「私、やります!」 -1-
「と、いうわけなのだが。その物語の執筆を、エマに頼めないだろうか。子供に新しい物語を作って話したのが、近所でも評判になったと聞いたぞ」
こうして、エマはエヴァンから教本作りの経緯と、作りたい物語の方向性など、おおよその話を聞き終えた。
エマは己に向けられた問いかけに思わず体を強ばらせる。エマにとっては、領主の邸宅に呼ばれること自体が想定外の事態だったが、この依頼は、彼女が考えていた想像のさらに斜め上をいく。
「学のない私などに、どうしてそんな……」
「教本と言っても、高尚なものにする必要はないのだ。学舎で学ぶ者に対する年齢の制限は設けないが、文字の読み書きを教わるのは基本的には子供になる。教本も子供が楽しんで読めるものにしたい。となると、日頃から子供に物語を作っているという、エマが適役ではないかと思うのだ」
と、ここまで話を聞き終え、エマは不意に顔を伏せた。それは、エヴァンの輝きが強すぎて、彼の顔が見られなくなった、という種のものとは別の行動だった。
「こうしてお声がけいただいたこと、大変名誉でありがたいことなのですが、謹んで辞退させていただきます。私にはできません」
「どうしてだ? 作った物語が近所の子供たちに評判だったという話は、事実ではないのか?」
エヴァンに問いかけられ、エマは首を横に振る。
「いいえ、それは嘘偽りありません。しかし、領主様。お恥ずかしいのですが、私は文字の読み書きができないのです。ですから、物語を作って語ることはできても、本にするために文字におこすことができません」
そう、とても苦しげに話すエマの声に、エヴァンは一瞬驚いたように目を瞬いてから、すぐに微笑んだ。
「なるほど。であれば、エマは読み書きの勉強をする立場に者の気持ちもわかるので、いっそうの適任だな。エマが物語を作り話すのを、俺が書きとれば良い」
「領主様が書き取る?」
「ああ。それであれば何も問題はないだろう?」
「つまり物語を作る間、領主様がそばについていてくださるのですか?」
「ああ、もちろんだ」
一拍の間。
エマは顔を上げ、身を乗り出すようにして真正面からエヴァンを見つめた。
「私、やります! そのロウさんという方のお話を、誠心誠意、子供たちが喜び、将来に希望を見出すような物語に、まとめてみせますわ」
「よかった。よろしく頼むな」
エマが物語を作ると決意した最後の動機はやや不純なものではあったが、無事に作家は決まった。瞳を輝かせるエマの様子を見て、エヴァンはほっとしたように微笑む。
と、そのとき。廊下から幾人かの揉めるような声が響いてきた。続いて、ドタドタという慌ただしい足音。
「いったい何事だ?」
エヴァンは控えていたギルバートに視線を向けるが、ギルバートもわからないといった様子で眉を顰める。エヴァンは椅子から立ち上がると、廊下へ出た。
すると、ちょうどダグラスがこちらへと向かってくるところだった。
「ダグラス、どうかしたのか」
「お騒がせして大変申し訳ありません、エヴァン様。ミッチェルがどうしても絵を見せるのが嫌だと言って」
ここまで走ってやってきたダグラスは息をきらし、手にしていたスケッチブックをエヴァンへと差し出す。その瞬間、ダグラスの背後から「あーっ」という声が上がった。
「ダメです、ダメですったら!」
駆け込んできたのはミッチェルだ。
焦茶色の短い髪が、くるくるとウェーブしている天然パーマの青年。歳は去年兵士になったばかりの一八歳。背は高いが、兵士のわりにまだ筋肉のつきが甘く、ヒョロリと細長いような印象がある。
エヴァンは彼の様子を見てから、フーッと一度息を吐き出した。そして、低く一声。
「ミッチェル」
「はいっ」
エヴァンの声に、弾かれたようにミッチェルはその場で立ち止まり、姿勢を正す。ミッチェルは使用人ではなく、ユレイト領兵士団所属の兵士だ。兵士にとってエヴァンは最高指揮官になる。使用人以上に、兵士は体育会体質なのが基本。エヴァンの命令は絶対が、兵士の掟である。
「ここがどこだか、わかっているな?」
「はい、エヴァン様の邸宅ですっ」
「そうだ」
言外に、弁えろと言っているのである。ミッチェルが静止したのを見て頷くと、エヴァンはダグラスから渡されたスケッチブックを開いた。その瞬間、ミッチェルはまた何か声をあげそうになったが、自分の手で自分の口を塞いで堪えた。
スケッチブックの表紙を捲ってすぐ、エヴァンの目に飛び込んできたのは、野山に咲く草花の写実的な絵だった。色はついておらず、画材は木炭だけ。それでも、描かれている花に美しい色合いを感じる、瑞々しさに溢れた、繊細で卓越した描写力だ。花の次には邸宅自体の絵、そして門の前に立つダグラスの姿。
建物のような構造物に歪みはなく、人体や人の顔の描写にも違和感がない。ミッチェルが描いているのは風景画が主であるが、全体的な絵の力量の高さを感じる。
「これは、本当にすごいな。ミッチェルにこんな才能があったとは知らなかった」
スケッチブックのページを捲り、次々に現れる絵を見ながら、エヴァンは素直に感嘆の声を漏らした。と、次のページを捲った瞬間、手を止める。紙面いっぱいに、さまざまな表情を見せるリリーの姿が描かれていたからである。
エヴァンが思わず顔を上げてミッチェルを見ると、彼は耳まで顔を真っ赤にしながら、自分の両手で顔を覆う。
ちなみに、スケッチブックには次のページも、その次のページもリリーが描かれていた。そのどれもが、リリーの日常のあるがままの姿をよく描きとっている。特に美化もしていないあたりが、ミッチェルがリリーに寄せる想いの強さを感じさせた。
どれも洗濯物を干していたり、掃除をしていたりと作業をしている姿で、描き手であるミッチェルに視線を向けている姿が一カットたりともない。つまるところ、リリー本人にも了承を得ずに描いている可能性が高い。
「ち、違うんですそれは。他意はなくて、ただ普段なかなか描かないものの、絵の練習をしていただけでしてっ。本当に、悪気はないんです」
顔を覆ったままミッチェルが早口で言い訳を述べ始めるが、仮に女性を描く練習だったとしても、同一人物しか描かないというのは、なかなか無理のある釈明である。
エヴァンは思わず笑ってしまった、それを誤魔化すように咳払いを一つ。スケッチブックを閉じてミッチェルに差し出した。
「何も悪いとは言っていないだろう。描くときに許可を得た方が良いのではないか、とは思うが。……ただ、見せてくれてありがとう、どれも素晴らしい絵だった。ぜひ教本に載せる挿絵を描いて欲しい」
「教本に載せる挿絵、ですか?」
返されたスケッチブックを守るように胸に抱きしめ、ミッチェルはどこか呆然とした様子で問う。エヴァンは、先ほどエマにしたのと同じような説明を、かいつまんでミッチェルへもする。
「そんな、僕なんかの絵で良いんでしょうか」
説明を受けても、いまいち実感が湧かない様子のミッチェルは小さな声で呟く。それに応える形で、エヴァンは大きく頷いた。
「実際にミッチェルの絵を見た上で頼みたいと判断したんだ。ミッチェルの絵には優しさが感じられるし、ひと目見て状況がわかりやすく、挿絵として最適だ。平時訓練はもちろん適宜休んでもらって構わないし、絵を描いてもらった分の特別報酬は出す」
「いえっ、僕は兵士としても全然お役に立てていませんし、特別報酬だなんて……」
「エヴァン様にここまで仰っていただいて、断るなんて言うなよ?」
ミッチェルが恐縮する様子を見せると、ダグラスは詰め寄るように言葉を挟む。と、ミッチェルは怯えるように軽く首をすくめ、おずおずといった様子でエヴァンを見た。
「あの……特別報酬などは身に余りすぎるので受け取れないのですが。もし僕が挿絵を描くことをお受けしたら、このスケッチブックに描かれていた『もの』のことを、今後いっさい思い出さないようにしていただくことは、可能でしょうか……?」
ものすごく遠回りした言い方であるが、エヴァンはもちろん、彼が何を示唆しているかはわかる。ミッチェルはリリーを描いていたことを隠したいのだ。
エヴァンは目を細めた。そして、誓うように片手を上げて掌を見せる。
「もちろん、挿絵画家の仕事を受けてくれるのならば、そこに描かれていた『もの』のことは誰にも言わない。俺自身も極力忘れるように努力しよう。教本作りは荘園の特別任務だからな、秘匿事案は必ず守る」
ミッチェルはパッと表情を明るくした。
「その任務、謹んでお受けいたしますっ」
「よかった。ではこの後ランチを挟んで、午後からさっそく仕事に取り掛かろう。ミッチェルは午後二時にまたここへ来てくれ」
「承知いたしました」
またしてもやや不純な動機ではあるが、こうして無事に挿絵画家も決まった。エヴァンはエマをランチへ誘うため、一度執務室の中へと戻った。その時、一部始終の様子を見守っていたギルバートが小声で問いかける。
「エヴァン様、スケッチブックには何が描かれていたのですか?」
エヴァンは、悪戯めいた眼差しをギルバートへと向けて片目を閉じ、唇の前に人差し指をたてて見せたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます