第7話

 朝桐刀弥は指定された場所に赴き、土手のサイクリングロードから異形の野犬を発見した。犬の視線は目前の女子学生に向けられており、今にも飛びかかっていきそうだった。

「助けて—――」

 女子学生の搾り出した声は、距離があるせいか、虚空に消えそうなほどか細く聞こえた。

 危ない、とは思わなかった。

『あーちゃん』

「任せろ」

 インカムから聞こえる相棒の声に応える。

 ただ己の使命に従い、コンクリート製の階段を一足飛びで駆け下り、女子学生と犬の間に割り込む。その頃には、犬が飛びかかっており、このままでは刀弥の体が刃渡り一五センチの刃物のような爪に体を裂かれてしまう。

 最適解は体を縦に反らして初撃をかわし、無防備な獣の横っ腹に懐の拳銃の一撃九ミリ弾を叩きこむことだったが、女子学生はあろうことか刀弥を見つめたまま固まってしまっている。目の前の現実を、状況を、正確に理解していない。ましてや、今刀弥が最適解の行動回避行動を取ったら自分に死が訪れることを想像できていない。

 刀弥は咄嗟に女子生徒を左腕で抱き留めた。そこを基点に体を捻り、ハイキック。

 犬の顔面を蹴り飛ばす。

「無事か」

 刀弥が女子学生に確認する。もしもアレに嚙まれたり引っかかれたりしていたら、になる。

「朝桐…君…?」

 名前を呼ばれ、そこで刀弥は女子学生が知り合いだと気づく。だが、誰なのかを確認するために顔を向けはしない。

 視線を外すことは、まだできない。

 縦に並んだ三つの口をギリギリと軋ませながら唸り声を上げる多口の犬は、コンクリートの地面を滑るもすぐさま立ち上がり、刀弥を威嚇している。

(注意はこちらに向いている……)

 もし当初定めた獲物に執着するようであれば面倒だと思ったが、邪魔に入った刀弥に意識を向けている。ならば仕事に専念できる。

 懐から拳銃――グロック17を取り出し、スライドを下げて初弾を装填する。

 装弾数は一七。準備は万全だ。

 犬までの距離は五メートルほど。

 そこを拳銃で狙う―――ことはしない。

 敏捷な獣に対して、この距離は必殺の間合いではない。拳銃は射撃武器で離れた対象を攻撃できる強力な武器と思われることが多いが、現実は近接格闘用の武器だ。俊敏に動く動物を狙うには、五メートルという距離は心許ない。

(瞬殺する!)

 一気に駆け込みゼロ距離で、二メートル以内に踏み込む。

 その一歩を踏み出そうとしたところで、

「―――っ」

 大きな抵抗を、刀弥は感じた。

 左腕を、袖を掴まれていた。

 女子学生が縋るように、ブレザーの裾を、不安をありありと浮かべながら―――

「ちっ」

 一瞬、刀弥の視線が女子学生に向き、そこで初めて同級生の蓮山天音であることを認識し、すぐさま視線を異形の犬へと戻すと、涎を撒き散らしながらこちらに駆けていた。

 目前二メートルに近づいている。

 本来刀弥が詰めるはずだった距離だが、こちらから詰めるのと相手から詰められるのとでは意味が異なる。

 拳銃を構えるが、既に眼前には大口を開けて飛びかかる獣の牙が迫っていた。

 しかもベクトルが悪い。

 刀弥の顔面にでも向かってくれればそのまま口内に銃弾を叩き込むこともできただろうが、あろうことか犬の牙は刀弥の左脇、半ば腰を抜かしている天音の喉笛を喰い破るコースだった。

 一発二発撃ち込んでも、致命傷になったとしても、その場で即死しなければ天音は食らい付かれる。

「―――っ!!」

 だから、刀弥は銃口を向けるのではなく、その右腕を大きく横に突き出し、犬と天音の間に割り込ませた。

「―――ぐぅっ!!」

 刀弥から苦悶の声が漏れる。

「ひっ!?」

 天音も悲鳴を上げる。

 犬の牙が、一〇センチはありそうなナイフのような犬歯が、深々と刀弥の腕に食い込んだ。

 ビクッと、天音の体が跳ねる。そして、自分が刀弥の袖を掴んでいることと、そのせいで彼に怪我をさせてしまったかもしれないということに思い至り、叱責されたと感じて慌てて手を離した。

 刀弥は解放されたことで、足運び・腰・上体・腕全体で回転運動を生み出し、腕に嚙みついた犬の体を勢いよく地面に叩きつけた。

 キャウン、などとかわいらしい鳴き声は上がらない。オォウ、という巨漢が倒れるのと変わらない重低音が犬の喉から漏れた。

 叩きつけられた拍子に牙から解放された刀弥の腕には、破れた袖から覗く痛々しい噛み痕―――というには酷すぎる裂傷と、大きな犬歯によって空いた二つの穴から止めどなく流れる血液が、コンクリートに紅の軌跡を描く。

 血まみれの右手には、既に拳銃が、引鉄ひきがねにかけられた状態で握られている。

 ダン—―ダン――ダン――!

 流れるような三点射—――

 まだ胴を地に着けたままの奇犬に放たれた九ミリパラベラム弾は、しかし胴体を捉えることなくコンクリートを削るに終わった。

(仕損じたっ…!)

 掌まで濡らした自身の血が、銃把グリップ引鉄トリガーを滑らせ、至近一メートルという距離で外してしまった。

 その隙に犬が跳び起きる。

 咄嗟に左手にナイフを握る。

 それと同時に、尋常ならざる四足からの瞬発力で、跳び出した。

 だが、多口の犬は襲ってはこない。

 刀弥と天音を背に、犬は川へ向かって駆け出した。

 すぐに銃口を向けるが、刀弥が構えたころにはすでに一〇メートルの距離が開き、更に三秒後には背の高いヨシの茂みの中に消えてしまった。

「逃がすかっ」

 刀弥は逃げる犬を追おうと駆け出すが、すぐにその腕を掴まれる。

「何やってるのよ!」

 先ほどの焼き直し。天音が袖を掴んだ。

 ただし、先ほどの怯えによるものではない。

「朝桐君、早く手当てしないと!」

 刀弥の右腕からはだらだらと血が流れ続け、拳銃を握る手、その小指からポタポタと垂れたことでいくつもの血痕を足元に作っている。

 至極当然の、大怪我を負っている人を目の前にした模範的な行動とセリフだが、どうも天音には右手の拳銃や、あの奇怪な犬を知っていそうだという疑念に思い至れていない。目の前の血の印象が強すぎた。

「放せ」

 刀弥は冷めた声で天音の腕を振り払う。

「お前には関係—――」

 振り返って更に拒絶の言葉を紡ごうとして、刀弥は天音の顔を見て固まった。

 そして、血濡れの右腕を背に回しながら、左手を天音の顎に添える。

「なっ—――」

 天音は予想外の事態に焦燥する。

(顎クイされた!?)

 しかも、刀弥は徐々に顔を近づけてくる。

 刀弥は顔のつくりに関して言えば、整っている方だ。そんな同級生にいきなり顔を近づけられ、戸惑いと恥じらいの感情が暴れ出す。

「あの、あさぎり……君……?」

 顔が熱い。心拍数も、恐らく上がっている。

(なになになにこの展開は!?)

 そして、添えられた刀弥の親指が、ピッと顎先を払った。

「え?」

 天音の目が点になる。何が起こったのか、何をされたのか、理解できなかった。

 刀弥はポケットから携帯電話を取り出し、電話番号を手早く打ち込んで耳に当てた。

「変異体を取り逃がした。—―――――—――—―――ああ、傷は負わせていない。負傷したので対処も頼む。—――—――――――出血してる。輸血までは必要ない。―――――ああ、それと、一人検査を頼む」

 どこかと話しているようだが、内容までは理解できない。ただ、最後の『検査』という言葉が印象に残る。

(検査…?わたしのこと…?)

「そうだ―――—―――ああ、血液に触れた。俺の血だが、変異体に噛まれた部位からの出血だ。すぐに拭ったが、感染のリスクはある」

 刀弥はこの後も何やら話し、電話を切った。

 そして、天音に向き直る。

「一緒に来てもらうぞ」

 いつも通り、淡々とした調子の同級生男子生徒の声だったが、

「拒否権はない」

 天音には、何か得体のしれないものに思えてならなかった。


 

 

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