「名領主でいらっしゃいます」 -2-
エヴァンがユレイト領の領主に任ぜられたのは、今からちょうど一〇年前のことである。
ネイサンはその際に、ギルバートからの推薦でフットマンになった。リリーはユレイト領に来てから召し抱えられた。だがギルバートだけは、エヴァンが生まれた時から彼に仕えてきた。
エヴァンはルテスーン領主の次男であり、三番目の子として生まれた。そのとき、ギルバートはルテスーン領主の邸宅でフットマンをしていた。
通常、主人の子息の面倒は、ナースと呼ばれる、メイドの一種である女の使用人が行う。そのため、子供の頃のギルバートとエヴァンの接点は少なかった。エヴァンはギルバートをただのフットマンの一人としか認識していなかったし、ギルバートからしても、エヴァンはあくまで主人の次男という認識であった。
お互いの認識が変化したのは、エヴァンが一二歳になったころ。エヴァンは家庭教師によって行われる授業の合間を縫っては邸宅中のあちこちに現れ、使用人の働きぶりと仕事内容の把握、果ては各人の性格や好みまで把握しようとした。
結果、ルテスーン領主邸に仕える使用人のほとんどが、次男坊であるエヴァンに好意を持つようになった。
一三歳になる頃には兵舎にもよく顔を出すようになり、兵士に混ざって剣や弓の調練に参加した。一五歳には兵士団の一員として出兵するようになり、一七歳には騎士になった。
そんな、人格的にも優れながら文武両道を邁進するエヴァンの姿を、ギルバートは敬愛を持って見守ることとなる。
とはいえ、ルテスーン領主でありエヴァンの父であるエドガーも、兄であるエインハルトも、決してエヴァンに劣るような人物ではなかった。しかしながら、ギルバートはエヴァンの、身分に関わらず人に接していく態度に、強く惹かれていたのだった。彼のその資質は、生まれながらにして高い地位にある人物が持つには稀有なものであった。
エヴァン二〇歳の時、後に「イリ諸島ゴブリン大戦」と呼ばれる、一年半にわたる南方ゴブリンの大襲来が起こった。その戦いにルテスーンの騎士として参加したエヴァンは、尋常ならざる活躍を見せ、国中へ名を轟かせた。結果、毎年欠かさずに北方ゴブリンの襲来が起こる、ユレイト領の領主に任ぜられることとなったのである。
ユレイト領は当時、ただの荒野であると言って何の語弊もなかった辺境の地であった。辺境の地であることは今も変わりがないが、今の、まともに人が住める土地になったのは、この一〇年のエヴァンの尽力の成果である。
領主になることは名誉なことではあったが、かといって、そんな荒野の土地に飛ばされること自体は、決して諸手を上げて喜べるようなものではなかった。
当然、そんな場所について行きたがる使用人もいるわけがない。しかし、ギルバートはエヴァンがユレイト領へ向かうと決まったその日のうちに、ルテスーン領主にエヴァンへの同行を願い出た。
それが許可され、エヴァンはギルバートと、甥のネイサンとともにユレイト領へとやって来たのだった。
午前中はサンルームで昼寝をして遠征の疲れを癒していたエヴァンだったが、いまは食堂で、ネイサンによって給仕される料理に舌鼓を打っている最中だ。
牛フィレ肉のステーキを、上品なフォークとナイフ捌きで口の中へと運び、ふんだんに使われたワインの香りを堪能する。皿の脇にはハーブも添えられており、ワインの奥に潜むハーブの風味が、後味を爽やかなものへと仕上げていた。
そんなハーブの存在を感じると、エヴァンは庭でハーブを摘んでいたロウの姿を思い出す。
「ネイサン」
エヴァンは、空になった皿を片付けようとしていたネイサンへと声をかける。
ネイサンは亜麻色の髪と灰色の瞳をもつ青年だ。全体的な印象として非常に柔和な雰囲気を纏っている。顔立ちも男らしすぎず、かといって女っぽさがあるわけでもなく、どんな場所にいても、空気のように馴染んでしまうような存在である。
「どうかいたしましたか」
「たいしたことではないのだが、ネイサンはロウのことをどう思う?」
問いかけると、ネイサンはごく自然に笑みを浮かべた。
「変わった方だと思います。しかし、非常に有能な方です。リリーさんも仕事がかなり楽になったと言っていましたが、実を言うと僕の仕事も随分と助けられています」
「というと?」
「ロウさんは僕よりもよっぽど力持ちですからね。力仕事も嫌な顔一つせず請け負ってくださっていて」
「なるほど。ギルバートの人を見る目は間違いなかったということか」
エヴァンの言葉に、ネイサンは大きく頷いた。
「ロウの部屋はどうなっているのだ? まさかリリーと一緒というわけにはいかないだろう」
ギルバートは執事の特権として、執務室と兼用の自室を持っている。しかし、その他の使用人は男と女を分けての共同部屋だ。前任のマリアンヌは今までリリーと同じ部屋だったわけだが、ロウはあくまでも男だ。
「はい、僕とダグラスさんと同じ男部屋に入りました。はじめは、メイド服からの着替えを見るのは妙な気分になったものですが、今ではすっかり慣れてしまいました」
「ロウはダグラスを投げ飛ばしたと聞いているが、二人の間に問題は?」
ネイサンは目にした様子を思い出したのか、口元に手を当てて笑う。
「はじめのうちはダグラスさんが一方的にピリピリした様子でしたが、今はとても仲が良いですよ。時間を見つけては、ダグラスさんがロウさんに、手合わせをせがんでいるようです」
「そうか、それはよかった。部屋は手狭にはなっていないか?」
エヴァンからの問いかけに、ネイサンは驚くように目を瞬いてから、何度も大きく頷いた。
「むしろ広々と使わせていただいているくらいで、何も問題はありません。僕たちのような使用人にまでお気遣いいただいて、ありがとうございます」
「そんな恐縮するようなことではないだろう。この邸宅にも、部屋は他にもたくさんあるのだから。もし不都合なことがあったら、いつでもギルバートに言うといい」
「そんな、邸宅にあるお部屋はご主人様やお客様のためにあるものですから」
「滅多に使わないものを、大事に取っておいても仕方がない」
ごく自然なことだと笑うエヴァンだが、彼の発言と使用人への待遇は、この世界では極めて異例のことであった。
まず大前提として、通常、使用人の部屋は地階と呼ばれる地下に設置されている。その上で、男女は分けられていたとしても、ぎゅうぎゅうに詰め込まれるようにして、窮屈で不衛生な共同生活を送るものなのである。
だがこの邸宅では、地下にあるのは倉庫と食品貯蔵庫くらいで、使用人の部屋は存在しない。使用人部屋も使用人ホールも全て一階にあり、大きく取られた窓からは、いつでも明るい光が差し込み、新鮮な空気を吸うことができる。
そもそも使用人の数が少ないということもあるが、人数に対して十分な広さも確保されている。男部屋はネイサン、ダグラス、ロウの三人だけであるし、女部屋はリリーと、コックを務めるベロニカの二人だけだ。
その上、些細な人数の変化に対してまで細やかに使用人の様子を気遣うエヴァンは、世間一般からすれば、変人と呼ばれてもおかしくはない。
一四歳の時からフットマンとしてエヴァンに仕えているネイサンでさえ、エヴァンの今の言葉には、敬愛の情をいっそう深めずにはいられなかった。
「ご主人様、伺ってもよろしいでしょうか」
「構わないよ、なんだい?」
「ありがとうございます。僕はお仕えすること自体ご主人様が初めてで、他の使用人をめし抱えている方々が、どのように使用人と接しているのか、詳しいことはよく知りません。しかし、ご主人様ほど使用人を大切にしてくださる方は、この世に二人といらっしゃらないということは、理解しております」
「そんなことはないと思うが」
軽く笑って否定するエヴァンにネイサンは首を振り、言葉を続けた。
「ご主人様は、どうしてそこまで使用人を気遣ってくださるのですか? 実はギルバートさんから、ご主人様は一二歳頃からルテスーンの邸宅にいた使用人たちと、よく接するようになったと聞いたことがあります。何かきっかけがあったのでしょうか」
ネイサンからの問いかけに、エヴァンは少しだけ間を置いた。二口残っていたタルトをぺろりと食べてしまうと、再度カップを持ち上げて、芳しい香を放つ紅茶を口に含み、嚥下する。
「たいしたことではないのだが。きっかけは、父について王都へ行った時に見た光景だな。あれはどこの荘園のことだったか忘れてしまったが、王都へ向かう途中に通りがかった町で、小さな暴動のようなものが起きていたのだ」
「暴動ですか。それは物騒ですね」
ネイサンの相槌にエヴァンは軽く頷きながら、言葉を続ける。
「俺はすぐに警護をしてくれていた騎士たちに離されてしまったし、何がきっかけで起きた、どういう種類の暴動だったのかはわからない。だが、農民や平民たちがフライパンとか農具とかを持って、必死に兵士たちと戦おうとしていた。なぜかパンとか野菜とかも宙を舞っていてね。まずその、様々な人の入り乱れる状況が幼い俺には刺激が強かったが。もっとも印象深いのは、その暴動があらかたおさまった後だ」
話しながら、エヴァンは口元に笑みを浮かべる。
「暴動の後に道端に転がっている食べ物を、拾って食べようとしている、俺と年齢の近そうな子どもがいたのだ。どれも踏み荒らされてぐちゃぐちゃになっているものだったのに、だよ。そうしたら、それを見ていたどこかのメイドがやってきて、少年に綺麗なパンと、干し肉を与えていた。少年はその場で与えられた食べものを全て食べきってしまった。彼らには、上等な服を着た俺のことは、見えていないかのようだったよ。存在している場所が違うみたいだった」
「それで、使用人というものに興味が湧いたのですか?」
「そうだね。暴動で見えた、身分を超えての人としての言動、メイド自身も決して豊かではないだろうに、それでも他人に食べ物を与えようとする姿勢。そして、その場とは奇妙に隔離された自分。そんなものがすべてないまぜになって、身分とは何か、使用人とは何かと考えるうちに、俺の身近にいる者たちのことが気になりだした。そして人となりを知れば知るほど、身分というものがよくわからなくなったよ」
エヴァンの顔に浮かんでいた笑顔は、いつしかどこか切なそうな表情へと変化していた。主のそんな顔を見て、ネイサンは思わず言葉を返す。
「僕は、ご主人様にお仕えできることを、心から幸せに思います」
エヴァンはネイサンを見て、碧玉のような瞳を細め、嬉しそうに微笑んだのだった。
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