第3話 魅惑の香り

 ノエルが目を覚ますと、あたりは真っ暗だった。


「夜か……思いの外寝入ってしまった」


 こんなにぐっすりと睡眠を取ったのはいつぶりであろうか。手早く身支度を整え、足早に部屋をでた。


(主様はどちらに)


 思考を巡らせる前に、嗅いだことのない香りが鼻孔をくすぐった。


(これは)


 何の匂いだ。漂ってくるかすかなそれをたどり、次第に理解する。ずっと忘れていた懐かしいような、もう自分には縁がないと思い込んでいたような、それとの邂逅はなんともいえない不思議な気分にさせる。


 ある程度予想はしていたが、開いた扉の先にはまばゆいくらいのご馳走の数々。息を飲んだ。


「ああ。ノエルの坊ちゃん。いいところに来ましたっす」

「シデ。主様をもてなすにしてもこれは作りすぎだろう」


 真面目な顔でいうノエルにシデは顔の前で二三手を振った。


「いやいや。オイラじゃないんすよ。これ全部姫さんがお作りくだすったっす」

「は」


 その時奥から主様が小走りに飛び出してきた。


「ノエルさん。体調はいかがですか」

「主様。先程はたいへん無礼を」

「みなさんがはやくげんきになれるようわたくしがんばってりょうりをしてみたのですが」

「???」


 矢継ぎ早に流れていく会話に、ノエルの思考が追いつかない。口をパクパクさせるノエルの代わりに、シデがのんびりと水をさした。


「姫さんにはちゃんと、ここのみなさんはほとんど飯は喰いませんぜって言ったんすけど」

「見知らぬ食材にテンションが爆上がりしてしまいましたの」


 赤らめた頬に手を添えて言い訳を始めた主様に、ノエルはぽかんとしている。


 異界からやってきたばかりで、右も左も分からないはずなのに。未知のものに絶望するでもなく、逆にテンションがあがった?


「シデさんにひとつひとつ、生で食べられるものとそうでないもの、調味料の特徴を丁寧に教えていただきましたの」

「つっても、今ある食材なんて長期保存のきく、ほとんどオイラが食べる用の粗末なもんでたいしたもんはおいてなかったんすがねぇ。まさかこんなレパートリー豊富なご馳走に化けるとは」

「はじめての食材でしたのでついあれこれ試してみたくなったのですわ」


「ささ、ノエル坊ちゃん。いつまで呆けたツラでいるっすか。料理があったかいうちに腹をくくるっす」

「は」


 シデが椅子をひいて、座れと顎で指示してきた。何だこれは。


「ノエルさんのお口に合うといいのですが」


「主様……自分は」


 久しく食事をしたことがない。カトラリーの使い方はおろか、咀嚼の仕方さえ覚えているかも怪しい。体が緊張で強張る。


「匂いに誘われて来てみれば」


 ノエルが来たのとは別の扉から、重々しい声がした。


「ヴラド」

「ああ姫さん。あれがもうひとり会話ができる魔法使いのヴラドの旦那っす。むこうからやってくるなんてめずらしいっす」


「はじめましてヴラドさん。ぜひご一緒にお食事をしましょう」

「……主よ」

「まずは腹ごしらえですわ」

「ノエルは最近までドールだったから、食事が喉を通る保証はない」

「どおる?」


 ヴラドの低い声に、首を傾げた。


「魔法使いの成れの果て。もぬけの殻の役立たず魔法人形ドール。魔法館に住まうは、元来そうした者たちだ」




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