第52話 女の言い分

 牧野を残して三人は部屋を出た。どうしてそばにいて上げられなかったのとみぎわが室屋に訊ねた。すると牧野には暫くは父親がどう云う者なのか考えさせれば良いと言ってそこで別れた。

 父親像か、と波多野とみぎわは室屋の後ろ姿を暫く見詰めた。

「あれでいいのか」

「今わね」と軽くいなすように言った。

「その内に落ち着いて来ると思う、聞くだけ聞いて言うだけ言ったから」

「本当に言うだけ言ったつもりなのか。何だか重い足取りのように見えるけれど」

「いえ、彼女なりにしっかりと大地を踏みしめているのよ」

「そうかなあ」

 先ず療治さんは彼の部屋へ押しかける前に、あなたは子供について最終的には両親が子供を引き取ったからと言った。だけどあれを多美は勘違いして、あの女の良心だと思って受け取った。だから多美にしてみれば良心の欠片があの女にあるのかと云っているのよ。

「あの時はそんなに混乱していたとは思えないが……」

「多美もそうだけど、あなたも双方への肩入れの仕方が違うからあんな勘違いな言葉が飛び交っても気が付かなかったのが可笑しかったけれど、まあ、いずれまたあの部屋を訪ねるでしょう。その時はもうお笑いぐさになってるから、それまであの二人には関わらない方が良いわよ。あなたも難しい問題を抱えているようだから」

「俺にはそんなもんはないよ」

「嘘おっしゃい祭りの日にそれが解ったわよ」

 中々鋭い目付きをするところを見ると、紗和子の何を知ったと云うのだろう。知りたいが聞くのが怖くてそのまま家路に就いた。


 牧野の不祥事が発覚した。いや、偶然に向こうから飛び込んできた。その相手を多美のお寺で受け止めたのはみぎわだ。彼女は紗和子も受け止めてくれたのだ。でも子供まで居る以上はこのまま曖昧に出来る問題じゃあない。これは牧野と二人で決める問題だが、その橋渡しはあの女が全く知らない俺の方が良いような気がすると、波多野は独りで近江八幡へ向かった。

 失業中と云うからにはあの女は実家に居るのか、それともこっちで就職活動をしているのか。しかし休みには娘に会いに帰っていると聞くから居るだろうと列車に乗った。

 今年の梅雨入りはどうだが分からないが、この日も晴れた青空を一杯に広げて大盤振る舞いの天気だ。快晴でスッカリ田植えの終わった緑の近江路を列車は快走していた。

 あの女について波多野は、蚊帳の外に置かれていた。受付嬢の時は会社を抜け出せないし、そうこうしているとまた消えてしまった。今度は失業中だから今なら会える確率が高い。牧野もあの女も表面上はいがみ合っても子共を巻き込むのは良くない。そこまでするのには矢張りまだ牧野にもあの女にもこだわりが有るからだ。

 牧野が大学生活の大半を棒に振らされた相手が、今は手の届くところにいる。となれば今後の為にも話をハッキリさせておく必要があった。牧野の場合は本人に云わすと、あれほどの信頼関係を築ければ後は黙っていても、余程の不祥事でもなければどってことはないはずだった。それが二、三日ほど空けただけでスッカリ考えが入れ代わるものなのか。牧野をあれほど卑屈な人間にした根幹に関わる女を、波多野はどうしてもこの目で確かめたい。

 それに牧野は初仕事で久し振りに会った恨み骨髄の女を、先輩より事情に詳しいはずの彼奴あいつがその変化を見抜けず嘆いていた。それが波多野には、あの女を何処まで深く知っていたのか理解しがたい牧野の一面だ。

 列車は近江八幡に着いたが、ここから先は室屋の実家のお母さんから彼女が聞いて書いてもらった簡単な地図が頼りだ。しかし実際に照らし合わすと、どう歩いて良いものか途方にくれた。とにかくあの女の両親が託児所へ申し込んだ住所を手掛かりに歩き出した。

 改札を抜けて表に出ると広い駅前のバス停に路線バスが止まり、その向こうには空車のタクシーが並んでいる。その駐車場を囲むロータリーを抜けるといくつかの店が建ち並び大きなショッピングセンターの建物が最初に目を惹いた。とにかく駅からそう遠くないが初めて来た町だから、駅前に待機しているタクシーに町名を言って乗った。タクシーがロータリーから外れても整然とした町並みが続いていた。なんせ列車から見える風景は一面の田圃ばかりだから驚いた。

 タクシーは琵琶湖に向かって走り出して十分もしないで目的の町名で降ろしてもらった。降りしなに番地を告げると、次の角を曲がった辺りだと言われて歩き出した。

 流石に裏通りを歩くと一軒家が多くて、歯抜けのように田圃がポツンと買い手を待つようにあった。やがて住宅街を抜けると急に今度は逆に田圃が点々と広がっていた。その手前に一軒の兼業農家なのかモルタル作りの新しい家だが、庭にはトラクターが不似合いに置かれていた。庭と道路が曖昧な処にある門柱には大崎の表札が嵌っていた。そこから数メートル入った先が玄関になっている。

 呼び鈴らしき物がなく、仕方なく鍵の掛かってないガラス戸を引いて呼び出した。此の辺りの風景とは不釣り合いな都会風の女性が出て来た。その切れ長の目を見て此の人だと直感して、牧野の友人で波多野と名乗ると彼女は少し身構えた。

「牧野とはもう関係ありません」

 と突き放すように言われた。

「でも子供が居ると判ればそうはいかないでしょう」

 その辺の話を牧野には云わずに友人として知りたいと申し入れた。奥からお客さんなのと云う声がして彼女は慌てて、牧野から頼まれたのでないのならお話をしても良い、と子供を任せて表へ出た。



 

 

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