托卵

諸星モヨヨ

第1話

 望月もちづき のぞみがその疑念を抱き始めたのは、夫のある発言がきっかけだった。

「違和感があるんだよ、諒介りょうすけに」

 夫の晴彦はるひこが言うのは、もうすぐ3歳になる息子―諒介のことだ。

 違和感。その言葉は二種類の意味を持っている。

 確信を隠匿し、曖昧にするための違和感と感覚的なものを明言するための違和感だ。夫の言う違和感とは明らかに前者であった。

 息子をあやす夫の眼は、いつも冷たく凝固し感情の揺らぎを失っている。違和感の正体はすぐにそれと知れた。

息子が自分の子ではないかもしれない、明言こそしないものの夫はそんな事を感じているに違いなかった。

 それが何を端緒としたのかは分からない。容姿は母親似ではあったものの、夫を格別拒絶するようなこともない。だからある意味で言えば、それは後者の違和感でもある。夫はその微妙な空気感を、言語化できない一つの感触として覚知しているらしかった。

 無論、不貞を働いたことなど一度もない。希にとって晴彦は人生で2人目の恋人であり、最初の恋人は高校時代の先輩だ。だから、諒介が夫以外の子であるという事は、物理的にもあり得ない話であった。

 しかしその疑念を払拭できなかったのは、彼女に一つ心当たりがあったからだった。


 希と晴彦が結婚したのは4年前、お互いが28の時だった。

 式を挙げたその年の夏。希は突如として行方不明になった。忽然と姿を消した彼女は一週間後、無事発見された。命に別状はなかったが、失踪している間の記憶は抜け落ちたかのように失われていた。一体何があったのか、まるで手掛かりはなく、日常の慌ただしさがやがて真相究明する気力を悩殺してしまった。

 ― 夫の話を聞いた時、希は嚥下困難な異物のようにその事件のことを思い出した。

 そんなはずはない。彼女は何度も自身の説得を試みた。しかし、それは何ら根本的な解決にはならなかった。疑念は肥大化し、じわじわと心身を蝕んでいく。最初は微小だったはずのノイズはそのうち、あらゆる時と場合を選ばず希の耳元で囁いた。

諒介が夫の子ではないかもしれない― その言葉を思い返す度、幸せな結婚生活が崩壊していく幻想が遥か地平の向こうで陽炎のように揺らぎ、彼女の心を苦しめた。


 夫に黙って、DNA鑑定証明書を出したのは心の平静を保つためでもあった。真実を知ることは最善の良薬となる。そのはずだった。

 鑑定書は数週間後、分厚い封筒と共に送り返されてきた。

『父子間の親子関係は証明できませんでした』

 遺伝適合率0%の円グラフと簡潔な一文だけがそこに添えられていた。最初、それを見た希の懊悩は筆舌に尽くしがたい。様々な思いが錯綜し、絶望は行き場を失って停頓した。

無論、夫には打ち明けられず、かと言って鑑定書を処分することも出来ない。希はその日のうちに、その鑑定書を裁縫道具箱の中へ隠してしまった。

 ――

真実を知ることは最大の良薬たり得るはずだった。だが、時として薬は毒にもなりうる。事実となった疑念はあまりにも強い力で希の日常を破壊しにかかった。

 いっそ泡沫(うたかた)の如く消えてなくなればいい、希は思った。

  夫にこの事実をどう打ち明ける?――

 真実を知った瞬間、全てが泡と消えれば、そんなことに思い悩む必要はない。だが、その後も世界は残り続け、希は問題の答えを出さなければならなかった。

 確かに自分に過失はない。それだけは胸を張って言い切れる。しかし、現に夫以外との子供がここに存在している。自分がいかに潔白を訴えたところで、夫はそれをすんなり受け入れてくれるだろうか。

 希望的観測や理想的な弁解のシミュレートをしてみたが、いくら理屈を捏ね回してみたところで、思いつく解決方法は一つしかなかった。

真実を明らかにする。

事実が解明されれば、きっと夫も納得してくれる。そしてその為には自分に過失がないこと、潔白を証明する為の証拠が必要であった。

証拠、それはつまり息子の父親の正体だ。

 希が人探しを始めたのには、凡そそういう経緯があった。



つづく


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