刀弥はこれまで、変異体に殺された被害者を見てかわいそうだとか悲しいなどと思ったことはない。それが普通だった。死体という『モノ』として接してきた。

 ならば蓮山天音はどうか。

 生物学的にも他の被害者と変わらぬホモ・サピエンスに違いはないというのに。

 助ける理由は、あくまで感染者を増やさない、リスクを減らすためだけのはずなのに。


「グォゥ―――!!」


 調理場の壁を越えて、小型の変異体が室内の刀弥に向かって飛び掛かる。

 ほとんど反射で、刀弥は拳銃の引鉄トリガーを引く。

 銃口から吐き出された銃弾が、変異体の眉間を撃ち抜いた。

 ドゴッ、ドダッ、っと頭部を損壊した変異体は飛び込んだ勢いが失速し、ステンレス調理台の側面にぶつかってから少年の近くに倒れる。

 ちらりと少年を見ると、両耳を手で塞いでぎゅっと目を閉じている。恐怖で目を閉じている。恐ろしい光景から逃げるために視覚と聴覚を遮る。年齢相応、当然の反応だ。

 刀弥にとっては都合がいい。下手にうろつかれる方が困る。

 

「グォォッ―――!!」


 二体目が飛び込んできた。

(きりがない――)

 銃弾だって有限だ。先ほど装填した予備弾倉は二本目――最後の一本だ。無駄撃ちはしていないが、元々は巨大変異体一体の相手を想定していた。こちらに補給線がないことを考えると、小型種相手には銃弾は節約すべきだ。

 拳銃を胸のホルスターに仕舞いながら、左手で腰のナイフに手を伸ばす。

 逆手に柄を掴み、屈みながら振りかぶる。

 ナイフの刃が、変異体の牙と激突。がっちりと噛みつかれた。

 左腕一本では押し負けるが、構わない。

 ただ、そのベクトルの向きを修正する。

 頭部を起点に直線運動を回転に変換し、調理台の上に叩きつけた。

 ドタン!という衝突音に続き、肺から空気の抜ける、きゅふ、という気の抜けた音。

 変異体の上半身は、ちょうど出しっぱなしになっていた木製のまな板の上に叩きつけられる形になったが、こんな状態でもナイフを獰猛な牙で封殺し、血走った眼は刀弥を睨み続けている。

「—――っ」

 その首に向けて、同じく出しっぱなしになっていた三徳包丁を右手に取り、振り下ろす。

 首の真ん中、本来の口とは別にもうひとつある、乱杭歯が覗く口腔に、突き立つ刃渡り一七センチの包丁。刃が全て埋まるほど深く突き刺さったその柄を、刀弥は更に力を込めて捻じり、既にせん断された脊髄と共に頸椎を脱臼させた。頭を振って暴れていた変異体の動きが痙攣に変わった。

 

 トタッ、と微かな物音。


 硬質ではない、土の地面を蹴った際に出る微かな物音にも、刀弥は反応する。

 音源は真後ろ。

 先の変異体が入ってきたのと同じ、大きく開いた外壁上の枠から、涎を巻き散らかしながら迫る黒い狂気。

 まな板に寝そべる変異体の口から引き抜き、右手に持ち替えたサバイバルを振り返り様に横一閃――。

 新たに迫る小型変異体の両目を一度で切り裂いた。

 呻き声が発せられると同時、血の珠が浮かぶ様子すら認識する動体視力をもって、刀弥は半身となる。

 盲目となった変異体と体が交錯する、その瞬間――

 刀弥の右脚が、内側から外側へ、時計回りに旋回し、一二時を差したタイミングで振り下ろされた。

 薪割りの斧のように頂点から振り下ろされた踵落としは、変異体の背中へと突き刺さり、背骨を砕く。そのままの勢いで体をコンクリートの床に叩きつけられた変異体は、軽くバウンドの後、追撃に振り下ろされた刀弥の足裏によって、首を粉砕された。


 更に別の一体が入って来る。

 調理台の上に一度着地して刀弥を見るが、すぐに視線を下げる。

 その先にいるのは、目をぎゅっと閉じて耳を塞いで丸まっている少年だ。

「ちっ」

 刀弥は作業台の上を滑るように移動し、少年と変異体の間に滑り込む。

 刀弥の左手には、シンクに置きっぱなしになった、水を溜めたままの三○センチ程のフライパンが握られていた。

 勢いよく、中の水を変異体に向けてぶちまける。

 変異体の顔が、一瞬背けられる。

 当然、そんなものでダメージは与えられない。

 だが問題ない。

 水をかけるために左から右に振ったフライパンを、八の字を描きながら返す刀で変異体に向けて振り抜く。フライパンの側面が向かう先は、その頭部――ではない。

 前足だ。

 勢いよく振りぬかれたフライパンに文字通り足をすくわれ、変異体が半回転する。

 そのまま背中から落ちた黒い犬の顔面にフライパンの底をガツンと叩きつける。

 だが、トドメには至らない。

 グルルル、と怒りを孕んだ唸り声が耳に届く。

 そこへ、フライパンを顔面に押し当てたまま、右手のナイフを無防備な胸に突き立てる。

 変異体の体がビクン、と跳ねるが、刀弥の手は止まらない。

 刺したナイフを更に手前に、胸骨に沿って引き、右肺と心臓を切り裂いた。


『あーちゃん』


 インカムから聞こえる相棒からの声。刀弥は手を止めずに周囲を警戒する。

『三匹逃げた』

「ちっ」

 当然と言えば当然だ。むしろ、これまでよくお行儀よく刀弥だけに向かってきたと感心するくらいだ。

「行先は?」

『駐車場方面。多分市街地こっちじゃないかな~?ほら、天音ちんいるし』

 元々複数体を相手にする時点でこの場を抜けられてしまうことは想定していた。そのために周囲を処理班が封鎖しているのだし、彼らとて銃で武装した人員もいるのだから、網から逃れた分くらいは対応してもらうしかない。それでも対応しきれないようならば――

「もし市街に入ったら柱に取り付けたカメラで監視しろ。部屋に籠城か、PNDRへ後退するか判断は任せる」

『おーよ。あとあーちゃん』

「なんだ」

『シットダウーン』

 一瞬意味を見失うが、『Sit down』と認識した瞬間、理由など考えずにさっとその場にしゃがんみこんだ。

 

 ブオン――バギガギボギ――――!!!!


 黒くて太い鞭が、調理場の外壁を薙ぎ払っていった。外壁沿いに窓枠のように配置されている、天井の一辺を支える直径二○センチの構造材が、太い鞭によって半ばからへし折られた。

 コンマ一秒行動が遅れていたら、それに巻き込まれていたに違いない。

 刀弥はその動体視力をもって起きた事象を把握する。

(ネッキングか――)

 巨大変異体が、キリンのように長い首を大きくしならせ、調理場を薙ぎ払ったのだと気付く。

 ギギギ――と。

 一面を大きく抉られ、調理場が軋みを上げる。だが、元々設計上は余裕を持たせているはずだ。耐荷重一○○キロとは九九.九キロまで耐えるが○.一キロ増えたら壊れる、などという意味ではない。通常は安全率を設けている。

 だから、この軋みは衝撃を受けたことで一時的に一辺に過負荷がかかっているだけで、すぐに安定するはずだ。


『あーちゃん早く外にっ』


 だから、インカム越しのこの警告は、バランスが崩れたことによる倒壊を知らせるものではない。珍しく、観生の声に緊張感が滲んでいる。

 もっと危機的状況――


『変異体が、跳んだ』


 顔を上げて外を見ると、黒い巨体は消えていた。

 いや、正確には、すでに地面に足をつけていない、というのが正しい。

 今、なんと言った?変異体が跳んだ?

 つまり――


 ドゴォォォォ―――――――――――――――!!!!!!!!!!

   ミシミシメキメキメキ―――   

     バキバキメシメシメシ――――


 爆撃でも受けたかのような衝撃に足元が揺らぐ。

 木材がしなきしむ音に追従して、破断音が連続する。

(まずい――)


 巨体に似合わぬ驚異的な跳躍をもって、巨大変異体は宙を舞い、

 放物線軌道の頂点を通過し、

 その落下点となる屋根に、一トンを超える重量が衝突した結果、


 調理場が、積み木を崩したように呆気なく、倒壊した。

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