第3話

 ゐ尾市のハローページを調べると、市内に四宮という名字の家は3軒あった。2軒は架電に応じ、喜納子の家ではないことが分かった。残る一軒は常に不通で、希は実際に現地を訪れてみることに決めた。

 ゐ尾市までは車で2時間。息子は託児所に預け、夫には黙っての遠出だった。

 目的の家はどこにでもあるような一軒家だった。石の表札に『四宮』と刻まれたその家は、バブル前後に建てたらしく、味や深みのない物悲しい劣化の様相を呈している。郵便ポストを見ると、日焼けしたプレートに両親と思わしき名前と、喜納子の名前が記してあった。間違いない。ここが彼女の家だ。

 呼び鈴を押すと、室内からくぐもった電子音が鳴っているのが聞こえてくる。しかし、その音に反応する物音はなく、二度、三度、繰り返してもそれは同じであった。

 溜まりかねて四宮の名前を呼んでみたが、家の静けさを強調するだけで、いつまで待っても人が出てくる気配はなかった。

 諦めの溜息を吐くと、埃っぽい匂いが肺の中に充満した。

 踵を返し、立ち去ろうとした時、通り向かいの家から中年の女性が塀から顔を覗かせ、こちらを見ていることに気が付いた。女性は希に視線を送ると、辺りを見回し小さく手招きをした。

「あなた、あの家の知り合い?」

 女性の元まで行くと、彼女は小声でそう尋ねた。女性の目線はすべてを訝るような不快感で細く尖っていた。

 希が四宮 喜納子の名前を出し、10年前の事件に関して彼女を探していると伝えると女性は眉を大きく動かし、塀の影に隠れるよう、それとなく促した。

「あんた、そりゃ駄目よ。あそこの娘さん、死んでるもの」

 女性は小声を酷くかすれさせながら大きく手を打った。人の死を語っているにもかかわらず、彼女の身振り口振りはどこか楽しそうに見えた。

「え? 死んでる?」

「事件ってあれでしょう? 宗教に子どもを作らされたとかなんとかって……あなた、記者さん?」

「作家です。ノンフィクションの作家、」

 希は咄嗟に答えた。女性が眉を顰め、ノンフィクションと反芻する間に畳み掛けた。

「今度その事件について取材をしようと考えてたんですけど………その裁判がどうなったのか情報もないですし」

「ああ、裁判。負けたらしいわよ。決定的な証拠もなかったみたいだし、ちょっと言い分が無茶過ぎたのかもしれないわねぇ」

 喜納子もきっと同じことを考えていたに違いないと希は思った。身に覚えのない妊娠、失われた記憶と失踪。腕に残った痣と同じ形をしたシンボルを掲げる宗教団体。直線状に浮かび上がる推論は一つしかない。

「結局、子どもは自分で育てることにしたみたいだけど」

「お子さんが今どうしているのかご存じないですか?」

 そう尋ねた時、女性の口角が不気味に歪んだ。彼女は顔を突き出し、口元に手を当て先程にも増して神妙な面持ちで口を開いた。

「行方不明になったのよ。たしか、3歳の時。彼女半狂乱になって、近所中に尋ねまわって大変だったわよ? 警察も動いたみたいだけど、見つからず。死んだのもそれが原因よ。子供が居なくなったことを気に病み、自宅で自殺」

 以降、四宮の家には彼女の両親がひっそりと暮らしているのだという。

「彼女が子供を殺したって皆噂してるわ。子供を殺して、自分も後を追ったんだって……でも、私は違うと思ってるのよ」

「違う? 」

「その宗教が子供を攫いに来たのよ、きっと。あんまり騒ぎ立てたから、怒ってね」

 返答の言葉を上手く紡ぐことが出来なかった。

 口が乾き、唾液を飲み込もうとすると喉が痛んだ。

「あ、あの……その宗教団体の名前は?」

「モズの家とかなんとか言ったと思うけど………あなた、作家さんかなんか知らないけど、あんまり深入りすると危険よ?」

 自宅へと戻る車中、頭にはずっと女性が言った言葉がこびりついていた。女性の死亡、子供の失踪。そこに絡んでいる謎の宗教団体。


「手提げの名札が取れかかってるんで、治してあげてくださいね、望月さん。望月さん?」

 託児所に着いた希は保育士の言葉も聞かず、真っ先に息子を抱きしめた。かき付いてくる息子の腕の感触が強ければ強いほど、彼の出生に潜む底知れぬ闇を考えざるを得なかった。

 表面的な恐怖は希に躊躇いを与えた。それは一人の女性が対面するにはあまりにも大きな問題だった。宗教団体、そう呼ばれる一つの組織が闇の中に蠢き、それを裁断しようとする者に対してどういう仕打ちをするのか、巷に溢れる数々の事件を見れば分かる。

 しかし、彼女にはここで引き下がれるような退路はもう残されていなかった。

 四宮 喜納子を訪問した2日後、夫は息子を殴った。きっかけは詳細すら忘れるほど些細な息子の悪戯だった。

 反省するどころか、覚えたてのたどたどしい言葉で子供ながらに息巻く息子に、夫は鉄拳の打擲を与えたのだった。

 2発、3発と希が止めなければ、殴打は永遠に続くようにすら思われた。

 その夜、ベッドで小さくなった夫は震える声で希に囁いた。

「例えば、本能によって鎖のように繋がれた父性愛というものがあると思う……自分の息子であれば無条件で愛せるというような。ただ……あの子にはそれが感じられない。全く、全くないんだ。その感じが……僕が非常識なことを言っているのは分かってる。でも、でもこの気持ちを一人で抱えるのは無理だ……無理なんだ希。ねぇ、希……僕は、僕はどうしたらいい?」

 希に答えはなかった。彼女に出来るのは真実を明らかにすることだけだった。



つづく





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