「ぶち壊して欲しい」 -1-

 エヴァンがノックの音で目覚めたのは、それから一時間後のこと。

 半ば夢現のまま、ゆっくりと上体を起こすと、ベッドサイドに置いてある、氷鉄でできたランタンへ手を伸ばした。寝る前に閉じたランタンのカバーを外すと、火炎岩の灯りが辺りを照らす。

 ノックの音が再度する。叩かれているのはエヴァンの自室の扉ではなく、そこから繋がっている執務室の扉であることがわかった。

 その瞬間に、エヴァンは扉を叩いているのがギルバートやネイサンではないことを悟る。もし緊急の用事があり夜中にエヴァンに部屋を訪れるとしても、彼らは執務室ではなく、エヴァンの部屋までやってくるからだ。

 眠気を振り払うように目を数回瞬いてから、エヴァンはランタンを手に立ち上がり、執務室へと向かった。

「どなた様ですか」

 身構え、問いかけながらも、廊下へとつながる扉を開ける。すると、扉の前に立っていたのは、ルイスだった。

「やあ、夜分遅くすみません。やっぱり起こしてしまいましたかね?」

「このような時間にどうなさったのですか。あ、どうぞ中へ」

 エヴァンは目を瞬き、軽く体をひいて、ルイスを執務室の中へと招き入れる。

 執務室の各所に設置された蝋燭には、今は火が入っていない。光源はエヴァンの持つランタンと、ルイスの持ってきた燭台だけだ。しかし、大きく取られた窓のカーテンを閉めていなかったため、明るい月光が部屋の中まで差し込んできていた。

 今晩は満月である。

 その冴え冴えとした月光に照らされたルイスを見て、エヴァンはすぐに異変に気づいた。彼の瞳がどこか異様な光を持っている。そして、微かなアルコールの香りがする。

 エヴァンは目を見開く。彼の左手には、シルバーのスキットルが握られていた。

「ルイス様、まさか酒を嗜まれているのですか?」

「ええ、毎晩の習慣のようなものでして。残念ながらエヴァン様の分は持ってきていないので、お裾分けをすることができないのですが」

「毎晩って、どうして……」

 エヴァンは、ミレーニュ村の教会にやってきたのが賢者だったということを知った時以上の衝撃を受けていた。聖職者が酒を飲まないというのは、この世界の常識だ。

 しかしルイスはエヴァンの様子を気にかけることもなく、執務室の中を見回した。そしてデスクの前に椅子を見つけると、そこに腰を下ろす。その椅子はいつもギルバートが使用しているものであった。

「酒は精神を堕落させるものだそうです」

 ルイスはそう言って笑う。笑顔であることは変わりないが、表情の作り方が、昼間や先ほどのディナーの時とはまったく違う。エヴァンは彼に、妙な迫力を感じた。

「ええ、誰もが知っていることです。賢者様が、そんなものを毎晩嗜まれていては、お力に影響があるのではありませんか?」

「まあ、短い話ではすみませんので、どうぞ座ってください。と、エヴァン様の部屋で私が言うのもおかしな話ですが」

 促され、エヴァンはデスクを挟む形で、いつも執務にあたる時に使用している椅子に腰を下ろした。正面からルイスを見ると、彼が明らかに酔っていることがわかる。

 ルイスはエヴァンの様子に満足げに頷いてから、スキットルに口をつけて、また一口あおった。

「少々、昔話をしますがね。自慢話ではないことをはじめに言っておきます。それで……私が祝福を受けたのは一四歳の時。それで賢者になったのは、一六歳の時です」

「一六歳で賢者に? 賢者はお歳を召している方が多いイメージだったのですが」

「そうですね。聖職者は蓄えた智慧による完全な実力社会ですから。しかもその実力の測り方も、見た目が変化するので非常にわかりやすい。髪の色を比べて、より白に近い者が偉いのです。一六歳で賢者になるのは当時の最年少記録であり、今なおこの記録は破られていないと聞きます」

「それはすごい。ルイス様の生まれ持ってのお力の強さを感じるお話ですね」

「ええ。好奇心旺盛で、何でも自分で調べないと気が済まないような性格が、どうやら智慧を蓄えるのに向いていたようで」

 ルイスは緩い笑みを浮かべる。純粋に尊敬の念を抱いたエヴァンだったが、ルイスが事前に自慢話ではないと宣言していたことが気になっていた。

 現時点では完全な自慢話である。

「つまり、私は祝福を受けてから二年で、意図せずして賢者になってしまった。これは私にとっては恐怖でした。何しろ、私は当時から王都を離れたいと思っていたからです」

「どうして、王都を離れたいと? 街並みは美しく、緑豊かで、とても素晴らしい場所であったと記憶しておりますが」

「エヴァン様はどれくらいの期間、王都で過ごされたことがありますか?」

「幼い頃に父に同行した時と、領主の任命を受けた時で、合わせても二〇日ほどでしょうか」

 エヴァンの返事に、ルイスは頷く。

「なるほど。そのような短期間の滞在であれば、確かに王都は美しい街でしょう。しかし私にとっては、あそこは言いようのない閉塞感を感じる場所でした。王都生まれは皆等しく聖職者になる。皆が同じ教育を受け、同じ価値観で同じものを信じ、同じものを目指している。王都にいる聖職者は一般的に、聖職者以外の者と接することはありません。知り合いすべてが聖職者になる訳ですが、画一的な彼らが退屈極まりなかった」

 そこまで話を聞き、エヴァンはようやく、どうしてこのような非常識な時間に、ルイスが自室を訪ねてきたのかを理解した。このような話は、他の者の耳がある場所でできるようなものではない。

 あまつさえ、同じ聖職者であるハンナやミカには聞かせられないものであろう。

「賢者になってしまったからには、もはや各地の教会へ赴任の命が出ることはない。俺は、通常の方法では王都を出ることが、叶わなくなってしまった。そこで、俺はせめて大賢者にならないように、もしできることならば賢者でなくなるために、毎晩の飲酒を習慣にしたのです。一六で賢者になって、五五の今まで大賢者になることはなかったので、酒はやはり、ある程度の効果は発揮したのでしょうね。しかし、ついた智慧を失わせるほどの効果はなかった」

 そこで一度言葉を区切ると、ルイスは晴れがましい笑顔を浮かべる。

「しかし賢者のままでも、長年の説得に加え、絶好の機会に恵まれ、こうして王都の外に出ることができるようになりました。問題にならないよう、隠れて酒を入手する苦労をし続けたかいがあったというものです。さすがに大賢者になっていたら、このようなわがままは通らなかったでしょうからね」

「ルイス様が飲酒していることは、ミカ様もご存知ないのでしょうか?」

「さあ、ミカくんは本当に無口な男ですからね。彼の目の前で飲んだことも、もちろん酒の入手をお願いしたこともありませんが、何となく察しているのではないか……とは思っています」

 エヴァンは「そうですか」と返事をしてから、しばし考え込むように沈黙した。そんなエヴァンの様子に、ルイスは目を細める。

「ここまでお話しすれば、私が何を言いたいのか、エヴァン様にはもう伝わっているでしょう。先ほどのディナーの場では、聖エリーゼ国の歴史を引っ張り出して、エヴァン様のやろうとしていることに反対いたしました。しかし、私自身の感情としましては、この国の根幹にある制度を壊せるものなら、ぶち壊して欲しいと思っているんですよ」

 そこでルイスはまた言葉を切り、天を仰ぐようにしてスキットルから酒をあおった。今の一口で中身をすべて飲み干した様子で、スキットルの口からポタリと雫が落ちる。

「ぶち壊す、ですか。随分と物騒なことをおっしゃいますね」

 ルイスの選んだ言葉は強く、そこに込められた感情の強さが伝わってきた。

 唇に落ちた雫を舐め取りながら、ルイスは再び、エヴァンを正面から見つめる。

「もちろん、突然すべてを破壊すれば、今までの社会は機能しなくなり、多くの障害が生まれるでしょう。何かを変化させる時には、必ず痛みが生まれます。その痛みは少ない方が良い。もしかしたら、変化させない方が良いのかもしれない。しかし、エヴァン様ならば、きっと何かを変えてくれるのではないかと……そう思い、非礼を承知で深夜に押しかけ、このお話をさせていただきました」

「今日お会いしたばかりの俺を、そんなにも買ってくださるのはどうしてなのですか」

 この世界で、聖職者はその名の通り、非常に神聖なものとして崇められている。賢者が夜毎に酒を飲んでいた、という事実は、もし公になれば、聖職者全体への、下手をすれば法王への不信にも繋がりかねない話である。

 エヴァンは、ルイスがそんな話を自分に打ち明けてくれたことの重みをしっかりと感じ取っていた。

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