「俺は許さない」 -2-

 突然の訪問者であった二人がいなくなると、邸宅内には平穏な静寂が戻った。

 エヴァンは息を漏らしながら、体から力を抜いた。そのまま部屋に置かれたカウチに腰掛ける。

「エヴァン様、私のために、大変申し訳ございません」

 エヴァンの前に立ち、リリーは瞳を潤ませながら、深く頭を下げた。

「リリーが謝ることは何もないだろう」

「しかし、これでリオン領からの支援は、もう見込めなくなってしまいました」

「なに、心配することはない。あれはあくまで、イライジャ様が感情のままに口走った事にすぎない。俺が忘れたふりをしていれば、なにもなかったかのように、荘園同士の関係は続くさ。最後に念押しをしたが、ユレイト領とて立派に聖エリーゼ国の一部としての役目を果たしている。イライジャ様もそれがわからぬほど、愚かではない。さあ、顔を上げてくれ、リリー」

 エヴァンに促され、リリーはゆっくりと顔を上げる。エヴァンは不安を抱いている様子もなく、ごく自然に微笑んだ。その笑顔を見て、リリーもまた、体にこもっていた力が抜けていくのを感じていた。

 と、リリーと入れ替わりになるように、今度はその横に立っていたロウが、無言で頭を下げる。

「ロウ……」

 エヴァンはそんなロウの姿に驚き、目を瞬かせた。短い付き合いしかないが、ロウの性格で、彼が他人に頭を下げることはないと思っていたのだ。

 ロウは無言のまま、しかし深く頭を下げたまま動こうとしない。そんな彼の様子を見つめ、エヴァンは息を漏らしながら、柔和に笑む。

「どうした。お前はすべきことをしたのだろう?」

「あのクソ野郎に謝ることはなに一つないが、俺のせいで主人に頭を下げさせることになってしまった」

「まあ確かに、己の主張を通すために暴力を振るうというのは良くない。拳を振るったことは反省すべきだが、俺の名誉を守るためにしたことなのだろう」

「そもそも、俺の望んだ格好が、主人の迷惑になるとは思ってなかった……俺の落ち度だ。どんな処分でも受ける」

 エヴァンは先ほどイライジャに「自身の使用人の処分は任せてくれ」と言った。ロウはそのことを示しているのだ。

 エヴァンは改めて、今は深々と頭を下げているロウの姿を見つめる。エヴァンはこの僅か数日ですっかり見慣れてしまったが、メイド服を着た男というのは不思議なものだ。当然、そんな格好をしているロウを雇っているエヴァンに、あらぬ噂や評判が立ってもおかしくはない。

 一般的な感覚で考えれば、本人が望んでいるとも思えないし、使用人の要望を受け入れる雇い主もそうそういない。イライジャが言ったように、エヴァンが少々偏った趣味を持っているか、それとも財政難で、男の使用人を女の使用人と言い張っていると捉えられるのが普通だろう。

 しかしその程度のこと、エヴァンには初めからわかっていたことだ。それを了承した上で、ロウを人目につかぬように邸宅の中に押し込めることもなく、昨日は町にまでも連れて歩いたのである。

「処分とはつまり、解雇とかか?」

 エヴァンの言葉に、ロウの体がビクリと震える。

 ロウはなにも、冗談でメイドになることを目指し、メイド服を着ている訳ではない。側からみてそれがいかにくだらないことであったとしても、ロウにとってはメイド服を着てメイドとして働くことが、人生を賭けるほどの夢なのだ。

 解雇という言葉に怯えるような彼の反応を見て、エヴァンは目を細めた。

「俺がイライジャ様に言ったことは気にしなくて良い。あの言葉は、あくまで場を収めるためのものだ。俺はロウが言っていたことが全面的に正しいと分かっている。なにも心配しなくて良い……もう、顔を上げなさい」

 エヴァンが促すと、ロウはようやく、ゆっくりと顔を上げる。

「怒っていないのか」

「ロウに怒ることは、なにもなかったと思っている。もし怒るなら、それはロウではなく、俺自身へ、だ。イライジャ様の行動を予測できていなかった」

 エヴァンはそう言うと、今度はロウからリリーに視線を移した。

「イライジャ様はロウに背後から抱きつこうとしたそうだ。ロウが女のメイドだと思ってやったんだろう。だが本人とバイオレット様のあの態度から言って、今回が初めてだとは思えない。彼はリリーに、過去、同様のことをしていたのか?」

 エヴァンに正面から見つめられ、リリーは戸惑うように数回瞬きをしてから、視線を床の上へと落とした。僅かにためらう様子を見せてから、口を開く。

「はい、不意をつかれて抱きつかれたことはあります。けれど、たいしたことはありませんでした。いつも、マリアンヌさんが守ってくださっていましたし……マリアンヌさんは、イライジャ様のあしらいが上手くて。今回、私がマリアンヌさんと同じようにイライジャ様の対応をできなかったことが、騒動のそもそもの原因だったと思っています」

 エヴァンはリリーの言葉の途中から額に手を当て、深く息を漏らした。

「ギルバート」

 エヴァンがそのポーズのままで呼びかけると、廊下からギルバートが部屋の中へと入ってきた。エヴァンは、ギルバートがそこに控えていることを予想していたのである。

「はい、こちらに」

「お前はイライジャ様の、リリーに対する行為を知っていたのか?」

「申し訳ございません、把握できておりませんでした。ことを荒立てないよう、マリアンヌのところで話を留めていたのでしょう」

「そうか」

 ギルバートの端的な答えを聞き、エヴァンも短く応える。そして、再度リリーへと視線を向けた。

「まず、今回の騒動の原因がリリーにあるなんてことはない。原因は当然ながら、イライジャ様の行動だ。それと、これからもし何か困ったことがあれば、すぐに俺かギルバートに報告してくれ。その相手がどのような立場の者であっても、我慢をする必要はない。良いな?」

「はい……あの、お客様にちょっかいをかけられるということを、よくあることだと思っておりまして。ご報告ができておらず、申し訳ありません。考えが至っておりませんでした」

 リリーは再び深く頭を下げる。

「悲しいかな、この国ではそういった行為が、珍しいことではないというのは、俺も分かっている。だが、俺は許さない……いままで気づかなくてすまなかった」

 エヴァンは最後の言葉を、眉を寄せながら、本当に申し訳なさそうに言った。そして、踵を返して入口に立つギルバートの元へと歩いていく。

「あれだけの騒ぎを起こして、またすぐにやってくるとは思えないが、あの人たちの厚顔さは計り知れないからな。今後もし彼らがやってきたとしても、決してリリーに近づけないようにしてくれ」

「かしこまりました」

 ギルバートにそう指示をすると、エヴァンはようやく表情を緩ませる。

「イライジャ様たちの、帰りの馬車を用意したのはギルバートか?」

「はい、騒ぎを聞きつけて、少しこちらの様子を拝見していたのですが、おそらく必要になるだろうと思いまして。とっととお帰りいただきました」

 ギルバートの言いように、エヴァンは低く笑い声を漏らす。

「アフタヌーンティーの準備の方はどうなっている?」

「コックが大急ぎで対応してくれまして、きっちり三人分用意してしまいました」

 エヴァンは頷くと、どこか浮かない表情のままのロウとリリーに視線を投げかける。

「ロウ、リリー、せっかくだから、応接間で共にアフタヌーンティーを楽しもう。客室の掃除も、しなくて良くなったし、な」

 主人からの規格外な提案に、二人は大きく目を見開く。

「そんな、お客様のために用意されたものを、私たちがいただくことなどできません。どうか、ご主人様お一人でお召し上がりください」

 リリーは慌てて手を振り言うが、エヴァンは軽く笑い飛ばしながら、先に歩き出す。それによって、二人が自分の後をついてくることを決定づける。

「俺一人で三人分など食べられない。残したら、せっかく頑張って用意してくれたベロニカに悪い。はやくおいで」

 リリーとロウは戸惑い、ギルバートを見る。すると、彼は微笑みながら頷いた。

「せっかくのエヴァン様からのご厚意です。受け取っておきなさい」

 ギルバートにも促され、二人は、今度はお互いに顔を見合わせる。

 その表情が困惑から喜びへと変化するのに、そう時間はかからなかった。

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