幸福の村

夢ノ命

第1話 【美は絶えず描かれている……】


 雄鶏が時を打った。


 草葉から私のほうへ首を突き出し、いつまでもそれを繰り返すのだった。

不意と鳴き止んだかと思うと、又突然、思い出したように鳴いてみせる。

それが単調に、しかし当人はさも愉しげとも言えなくはない、当人ならではの自信のある音楽――或いは声楽家の発声練習のようなものかも知れぬ……その単純な反復はこうにも彼の鶏冠を勇ましげに、かつ誇らしげに見せている。……


 私は或るステンドグラスの美しい、教会の方まで足を運んでみようと思って、その日も散歩に出かけたのだった。

 それは或る晴れた、風の柔らかな朝だった。


 私は宿屋の玄関口の重たい扉を開けて、古めかしい、簡素な木造りのバルコンに出て行った。バルコンのすぐ眼下には、ゆるやかな傾斜に果てしないまでに唐黍(とうきび)畑が拡がっている。それの尽きた遠方には、小さな村と、そのまわりの耕作地とが横たわっている。その小村は一寸(ちょっと)した森を横手に抱えている。小村の向こうは小高い山並だ。その山並は東へ東へとゆっくりした曲線を描きながら、見えない谷間へとその輪郭を落としている。またその先々に日当たりのいい山稜が不格好に二つ三つ続いてゆく。

 それらの東南に位置した、深くえぐれた山襞の間から、遠く湖が海のような拡がりを、青々として浮かべている。


私はいつものように、そのバルコンの上で、少しの間その湖を眺めた。

 湖面全体が何だか宙に浮かんだようになって、白々とした遠くの空へ、ぼんやりとそれとは見定めがたいほど溶け入っている。太陽はそんな湖の上から、輝けるままに輝きながら、高天(たかま)の方へ目を向けて、いかにも早くそこまで昇ってゆきたいという風に焦れているように私には感じられた。それが一層そんな日の輝きを眩しくさせているように見えた。


 私は帽子を深く被(かぶ)りなおし、バルコンの階段をゆっくりと下りて行った。

 バルコンの下には、いちめんに芝生が植えられていたが、私が其処に立つと、その芝生がもう大分伸びていた為に私の靴はその芝生の中にすっかり埋まって、そんな粗野な芝草の感触が私の足を満たしてくる。私は暫時じっと立ち止まって、そんな芝草の感触が足から徐々に私の全身に這い上がってくるのを、這うがままにさせている。……それから暫くすると、私はその芝生の上を歩きにくそうにしながら通り抜けかけたが、ふいとそのとき顔を上げると、私の目交(まなかい)に、丁度いまが盛りとばかりに橙色の花を咲かせている一綴りの灌木が飛び込んできた。

 

 私はそれに近づいて行った。

 その灌木は私が近づいて行くと、まるで私を歓迎するかのように、花の匂いを投げてよこした。


 「どうだ……何んとも好い花の匂いじゃないか……」


 私はそんなことを心の裡で呟きながら、それらの一続きの灌木の表面からお互いに顔を示し合わせたように自然のままに間歇(かんけつ)した、橙色の、大人の眸(め)ほどの花輪たちを、何かメルヘンティックな気持ちで見つめていた。


 そんな灌木の周りに、時々何やらふわりふわりと蜉蝣(かげろう)の透き通った羽のように繊細なものが漂っているなあと思っているうちに、それらはだんだんと増えて来だしたらしかった。私の目にもそれらが明瞭に映り出した。……


 それらは皆、蝶であった。色とりどりの不思議な絵具で描かれでもしたような彼らの羽は、ことに美しかった。そういった彼らの容姿は、「御覧……美は絶えず描かれている……」とでも代弁しているかのようであった。


 私は暫く恍惚として、灌木の茂みの其処此処でたゆたっている小さな蝶たちに、時も忘れて目を注ぎ続けた。……

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