第2話

 都心のビルとビルの間は、異空間と言えた。

 日の光が疎らに射し、やや薄暗い路地は、大量の室外機によって四月とは思えない暑さを作り出していた。

 セミロングのOLは、滲む汗に不快感を抱きながら、ハイヒールにも関わらず走っていた。

「やっばい。あと五分もないし」

 腕時計で時刻を確認し、今の自分の境遇を嘆いた。

 昼休み、外にランチで出かけたのだが、「たまには別のところに行こうかな」という軽い気持ちで少しだけ遠出してみた。といっても、歩いて十分もかからない場所なのだが、そこの店内はかなり混雑していて、だからといって別の場所も同じように混んでいそうなので、悠長に長蛇の列に並んでいたのだった。

 結局、食事を終えたのは昼休み終了五分前。このままでは昼休みが終わり、遅れて来たことで課長に説教を喰らってしまう。

「ハゲ課長の話とか信じらんないし」

 そこで、ビルを迂回することを止め、ビルとビルの間を突っ切ることにしたのだった。

 これで三分くらいは稼げるはずだと自分を勇気付け、先を急いだ。

 と、そこで何か異音がした。

 誰かが唸っているような、苦しげにも、興奮しているようにも聞こえる音。いや、声と言うべきか。しかし、忙しなく回り続ける室外機のファンの音が音源を誤魔化し、狭い路地の間ではビルの壁が音を反射していて音源を特定できない。しかも室外機以外にもダンボールやらビールの箱が乱雑に置かれているので、死角が多すぎた。

「誰か、いるの……?」

 恐る恐る、OLは姿なき声に対して声をかけた。

 すると、ずらりと並ぶ室外機の陰から、何かがどさりと音を立て、OLの前に現れた。

「ひゃあっ!?」

 背中の産毛が逆立つほど、恐怖に慄く悲鳴が上がった。

 室外機の陰から現れたのは、黒い犬だった。

 しかも、ただの犬ではない。

 肩までの高さが、優に一メートルを超えていた。その辺の小学生ならまずこの犬を見上げていることだろう。

 だが、そんな大きさなど問題ではなかった。

 首が二つある。

 左右の首がそれぞれ独立して動き、やがて四つの目がOLを睨みつけた。

 OLは反射的に一歩足を退いた。

 すると、双頭の犬は前足を一歩前に出す。まるで大きなナイフがそのまま生えているかのような、巨大で鋭利な爪が並んでいる。

「なに……、これ……?」

 疑問符ばかりが浮かび、底知れぬ恐怖と混在する。

「もしかして……、かなりやばい?」

 双頭の犬が、大きく口を開き、乱雑に生え揃った牙を剥き出しにする。まるで地獄の底から震えるような息を牙の間から漏らし、ジャリっ、と前足に力を込めた。

 OLは反射的に犬に背を向け、元来た道を走り出した。

 あれはまともなものじゃない。休憩時間がどうだとか、上司に怒られるとか、そんなことはどうでもよくなった。今のこの恐怖が、この状況さえどうにかしてくれれば減俸だろうが懲戒免職だろうが何だって受けてやると、胸中で叫び散らす。

 スリットのように見える、路地の外。闇の中を駆ける自分を勇気付けてくれる、希望の光。ハイヒールを履いていることなど関係ない。そこへ向かって全速力で走り続けた。

 表の通りまでは三〇メートルもない。十数秒あれば通りに出られる。いや、それこそ数メートル足りなくても、通りを歩いている人が見つけてくれれば、助かるかもしれない。

 そう考えていた、走り出してほんの二、三秒後、OLは背中に焼けるような痛みを感じ、前につんのめった。

 背中を、大きなナイフのような爪で引っ掻かれた。

 OLは反射的に後ろを振り返った。

 しかし、なぜか異形の犬の姿がない。

 再び前方へ視線を直し、そんなことはどうでもいい。とにかく逃げようと思った瞬間、

 OLの視界は黒一色になり、

 腐敗臭が鼻を突き、

 やがて顔面に噛み付かれたと気づいた時には、

 信じられない力で、顔の前面が噛み砕かれ、

 一瞬遅れて、喉笛に噛み付かれ、

 水鉄砲のように、裂かれた首から鮮血が噴出した。

 悲鳴はない。

 ただ肉を貪り、骨を砕く音だけが、室外機の音に紛れていた。

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