僕のかわいい妖精姫は、婚約破棄に四苦八苦。

咲川音

第一章

1.運命の再会

 この世界にも、明け方に鳴く鳥がいるのだ。


 薄青い空気の中、身を起こす。眠気覚ましに窓を開ければ、氷の張った湖にさらされた風が入り込んで、肺の奥がキンと痛んだ。

 ジゼルはひとつため息をついて書き物机に向かうと、引き出しから一冊のノートを取り出す。


――今日も新情報はなし。近況だけど、前世を思い出したせいなのか数学でかなり混乱してる。こっちは十二進法だし、単位も全部違うからな。俺の受験勉強に明け暮れた日々は一体……。お前のほうは順調か? 悩みがあったらいつでも聞くからな。


 いつも通りの口調にくくっと笑って、その下の空白にペンを走らせる。


――お兄ちゃん、数学は元々苦手だって言ってたでしょ。こっちも新情報はなし。家族は相変わらずだけど、流石にもう慣れました。


 この国に生きてもう十五年が経つというのに、未だに日本語を綴っているときが一番しっくりくる。

 感傷を振り払うように表紙を閉じ、ジゼルは顔を上げた。


「そこにいるんでしょう、ミーナ」


 何もない空間に向かって呼びかけると、垂れ布の隙間から明かりが漏れるように、薄闇を裂いて光がこぼれだした。中から現れた羽がきらめきを払うようにはためいて――そこには真紅の髪の妖精が不機嫌そうな顔をして浮いていた。


「あのねえ、私はアンタの使用人じゃないのよ」


「いつも感謝してます。はちみつ入りのビスケット、今日は奮発しとくから。ねっ」


 ツンと尖った唇に気の強そうなアーモンドアイ。チューリップのような服をひらめかせた少女は、その大きさも相まって前世で好きだったバービー人形のようだ。味方のいないこの屋敷で、幼い子供が孤独を癒やすような気持ちで話しかけているうちにすっかり仲良くなってしまった。


 ノートを受け取ったミーナはまだ渋っているのか、意味もなく頭上を旋回している。


「たまには自分で渡しに行きなさいよね」


「いくら婚約者でもこんな時間に王子の部屋にいるのが見つかったら大変なことになるでしょ。それこそ婚姻が早められちゃう」


 言い返せなくなったのか、ミーナは瞬きのうちに姿を消した。今頃アルベルトの枕元に秘密の交換日記が届けられているだろう。


 遠くで足音が聞こえて、使用人が起き始める気配がする。きっと今日もこの部屋には誰も来ない。


「どうしてこんなことになっちゃったかなあ……」


 もう何度目か分からない呟きと共にため息をつく。メイド達の目をかいくぐって屋敷を抜け出す算段を整えながら、この数奇な運命の始まりに思いを馳せる。


 ✧˖°⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°


 モントシュタイン伯爵令嬢とこの国の王太子であるアルベルトの顔合わせは、あまり歓迎されない雰囲気のなか行われた。


「どうして伯爵家のご令嬢と? しかもモントシュタイン家など、身分が釣り合っていないのでは?」


「まあ、ご存じありませんの? ジゼル様は例の取り替え子なのですよ。家柄など関係ありませんわ」


 ただでさえ慣れない社交の場に放り出された七歳の少女に向けられる目はあまりにも厳しい。値踏みする視線に耐えかねて俯いていると、王子が一歩近づいて顔を寄せた。


「緊張されていますか? 顔色があまりよくありませんが……」


 漆黒の髪の奥で、深い青の瞳がやわらかい光をたたえている。ほんの三つ歳上とは思えないほど、彼は立場に見合った落ち着きを見せていた。


「挨拶も終わりましたし、ジゼル様に庭を案内して参ります」


 行きましょう、と差し伸べられた手にやっと息をついて、ジゼルは連れられるまま広間を後にした。


 大理石の廊下を抜け、薔薇の咲き誇る庭園に出るまでの間にも、すれ違う使用人たちは不吉な物を見たように顔をしかめる。その様子に気付いたのか、アルベルトは振り向いて機嫌を取るような声音で提案した。


「池の方に行ってみませんか。水鳥がたくさんいて可愛いですよ」


 小さく頷くと、微笑んで案内してくれる。その顔があまりに優しかったから、ジゼルは郷愁に似た切なさで胸をいっぱいにした。


「アルベルト様、あの建物はなんですか?」


 輝く水面の向こうにそびえ立つ尖塔を指さす。レンガには蔦が絡みつき、どこかおどろおどろしい雰囲気を放っていた。


「ああ、昔はあそこに罪人を幽閉していたんですよ。今は――使われていないはずです」


 彼は話を打ち切るように、「ほら、あそこに鴨が泳いでいますよ」と視線を誘導する。ためらいなく肩に触れる手に、ジゼルは物騒な建物のことなど忘れドキドキと鼓動を早めた。


 慣れない感情をごまかすように足早に水際へと近寄る。少し身を乗り出すと、風にちらちらと揺れる光の向こうで、長い髪をなびかせた少女が眉を下げていた。


――アルベルト様は気味が悪いと思わないのかしら。


 ふわりと巻かれたそれは、シルクを冬の夜空で染めたような不思議なグラデーションをしている。戸惑いに瞬く紫の瞳は、左目にだけ浮かぶ白い光が三日月のように見えて、見る者に彼女の異端さを強調するばかりだった。


 妖精の取り替え子。王族に嫁げるほどの特別な立場だと決めたのは城の人間なのに、ここでも奇異の目で見られるのなら、ジゼルの居場所はこの世界のどこにもないのかもしれない。


「何か面白いものでも見つけましたか?」


 熱心に水鏡を覗き込んでいるのを勘違いしたのだろう、アルベルトがゆっくりと近づいてくる。


「いいえ、なんでもありませんわ――あっ」


 何もないところを見つめていたと不気味に思われたら困る、と勢いよく振り向いたのがいけなかった。ぬかるんだ土に靴をとられ、あっという間に身体が傾く。


「ジゼル様!」


 声が聞こえるのと、冷たさに心臓が跳ねるのは同時だった。瞬間的に身体が縮み上がり、水面に叩き付けられた衝撃が広がる――いや、そんな高さから落ちていないはずだ――この痺れはもっと遠い昔、どこかで――


 と、ザンと何かが飛び込んで目の前に泡が広がった。王子が助けに後を追ったのだ。陽光の中をゆっくりと立ちのぼる細かな粒は、目の前にかけられていた薄いベールを持ち上げられるようだった。腕を伸ばすアルベルトと目が合う。必死に掴もうともがくこの手を、どこかで、どこかで。


 二人の身体が持ち上げられる。遠巻きに見守っていた護衛が駆けつけたのだろう。永遠のようだったが時間にして数十秒もなかったはずだ。突然酸素の逆流する肺に激しく咳き込みながら、ジゼルはもう一度生まれ直したような驚愕に呆然と座り込んでいた。


「つぐみ! つぐみ!」


 引き上げられた王子が叫んでいる。何かを探すように地面を這い、パニックの中ただ一人の名前を呼び続ける。つぐみ。……ジゼルの前世の名前。


「お兄ちゃん……?」


 呟いて、よろよろと王子に近づくと震える身体にしがみついた。


「……つぐみなのか?」


「うん――お兄ちゃん」


 呆気にとられた様子の護衛に構わず、前世の兄妹は再会を果たす。奔流のように押し寄せる記憶に流されまいとするように、二人はただ強く抱きしめ合っていた。

 

 ✧˖°⌖꙳✧˖°⌖꙳✧˖°


「とりあえず状況を整理してみましょうか。ええと、アルベルト様」


「かしこまらなくていい。流石に話し声までは聞こえないだろう」


 言いながら彼は遠巻きに見守っている使用人たちの方を振り向く。


 あの顔合わせから数日後、ジゼルは改めて登城し、草花に囲まれたガゼボで王子と向かい合っていた。


「最初にもう一回確認させて貰っていいか? ジゼル・モントシュタイン嬢、あなたの前世について」


「橋本つぐみ。神戸に住んでた。死んだのは高校卒業直前だったから、えーと、十八歳か」


 その答えに王太子はぐしゃりと眉間に皺を寄せ、泣き出す前のような顔で笑った。


「……本当に、つぐみなんだな」


 噛み締めるように呟いて、


橋本楓真はしもとふうま。大学二年生だった。――あの時は助けてあげられなくてごめんな。苦しかっただろ」


 懐かしい口調でそんなことを言うから、涙に声が詰まってしまう。


「あれはっ、事故で……お兄ちゃんだって、こうやって、死んで……」


 温泉旅館に向かう途中だった。つぐみの推薦合格が決まったお祝いにと母が計画してくれたのだ。


 楽しいだけの道中、車の揺れにうとうとと微睡んでいたつぐみを起こしたのは、内臓が飛び出るほどの背中の衝撃だった。母の悲鳴が耳をつんざいた。


 そこからのことはよく覚えていない。激しい痛みを自覚した瞬間視界が回転して、恐ろしい浮遊感ののち水音が聞こえた気がする。状況的に追突された勢いで欄干を突き破ってしまったのだろう。


 薄れゆく意識の中、視界の端に、兄が手を伸ばしているのが見えた。それがつぐみとしての最後の記憶だった。


 ――私もお兄ちゃんも、あのまま死んじゃったんだ……


 アルベルトは席を立って、しゃくりあげるジゼルをさりげなく隠す。遠い遠い幼い頃そうされたように頭を撫でられ、ゆっくりと気持ちが凪いでいった。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「この前、助けてくれてありがとう」


「……ああ。あのあと大丈夫だったか?」


 もう「ジゼル」が淡い気持ちを抱いたアルベルトではなくなってしまったけれど、この優しい家族に再会することができてよかったと心から思う。


「全然。お父様もお母様も手が付けられないほど怒って、散々な目に遭った」


 ――普段は目も合わせないくせに、こういう時だけ関わってくるんだから。


 付け加えた言葉に、アルベルトは複雑そうな顔になる。


「そっちの家のことは風の噂に聞いてるよ。その、家族仲があまり」


「良くないどころじゃないよ。私、離れの屋敷に住んでるもん」


 記憶が戻る前はこういう事実一つ一つに悲しくなっていたが、十八歳のつぐみを思い出した今となってはほぼ他人事だ。ひどい家庭環境だなぁなどと客観的に見れてしまう。


「まあ仕方ないよね。実の子を奪われて、代わりに妖精なんか托卵されたら誰だってねぇ」


 ――それよりお兄ちゃん、あまりくっついてると不審に思われるよ。


 使用人の視線を感じて座るように促す。今やるべきは伯爵家の悲劇を嘆き合うことではなく。


「ところで、私たちが婚約者同士になってしまった件なのだけど」


 アルベルトはため息をついて額を押さえた。


「記憶が戻ってからなるべく考えないようにしてきたけど……いよいよ向き合わなきゃならないのか、この問題に」


 血縁関係があったのはあくまで前世の話で、この世界で婚姻を結ぶこと自体はなにも問題ないのだけど、互いに兄妹としてしか見られない今、本能が拒絶してしまう。


 更にアルベルトは将来この国の王になる人間だ。王妃の務めは彼の血を引いた世継ぎを儲けること。取り替え子――通称「妖精姫」を妻に迎える場合、側室を持つことは許されておらず白い結婚で誤魔化すこともできない。


「今から国王のところに行ってひと暴れしたら上手いことクビにならないかな」


「本物の首が飛ぶかもな。……冗談はさておき、妖精姫は身分や素行に関係なく王妃にするという決まりになってるんだ。法を変えれば何とかなるかもしれないけど、まあそれも難しいだろう」


「めちゃくちゃな国だなぁ……こうなったら夜逃げでもするか」


「妖精姫を逃がしたとなったら一族郎党処刑になるぞ、多分」


「――両親はともかく、最近生まれた弟は可哀想だよね。赤ん坊だし」


 あっという間に策が尽きてしまう。国のしきたりを前にして子供ができることなど無いに等しい。


 アルベルトは気を取り直すようにふーっと長く息を吐いて、背もたれに寄りかかった。


「婚姻はつぐみが十八歳になってからだ。まだ猶予はある。諦めずに婚約解消の手立てを探そう」


「うん」


「そうだ、くれぐれも人前で王子と婚約解消したいなんて言うんじゃないぞ。王家への反逆に受け取られかねない」


 定期的に婚約者同士のお茶会と称した作戦会議を開くことを約束し、二人は席を立つ。エスコートの手を取りながら、ジゼルはずっと気にかかっていたことを呟いた。


「お兄ちゃん、ごめんね。こんなことなら思い出さない方が良かったよね」


 ――私が池に落ちたせいで。


 あんなヘマをしなければ、彼の頭を悩ませることもなかっただろうに。


 申し訳なさに俯くジゼルの頭を、まだ子供の手がくしゃくしゃとかき回した。


「気にするな。寧ろこのタイミングで助かったよ。もし結婚後に記憶が戻った、なんてパターンだったらもっと悲惨なことになってた」


 そういえば、この兄は昔から妹思いの人だった。花瓶を壊して大泣きするつぐみを見れば自分が割ったと嘘をつき、またある時は母にこっぴどく叱られたつぐみを部屋に呼び寄せ、大事なゲーム機を貸してくれた。宿題が分からなくて泣きつけば丁寧に教えてくれた。


 前世では照れて素直に言えなかったけれど、つぐみは、そしてジゼルはこの兄のことが大好きだったのだ。


「お兄ちゃん」


「うん?」


「なんかややこしいことになっちゃったけど、私、またお兄ちゃんに会えてうれしいよ」


「……俺も。つぐみと会えてうれしいよ。困ったことがあったら遠慮しないでいつでも言えよな」


 アルベルトには幸せな結婚をして貰いたい。今世こそ好きな人と寄り添って長生きして欲しい。手立てもなく、不安しかない現状だけれどただ強くそう願った。

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