「結局こうなるんなら、あの場で私を押し出した意味がないじゃない」


 昼を過ぎ、もうそろそろ太陽が西に傾き始めるかという時分。


 殯屋もがりやに招かれた緋蓮ひれんは、ブスッとした顔で呟いた。


「あの場で見るのと今見るのとでは意味が違おうて」


 そんな緋蓮の前に立つ亀覚きかくも、緋蓮と似たり寄ったりの渋い顔をしていた。公の場で顔を合わせる時に纏っているそれぞれの立場に見合った他人行儀な雰囲気を二人して脱ぎ捨てているせいか、互いの言葉は容赦なく本音とトゲを剥き出しにして相手に向かって飛んでいく。


「結局見るのは同じ死体でしょ? どうせ見るなら現場でしっかりと見ておきたかったわ。思念だって現場の方がより濃く残るだろうに。どうせもう金玄寺こんげんじの手勢に綺麗サッパリ片付けられちゃったんでしょ?」

「現場をあのまま残しておけるほど肝が据わった人間が上層部におったら、月天げってんはもそっと風通しが良くなっていようて」


 亀覚の物言いは亀覚自身も現場の対応に不満があると言っていた。かといって緋蓮をあの場から退避させたこと自体は間違っていないと思っているらしい。


「私と玲月れいげつをあの現場の中心にいざなっていれば、今頃事を成したあやかしの居場所くらいは掴めていたと思わない?」

「いかにわしといえども、孫のような年頃の執生しっせい様をあのような凄惨せいさんな場所へ誘えるものか」

「ちょっと待ってよ、亀覚が後見を務めてるのは私じゃない。どうしてそこで玲月になるのよ」

「まぁおぬし迦楼羅カルラ様じゃからな。下手に不浄に触れさせて何か事が起きても困るわな」


 緋蓮の不服申し立てに亀覚はあくまで飄々ひょうひょうと答える。それに緋蓮はツンと明後日の方向に顔を背けることでさらなる不満を示した。


 ──なによ、真っ先に私を現場から連れ出すことを優先したくせに。


 心を許した気安い立場にいるから、互いに非公式の場では改めた口調も態度も忘れてこんな悪態をつきあってしまう。だが亀覚が内心で誰よりも緋蓮を案じ、己の孫を思うかのように緋蓮の心を思いやってくれていることを緋蓮はきちんと知っていた。


 月天の実権を握る大僧正の一人である亀覚は、迦楼羅である緋蓮の後見人だ。緋蓮が迦楼羅の器として見出されて月天に連れてこられた当初から緋蓮の面倒を見てくれている人間であり、月天に数多散る金玄寺の子院の中でも筆頭格である一乗院いちじょういん貫首かんじゅを長く務める人物でもある。


 一乗院貫首である亀覚が後見ということは、そのまま一乗院が緋蓮の後見についていることと同義だ。逆に一乗院側からしてみれば、迦楼羅と縁を持つことで寺の格をさらに上げることができる。


 肆華衆しかしゅうと後見寺にはそんな関係性がある。そのために肆華衆の後見をどこの寺が務めるかということは、肆華衆が代替わりするたびに揉める火種でもあるらしい。


 だが亀覚が緋蓮に対してそんな思惑を見せたことは一度もなかった。どこかにそんな思惑を抱えてはいるのかもしれないが、少なくとも亀覚は緋蓮を『緋蓮』として生きる生身の人間として思いやってくれている。他の一乗院の人間もみんなそうだ。


 ──私は、恵まれている。それを私は、分かってる。


 その心に触れるたびに、緋蓮はどこか落ち着かないこそばゆさを感じる。


 同時に、どうしても埋められない心の隙間も感じていた。


「今この殯屋に納められた遺体は、穢れを清められ、荼毘だびに伏される直前の状態になっておる。わしも一度改めさせてもらったが、あの状態ならばぬしが目にしても問題なかろうて」


 そんな心遣いを今も垣間見せながら、亀覚は緋蓮の案内あないを務めていた。チラリと肩越しに向けられた視線には、確かに同じ『人間』を見る温かさがある。


「どうせお前さん、ゆっくり亡骸と対話したいと言い出すのじゃろうて。葬儀の場では、とてもじゃないが対話は無理じゃからな。わしの威光に物を言わせて人払いはしておいた。存分に話すが良い」


 その相反する感情に今も揉まれていた緋蓮は、とっさに返す言葉にきゅうした。


 結局絞り出した言葉は、モソモソと緋蓮の口の中に消えていく。


「……あんな場面に行きあっておいて、知らんぷりを決め込んでただ送り出すなんて、できるはずがないじゃない」


 ──この隙間風に似た感情は、できれば亀覚や一乗院のみんなには知られたくない。


 五つで意味も分からないまま親と引き離され、見知らぬ土地に連れてこられた緋蓮にとって、亀覚は祖父のような存在だった。一乗院の面々は、緋蓮にとっては家族に等しい。


 ──そういえば、一乗院のみんなが向けてくれる眼差しも、三種類のうちのどれでもないや。


 そんなことを考えていたら、ふと今朝のことを思い出した。金堂こんどうで遠目に出会った青年に不可思議な視線を向けられた時のことだ。


 緋蓮を身内のように思ってくれている一乗院の面々は、緋蓮を『迦楼羅』ではなく『緋蓮』そのものとして見てくれる数少ない存在だ。そんな一乗院のみんなが緋蓮を見る目はいつも温かくて、儀式中に向けられるような嫌な視線はひとつもない。居心地の悪さなど、感じたこともなかった。


 今朝金堂で相対した青年の視線も、決して不快なものではなかった。


 だというのになぜ、緋蓮はあんなにも居心地の悪さを感じたのだろうか。


『不快でない』と『居心地が悪い』は、同じ視線の中に同居できるものなのか。


「着いたぞ。ここじゃ」


 答えはすぐに見つかりそうで、まったく見つからなかった。


 考えに沈んでいた意識が亀覚の言葉によって引き上げられる。はっと顔を上げれば延々と続いていた階段の先にようやく扉が見えていた。


 月天を囲む山の中でも一際険しい崖際にへばりつくように造られた階段の先には、小さな小屋が立てられている。月天の中で不審死した人間が検死のために一時仮置きされる場所……殯屋だ。


 ──月天は町全体が聖地だから、より『死』という不浄を遠ざけるためにこんな場所に建てたんだろうけど……


 殯屋の下に地面らしき地面はなく、殯屋は全体の半分を崖にめり込ませるような形で存在している。先程から崖に刻まれた階段をひたすら登り続けていた緋蓮だが、時を追うごとに緋蓮の感情は『よく職人衆はこんな所に建造物を造れたな』という一点に収束しているような気がした。緋蓮が普請を命じられた職人衆だったら、できるできない以前に命じた人間の正気を疑っている。


 そんなことを密かに考える緋蓮の前で、亀覚は質素な木の扉に手をかけた。人の訪いが少ないせいで手入れもあまりまめにはされていないのだろう。亀覚が全力を込めて引いても、扉は軋むばかりでなかなか素直に開いてはくれなかった。


「ぬぅ……っと! 本当に年寄りには優しくない造りだわい」


 しばらく亀覚が格闘すると、扉はようやく人が一人すり抜けられる程度に開く。その隙間から滑り込みようにして中へ入った亀覚は、扉脇の空間へ身を寄せると後ろ手に緋蓮を手招いた。


 それを見た緋蓮は、意を決すると亀覚の真似をするように殯屋の扉をくぐる。


「お、お邪魔……します」


 囁いた声が、思ったよりも大きく反響した。


 殯屋の中は、外から見た以上に広かった。外から見ると建物が岩にのめり込んでいるように見えたが、実際の所は崖の岩をくり抜き、平面を削り出した上に小屋を立てることで重心を支えていたらしい。


 削り出した岩肌をそのまま奥壁として利用した小屋に窓はなく、四隅に立てられた燈明によって照らし出された小屋の中は薄闇がはびこっていた。床は板敷きだが、下の岩盤から冷気が上がってくるのか小屋の中の空気はよどんだまましんと冷えている。奥壁の前につつましやかに整えられた床の間には香炉が乗せられていて、死者を弔うための線香が細く煙を上げていた。


 ──確かにここは、死者のための空間だ。


 履物を脱いで板間に上がった緋蓮は、部屋の中心に並べられた亡骸に視線を落とした。


 あの場では床に広がった深紅にばかり目が行っていたから気付かなかったのだが、事件に関わった遺体は二人分あったらしい。それぞれ布団に寝かされた亡骸は、枕に頭を預けてはいるが掛布団は掛けられていなかった。清められた亡骸にもう鮮血の赤色はなく、死装束と相まって紙のような白さだけが亡骸を染め上げている。


 二体の亡骸の足元まで歩を進めた緋蓮は、一度足を止めると亀覚を振り返った。扉の前で足を止めたまま緋蓮を見守っていた亀覚は、その視線の意味を察して口を開く。


「あの時、わしも朝課のために内陣の御仏に向き合っておったで、直にこの二人が落ちてくる様を見ておったわけではない。最後列に座しておったうちの見習いが言うには、二人が落ちてくることに気付いた次の瞬間には床に叩き付けられておったということじゃ。ゆえに、何か仕掛けがあったのか、本当にあの時空から落ちてきて天井を突き破ったのか、真偽のほどは分かっておらぬ」

「……最初に悲鳴を上げたのは、誰だったの?」

「こやつらが叩き付けられた床の、ちょうど隣に座っておった者じゃな。返り血を派手に浴びて錯乱しておるらしい。話を聞くことは難しかろう」

「二人とも床に直撃だったの? 巻き込まれた人は?」

「幸いなことに、二人ともが通路に落ちた。壊れた天上の破片も、まるで居並んだ人間を避けるかのように落ちたらしい。どちらも直撃を喰らった者はおらぬ。あれだけの騒ぎになったのに、怪我人はいなかったそうじゃ」


 緋蓮との付き合い長さから飛んでくる質問もある程度予測ができていたのだろう。緋蓮がどの問いを投げても亀覚の答えは滑らかだった。


 一通り訊きたいことを訊けた緋蓮は、もう一度亡骸に視線を向ける。


 金玄寺の高い天井を突き破って落下し、あれだけの深紅をまき散らしたというのに、亡骸は五体満足で服の上からは目立った外傷も見つけられなかった。亀覚が緋蓮の検分を許したと聞いた時点で半ば分かっていたが、あの凄惨な現場からは想像もつかないほど亡骸は綺麗だ。血の気を失って色が白すぎることを除けば、ただ眠っているだけのようにも見える。


 ──どうやって殺されたのか、その方法が見ただけでは分からない。


 死装束を脱がせたら案外中は分からないのかもしれないが、さすがにそこまでのことを緋蓮がやるのは気が引ける。


「……医者の検分の結果は?」

「目立った外傷はなし。刺殺や絞殺ではないそうな。ただ、落下する時に全身に強い衝撃が加わっておるせいで、その点での損傷はあると聞いておる。しかしその衝撃は生きている間に加わったものではなかろうというのが医者の見立てじゃ」

「それだと、あの大量に撒き散らされた血痕に説明がつかないんじゃない?」

「それも医者が掃除の前に現場を確かめたそうじゃが、血はこの二人の体からあふれたものではなく、また別途に用意されたものではないかという見立てがなされたそうじゃ。二人分の血液より、明らかに量が多かったらしい」


 亀覚の言葉を受けて、緋蓮はもう一度考えの淵に沈む。


 亀覚もこの二人が落ちてくる所を見てはいないと言っていた。現場はすでに徹底的に掃除がされて状況が分かるものなど何も残されていないだろうし、こちらの亡骸だってここまで綺麗に清められてしまっては分かることも分からない。


 二人の死の状況を探る手掛かりが緋蓮には何もない。あるのは人々の曖昧な証言だけだ。


「二人の身元は分かった?」


 だがないないと不満ばかりを並べていても話が前に進まない。亀覚がせっかく気を利かせて作ってくれた機会なのだ。彼らを最後に浄土へ送り出す役目を担う肆華衆の一角として、緋蓮には真実を解き明かす責務がある。


 そんな覚悟を改めて亀覚を見上げれば、緋蓮の様子と外から響く音、両方に気を配っていた亀覚が何やら表情を動かした。


「今ちょうど調べさせておったところじゃ。折良く調べが上がったらしい」


 その言葉の通りに、亀覚の隣にある戸口に人影が現れた。扉は開け放たれたままなのに律儀に扉を叩いて訪いを示した青年は、亀覚の無言の許可を得て静かに殯屋の中に入ってくる。


「あっ!」


 その姿が燈明の灯りに照らし出された瞬間、緋蓮は思わず声を上げた。


 戸口から差し込む光を背に負うようにして現れたのは、緋蓮に居心地の悪い視線を一心に注いでいたあの青年だった。一度は遠目、今は暗がりと見えづらい状況が続いているが、この独特の雰囲気は間違えようがない。


「なんじゃ? お主、まだこれに会ったことはなかったであろう?」

「え? あ、うん。まぁ、そうなんだけど……」


 緋蓮の反応を見た亀覚がいぶかしそうに首を傾げる。そんな亀覚を相手に状況をどう説明したら良いのか分からなかった緋蓮は、意味もなく両手をワタワタと動かした。だがそれで言葉が見つかるはずもない。手をパタパタと動かしながら黙り込んだ緋蓮に亀覚はますます首を傾げるばかりだ。


 一方、緋蓮に奇声を浴びせかけられた青年は、特に緋蓮に反応することもなく、ひっそりと空気に溶け込むようにたたずんでいた。あまりにも静かすぎてそのまま背景に溶けて消えていきそうだなと、緋蓮は居心地の悪さからそんな妄想を転がす。


「き、亀覚が彼を使って事を調べさせていたということは、彼は一乗院の関わりの人間なのね?」


 いたたまれない空気に早くも耐えられなくなった緋蓮は、さっさと話題を変えることにした。幸いなことに緋蓮の話題変更にあっさり乗ってくれた亀覚は、特に緋蓮の奇行のわけを追求することもなく緋蓮の言葉に答えてくれる。


「おぉ、丁度良いわ。時期を見てお主にも紹介しようと思っておったでの」


 亀覚は数歩前へ進むと青年の背に片手を添えた。その手に後押しされたかのように青年がペコリと緋蓮に頭を下げる。


「これの名は吏善りぜん。今年の修行生候補として月天の大門をくぐった人間じゃ。都にある一乗院分寺わけでらの証文を持っておった故、出向でむき弟子でしとして試験期間中うちで面倒を見ることになった」


 修行生候補として最終試験を受けるべく月天へやってくる修行生候補達は、基本的に月天までの路銀は自己負担、宿も自力で確保しなければならないとされている。


 試験は何日かに分けて日程が組まれるため、月天での滞在期間だけでもおよそ半月、それに往復の旅路を加えれば半年を越す長期の旅になることも稀ではないらしい。


 月天の中に入ってしまえば宿屋の他にも宿坊が多く暖簾のれんを上げているから宿泊場所自体には困らないが、何分期間が長ければ逗留とうりゅうにかかる金子も高くつく。難関な試験に臨むだけでも大変なのに、この金子をどう工面するかも修行生達にとっては大きな難問なのだそうだ。


 その難問を廃して修行生候補達が試験に集中できるように設けられた制度が、出向弟子だ。


「分寺? 一乗院の?」


 月天に散在する金玄寺こんげんじの子院達は、月天外の各地に分寺と呼ばれる子院……商家にたとえるならば暖簾分けをした店に近い関係を持つ寺を持っている。華仙教かせんきょう総本山寺である金玄寺から見れば『孫』に当たる里寺だ。


 月天での修行を終えた僧侶達が縁故のある寺へ降りていくこともあれば、逆に分寺で修行をしていた者達が月天へ上ってくることもあり、子院と里寺の間ではそこそこに人の行き来がある。


 その際に己の身分を証す物として当人が持参する証書を証文、あらかじめ行く先の寺へ『こういう者をこういう目的で送り出すからよろしく頼む』と送られる証書が推挙状と呼ばれる物だ。両者の符牒が一致すればそれぞれの寺がやってきた人間を仲間として受け入れ、面倒を見るという制度が華仙教には存在している。


「都に分寺なんてあったの? 初めて聞いたわ。今まで修行生候補の出向弟子の受け入れなんてしていた?」


 出向弟子、というのは、月天の外から月天の子院に入り、修行を積む者のことだ。特に修行生選抜試験のために月天にやってくる人間を指して使われることが多い。


 だが月天にある寺のすべてが出向弟子を迎え入れているわけではない。


 格が高い寺になればなるほど、月天の中にも縁故が深い寺は多い。いわば里寺と子院の間にさらに寺を挟む形だ。月天の外からやってきた出向弟子達はまずこの間にある寺に籍を置き、月天で修行を積んでその才が認められれば改めて子院に迎え入れられるという流れを経る。


 緋蓮が知っている限り、一乗院が月天の外から直接出向弟子を迎えたことはない。寺格が高く月天内でそもそも競争倍率が高いという面もあるが、最大の理由は外敵の密偵ではないことを時間をかけて証すためだ。


 その警戒を短時間で解ける保証がこの吏善にはあるのかと、緋蓮は視線だけで亀覚に問う。


「分寺自体は、都と言わず各地にいくつかある。ただ、今まで候補生の出向弟子を受け入れることはしてこなんだ」

「じゃあ、どうしてその歴史を覆して彼を受け入れたの?」

「ひとつはこれがずば抜けて優秀であるという話だったからじゃ。そして、もうひとつの理由は……」


 亀覚が何と説明したものかと一瞬言葉に迷う。その隙を見計らったかのように、スイッと吏善自身が前に出た。


 空気を動かすことなく緋蓮の傍らまで歩を進めた吏善は、緋蓮の傍らに膝をつくと懐から矢立を抜く。よく見れば吏善の左腕には片腕に収まる大きさの分厚い帳面が抱えられていた。ペラリとその帳面をめくった吏善は、戸惑いの目を向ける緋蓮の前でサラサラと筆を走らせる。


『私が生まれつき、口をきけないからです』


 筆から書き出されたのは、性別を感じさせない流麗な文字だった。僧侶達のような四角四面に角ばった文字でもなく、かといって都の貴人達のようななよなよしい崩し文字でもない。サラリとした文字は、吏善自身を表すかのように静かだった。


『選抜試験は、ただでさえ熾烈。仮に試験に合格し、正式に修行生になれても、その先にはそれ以上に過酷な環境が続きます。その時、口をきけない私は、必ず弱者として吊し上げられるでしょう。それに少しでも対抗するためには、より大きな後ろ盾があった方が良い。そう判断なされた都の師父様が、無理を承知で一乗院様に直接推挙状を出して下さり、亀覚様の恩情によってこうして月天の土を踏めることになりました』

「口がきけない……?」


 流れるような美しさと素早さで生まれる文字を追っていた緋蓮は、思わぬ言葉に顔を跳ね上げた。緋蓮の視線を受けた吏善は改めて緋蓮に視線を向けるとコクリと静かに頷く。


「そのような事情を聴かされて、それでもならぬと言うほどわしも頭は固くない。一乗院の皆で話し合った結果、将来有望な若者がいるならば、その芽をたかが今までの慣例で摘み取ってはならぬという結論に達した」


 説明を引き継いだ亀覚は、そう言いながらもどこか難しそうな顔をしていた。


「もちろん、一乗院で相見あいまみえてから、一通り試験はさせてもらった。吏善の師父を疑うわけではないが、こちらも慣例を曲げる以上、どれほどのものか試させてもらいたかったのでな」

「今、こうして吏善がここにいるということは、吏善はその試験で一乗院のみんなが満足するような結果を出したのね?」

「大僧正としてわし自身も長く選抜試験には携わっておるが、ここまで図抜けて優秀だった候補生には初めて会ったわい」


 ──まぁ、たとえそうではあったとしても、防犯面から考えればすんなり受け入れるはずがないんだけども。


 一乗院とて、この権謀術数渦巻く月天で長く子院筆頭の座を守り抜いてきた寺だ。緋蓮には情で接し、清廉潔白を旨としている寺ではあるが、一事が万事それで片付けられているわけではないということはさすがに緋蓮も分かっている。


 恐らく何か、今は開かせない事情があって、吏善は一乗院に迎え入れられたのだろう。さらには何か思惑があって、この局面で緋蓮と引き合わされている。


 ──必要になれば、説明はあるか。


 緋蓮は静かに納得すると亀覚に改めて視線を送った。それにひとつ頷いて答えた亀覚は吏善へ顔を向ける。


「吏善、分かったことを迦楼羅カルラ様にも報告せよ」


 吏善はその言葉に頷いて答えた。ペラリと帳面を手繰る吏善を見た緋蓮は心持ち吏善との距離を詰める。そんな二人を見た亀覚は部屋の隅から燭台を寄せてくると吏善の手元が見えやすいように位置を調整してくれた。


 亀覚へ目礼を返した吏善は、目当ての面を探し出すとそっと緋蓮へ帳面を差し出す。さらに吏善は手前の亡骸を手で示した。


千壽せんじゅ

 巌源寺がんげんじ 下位一位法力僧

 昨日昼過ぎより行方不明。最後に姿を目撃されたのは昼食ちゅうじき時。

 法力僧という役職柄、討伐業務に駆り出され作務を抜けることも多く、不在は誰も気にしていなかった』


 分かりやすく纏められた文章を亀覚にも伝わるように声に出して読んだ緋蓮は、知っている寺名に思わず眉を寄せた。


「巌源寺って、玲月れいげつの後見の……?」


 確認の意味を込めて亀覚に視線を向ければ、難しい表情を浮かべた亀覚が頷く。


 巌源寺は一乗院とほぼ同格の寺格を持つ寺だ。元から一乗院との関係は良くなかったらしいが、特に当代は一乗院が迦楼羅の後見、巌源寺が執生しっせいの後見ということで互いに反目することが多いと聞いている。月天内でも一乗院派と巌源寺派の寺派があるそうで、その溝も相当深いらしい。


 ──最大派閥の内のひとつから、あんな形で変死体が出た。


 これは、荒れる。


 薄っすらと緋蓮がそう考える前で、吏善はペラリと帳面をめくってもう片方の亡骸を示した。


任坊にんぼう

 巌源寺 中三位法力僧

 巌源寺の運営を担う上級幹部の一人。巌源寺派の法力僧達の取り纏め役でもあった。

 書類仕事が多く自室にこもりがちだったため、いつから不在にしていたのかは定かではない。昼食を食べた痕跡があり、少なくとも昼食時には巌源寺にいた模様』


 以上です、といった風情で吏善は帳面を閉じた。


 軽く頭を下げる吏善を眺めながら、亀覚は難しい顔のまま唸るような声を上げる。


「任坊殿が亡くなったのは、ほんに口惜しいものよ」


 その声に緋蓮は亀覚を仰ぎ見た。


「顔見知りだったの?」

「各寺の運営に関わる人間の顔くらいは承知しておる。任坊殿は巌源寺の坊主の中ではまだ比較的穏やかで、話が通じる人間であったゆえ、事務連絡を任せることが何度があってな」


 重々しい口調で答えた亀覚は、そっと両手を合わせると二つの亡骸に向かって低く念仏の声を上げた。短い合掌にならい、緋蓮と吏善も手を合わせる。


「この二人は、同じ寺に籍を置く、法力僧の師弟……と考えていいのかしら?」

「直接の師弟関係にあったかは巌源寺にただしてみなければ分からぬが、上役と部下であったことは確かであろうな」


 亀覚の言葉にひとつ頷いた緋蓮は、次いで視線を吏善に戻した。


「事故か事件かは分かった? ……と言っても、どうやったらあんな事故になるかは分からないんだけど」

あやかし絡みという方向で』


 吏善は再び筆を構えると、サラリと帳面の余白に書きつけた。


『討伐をしそこねた妖に、逆に討たれたのではと』

「まぁ、妥当に考えればそうよね。でも……」


 緋蓮は現場の状況を思い出しながら答える。


「あの場で私、妖気らしきものを感じなかったわ」


 仮にも緋蓮は迦楼羅カルラ現人神あらひとがみだ。人を二人も殺した妖が月天の中にいてその存在に気付かないということは絶対にないと断言できる。


 そんな緋蓮に小さく頷いて同意を示した吏善は、さらにサラリと文字を書き足した。


『あくまで巌源寺の主張。他派と揉めることは必至』

「確かに巌源寺の言い分は筋が通るが、妖の仕業であったらあったで月天全体の問題になる。そうでなくても巌源寺は他の寺と揉めていることも多い。ここにかこつけて全山が揉めることは避けられんじゃろうな」


 頷く緋蓮の隣から吏善の手元を覗き込んだ亀覚も、同意を示しつつ難しい顔を崩さない。


 ──あんなことが、人の手でできるとは思えない。


 血という穢れをあれだけ撒き散らしておきながら、実際に人々の視界に映り込むまでその存在を覚らせなった亡骸。月天という聖地の中でも一際浄域とされている場所で、朝課のために全山の高僧と二人の肆華衆しかしゅうが集まっていた中、それを嘲笑うかのようにあの事件は起きた。


 ──でもあれが妖によって成されたことだとしても、外に知られれば華仙教と月天の威信は地に落ちる。


 この月天は、妖や敵対勢力といった外敵から身を守るために町全体がすっぽりと結界に覆われている。妖が結界をすり抜けて華仙教総本山金玄寺こんげんじの金堂に手を出したという話になれば、恥を晒すどころか町の住人達を恐慌状態に叩き込むことになる。


 その混乱を避けるためにも、ある一定数の人間は『妖気を感じ取れなかった』ということを逆手に取って『この事件は妖がらみではない』と強硬に主張することだろう。


「ねぇ、亀覚、玲月は? 玲月は何か言ってなかったの?」


 どう動くば一番良いのかと考えた緋蓮は、ふと唯一の同朋の存在を思い出して顔を跳ね上げた。


「玲月の方が先にこの二人に対面しているはずよね? それに、私なんかよりもずっと周囲に意見を求められてるはずだわ。何か言っていなかった?」


 緋蓮の問いに、亀覚は吏善へ視線を投じた。ひとつ頷いた吏善は、またサラリと余白に筆を走らせる。


『断末魔の叫びに全てがかき消されていたと』

「……そう」


 その言葉に、緋蓮は瞳を伏せた。


 ──残った思いの全てをかき消してしまうほどの、恐怖。


 執生である玲月の能力は『声なき声を聞く』というものだ。玲月は心の中の声だけではなく、場や物に残された思念を拾うことができる。検死の際には必ず頼りにされている力だ。


 ──哀れと……言ってしまって、いいのかな……


 人は、己の中に歴史と思いを積み上げて、死んでいく。本来ならば玲月が聞くはずであったものは、その思いであったはずだ。


 その全てを吹き飛ばすほどの恐怖とは、如何ほどのものか。その果てに至った絶命がどれほどの痛苦であったか。


 亡くなった二人を哀れに思うと同時に、生々しい声を聞いてしまったのであろう玲月が緋蓮は心配でならなかった。


 ……同時に、ほんのわずかにだけ、心の奥底に違う感情が蠢いたのも、緋蓮は自覚する。


 夜の闇の、己の目では決して見通せない闇を美しいと感じ、心惹かれてしまうあの瞬間に似た何か、だ。


「玲月の対面は、きちんと執生として公式のものとして扱われたの? それとも巌源寺の繋がりで私的なもの?」

「執生様による検分は公の物として扱われておる。医者、法力僧、巌源寺上層部、それぞれが皆検分を終えた。後はお主だけじゃ。何をどうしようとも、咎める者はおらぬ」


 そんなほの暗い感情を振り払って問いを投げる。これには亀覚が答えてくれた。


 その答えに軽く頷いて答えた緋蓮は、二体の亡骸の間に膝をつくように移動する。そんな緋蓮の動きから緋蓮が何をしようとしているのか察した亀覚が邪魔にならないように後ろへ下がった。


『私からもお伺いしてよろしいですか?』


 だが場の流れが分からない吏善は、逆に距離を詰めると緋蓮の袂を控えめに引く。


『迦楼羅様は、なぜこちらに? 検分は執生様、医師、法力僧、巌源寺で終了と聞いていたのですが』

「吏善、それはわしが説明しよう。そこは迦楼羅様の邪魔になる。こちらへおいで」


 サラサラと流れる文字が離れた場所からでも見えたのか、それとも吏善が月天に来て日が浅いことを思い出したのか、入口前まで下がった亀覚が声を上げた。手招く亀覚とその言葉に頷く緋蓮を交互に見つめた吏善は、首を傾げながらも素直に亀覚の傍らまで下がる。


 吏善が亀覚の隣に腰を据えたことを確認してから、緋蓮は一度目を閉じて深呼吸をした。


 肺の空気を吐き切り、新たな空気を肺に満たす。己の呼吸に耳を澄ますことで、胸の中の雑念を消していく。心の奥に満ちる水鏡の波紋が少しずつ消えていくのを全身で感じ取る。


「月天では、天命を果たさずにこの世を去った者の亡骸には肆華衆しかしゅうによる検分が行われる。特に重要視されるのは声なき声を聴く執生様の検分じゃが、他の肆華衆も在位しておる全員が検分には携わる」


 研ぎ澄まされていく意識の端で亀覚の声が聞こえた。どうやら緋蓮が何を成そうとしているかを吏善に説明しているらしい。


「肆華衆の検分は、事を明らかにするために行われるのではなく、突然の死に未練を残しておる魂から穢れと未練を祓い、楽土へ送る準備を整えることが目的じゃ。『事を明らかにする』というのは、本来肆華衆が負う領分ではなくてな」


 亀覚の声は緋蓮の集中を妨げることはなく、しっとりと緋蓮の意識に染み込むかのように響いた。聞き慣れた信頼できる人間の声に、緋蓮の心の水鏡はさらに深く透き通り、凪いでいく。


「その中でも迦楼羅様が担われる役割は『浄化』。迦楼羅の炎を用いて穢れを祓い、魂が御仏の元より此岸へやって来た時と同様に清らかな姿にしてやる。……もっとも」


 全てが消えた、と感じた瞬間。


 ポッと指先に、温もりが宿った。


「当代迦楼羅、緋蓮による浄化は、何も迦楼羅の力だけに依るものだけではないがな」


 その温もりはすぐに全身に回ると『温もり』を超える『熱』になる。スゥッと深くいきを吸い込めば、熱は緋蓮の体を飲み込むかのように燃え盛っていた。


「……っ!」


 吏善が息を呑む声なき声が聞こえた。


 緋蓮はゆっくりと目を開くと二体の亡骸を見つめる。薄闇に満たされていた部屋は今、溢れんばかりの光で満たされていた。その光が緋蓮自身から発されている様を見た緋蓮は、己の体に纏わりつくようにして燃え盛っている炎を手のひらで掬い上げ、亡骸の足元から体を撫で上げるかのように手を滑らせる。


 迦楼羅が纏う浄化の炎は、あっという間に亡骸へ燃え移った。だが亡骸自体が燃え上がることはない。亡骸に被った被膜を焼くかのように、浄化の炎は亡骸を抱き包むかのように表面を広がっていく。


『ああああぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!!』


 亡骸の中から黒い塊が転がり落ちてきたのは、炎が亡骸を取り巻いて数十秒が経った頃だっただろうか。


『あああぁぁぁぁああああっ!! 助けてくれっ!! 助けてくれぇぇぇぇぇえええっ!!』

『怖い怖い怖い怖い痛い痛い痛い痛い』


 響く声は絶命の恐怖と絶望に彩られていた。


 緋蓮は声を響かせる塊に向かってさらに手を振るう。ボッと勢いよく燃え上がった炎は容赦なくその塊に躍りかかると穢れを燃やし尽くすべく火力を上げた。


『ああああぁぁぁぁぁぁああああああっ!!』

『ああああぁぁぁぁぁぁああああああっ!!』


 迦楼羅の炎に焼かれる魂がさらに絶叫を上げる。


 それでも緋蓮は炎を操る手を止めない。背後で吏善があまりの絶叫に顔をしかめたのが分かったが、それも意識の中から締め出してしまう。


 ──今、楽にしてあげるからね。


「我が身に宿る炎の御霊みたまよ」


 緋蓮は片膝をついたままの状態で朗々と声を上げた。緋蓮の詠唱を受けた炎が、またユラリと色を変える。


「受けし穢れを焼き尽くせ」


 橙色だった炎が色を薄くし、青く、白く、次第に純粋な光へと姿を変えていく。


 やがて炎の中から絶え間なく響いていた絶叫が、フツリと途切れた。


『……御仏の道に生き、御仏の教えを以って妖を滅してきた我々は、果たして楽土に渡ることを許されるのでしょうか』


 一瞬で光にまで昇華された炎は、消えるのも一瞬だった。


 チロチロと元の橙色の炎に戻った火炎にいだかれて揺れていたのは、七色に光る小さな靄の球だった。迦楼羅の炎で穢れを焼き清められて無垢な御霊に戻った魂は、絶命の瞬間にすべてを覆いつくした恐怖を脱ぎ捨て、本来最期に残すはずだった末期の言葉を紡ぎ始める。


『妖と一言でいえども、その出自は様々。中には同情に値するモノや、神や仏に近いモノもいた。それらのモノも妖と一括りにして祓い続けてきた我々に、楽土へ渡る資格などあるのでしょうか』

「……あるさ。貴殿達は、己が身を剣とし、盾として衆生を救ってきたのだ。そんな徳を積んできた貴殿達が、なぜ楽土へ渡れぬと言われようか」


 その声に耳を澄まし、緋蓮は心からの言葉を返した。


 安寧な死を迎えてさえいれば、この声を聴くのは玲月だった。だが執生である玲月は、風の浄化の力を使えても、迦楼羅のような強力な浄化の力は持っていない。御霊の表面が負の感情と穢れにまみれていては、執生の声は御霊まで届かない。


 だから緋蓮は、できるだけ検分に顔を出す。自分にしかしてやれないことが、自分にしか引き出してやれない声が、そこにあるから。


 生きた人間の心の声を聴くことは執生にしかできないが、死した魂の無垢な声を聴くことは、迦楼羅にしかできないことだから。


「さあ、貴殿達は御仏に頂いた命をお返しするために旅立たねばならない。迦楼羅の炎が楽土まで導いてくれよう。……お行き」


 最後の迷いを祓うように穏やかに語りかけ、フワリと右手を翻す。その手から立ち上った炎は糸か煙のように細くたなびくとゆるゆると空へ上っていく。


 緋蓮は炎に抱かれた御霊ひたつをそっと左手で掬い上げると右手から伸びる炎へ近付けた。


『嗚呼、嗚呼……』

『玲月様、玲月様を……』


 御霊は己から炎に近づくように転がるとスッと形を崩した。ほろほろと光の粒のようになった魂は炎が作った道筋をなぞるかのように宙へ昇っていく。


 そんな景色の中に、法力僧二人の声が散った。


「玲月?」

『どうか玲月様を、救ってくだされ……』

『救ってくだされ……』


 それが、ふたつの魂の最後の言葉だった。


 天井に当たる直前で光の粒はスッと宙へ溶けた。糸のように伸びていた炎も緋蓮の手元から徐々に消えていく。炎の道が消えるのと同時に緋蓮が纏っていた炎も消え、殯屋もがりやの中には元の薄闇が戻ってきた。


「……どうして、玲月?」


 それでも緋蓮は、御霊が消えた先から目をそらすことができなかった。


 楽土へ渡る直前の魂が紡ぐ言葉は、生前心に深く刻まれた思いから発される言葉だ。今まで見送ってきた者達の中には、外に残してきた家族や同じ寺で修行を積んできた仲間への感謝や懺悔を残していく者もいた。


 だが肆華衆に宛てて残された言葉は初めて聞く。そもそも肆華衆は誰かの最期の言葉の対象になるほど誰かと親しい交わりを持つ存在ではないはずだ。


「確かに玲月は巌源寺と関わりはあるけど……。でも、玲月を救ってくれって……」


 しかもあの御霊は『救ってくれ』と言ったのだ。執生たる玲月を救ってくれと。


 緋蓮は困惑したまま亀覚を振り返った。御霊が最後に発した声は亀覚達にも届いていたのだろう。亀覚は何やらまた難しそうな顔で、吏善は表情もなく静かなまま、それぞれ何かを考え込んでいる。


「あの二人って、特別玲月と親しかった?」

「いや……」


 問いを投げてみたが返事は曖昧だった。一乗院と対立する巌源寺の中の話だ。亀覚もそこまでの内情は把握していないのだろう。


 緋蓮は自分と巌源寺の関係者が接した数少ない記憶を掘り起こしてみた。


 ──あんまり接してないはずなのに、わけ分からないくらい強烈に『キライ!』っていう印象があるのよね。


 緋蓮が巌源寺と対立する一乗院側の関係者だからそう思うのかもしれないが、巌源寺の人間はみなあまり気持ちの良い人間ではない。まさに月天の権力欲の象徴ともいうべき感情が渦巻いているという印象だ。


 上層部と玲月の関係も言うに及ばずで、玲月と接する巌源寺の高僧達はいつも気味の悪い顔でねっとりした視線を玲月に向けている。心の声が聞こえる玲月は、ああいう輩に関わるのは余計に疲れるんじゃないだろうかと何回思ったかも知れない。


 緋蓮にはとてもじゃないが今際の際に言葉を残していくほどの親密な関係が巌源寺の人間と玲月の間にあったとは思えなかった。


 ──でも、あんな風に頼まれてしまった以上、きちんと動かないと。


「そうは言っても、お主、御霊の言葉を叶えるために動くのであろう?」


 心の内で呟きながら立ち上がった瞬間、あるでその声が聞こえていたかのように亀覚が言葉を投げてきた。振り返れば、亀覚はすべてを見透かしたような瞳で緋蓮のことを見つめている。


「たとえ疑問を持っていようとも……いや、疑問を持っているからこそ、お主は動かずにはおられぬはずじゃ。……言葉の真意を探るために、そしてこの事件の真相を知るために、動くつもりなのであろう?」

「……それが、肆華衆の一角たる迦楼羅の役目だもの」

「いいや、違うな」


 本心を覆い隠した言葉は、瞬きほどの間も置かずに否定された。


「解決することが、死に近付くことに役立つからじゃ」


 その言葉に、ドクリと緋蓮の胸が騒ぐ。だが緋蓮はその内心を悟らせないように透明な視線を亀覚に向けた。


「確かにお主の行動には、死にゆく者達への哀悼という意味もあろう。じゃがお主の心に『迦楼羅の責務』という言葉が好意的に存在しておるわけではない」


 帰される亀覚の視線は鋭い。


 だがその奥に鋭さ以外のものがあることも、緋蓮は知っている。


「お主が追い求めておるのは、死そのもの。死という名の解放じゃ」


 哀れみと、悲しみ。


 その感情の所以は、緋蓮の心を案じる、親としての感情にある。


「……わしが、気付いておらんと思うておったか?」


 ──知られてしまっていた。


 だが緋蓮はそれを感じ取りながらも、鏡のように凪いだ視線を亀覚に向け続ける。亀覚の瞳に映り込む自分が能面のような顔をしているのがこの距離からでも手に取るように分かっているのに、その表情を取り繕うことさえもうできない。


 ──亀覚を始めとした一乗院のみんなは嫌いじゃない。だけど。


 亀覚を始めとした一乗院の面々には、できれば察してほしくはなかった。だが思い返せば自分はきっと、月天の地を初めて踏んだ時からこんな顔を晒し続けてきたのだろう。仮面のように他の表情を纏うことを覚えても、いつだってその下はこんな死人のような顔をし続けている。


 ──それを有り余ってなお、赤と、炎と、この地が嫌い。


 初めて御霊を楽土へ送った時からずっと、緋蓮は死に焦がれている。だから何か人死が関わる事件が起これば、追う。追わずにはいられない。『死』という解放を、求めずにはいられない。


「……事件を追うことを止めはせぬ。どのみちこの件は、お主の力を借りてでも解決しなければならぬからな。だから、止めぬ代わりに吏善を付ける」


 虚無を湛える緋蓮も、緋蓮を見つめる亀覚も、視線を交錯させたまま揺らがない。


 だがその言葉には、緋蓮の中の何かが揺れた。


「選抜試験開始は半月後。それまでこれの体は空いておる。頭も切れるし、何よりお主が嫌いなお喋りもせぬ。お主の使いっ走りを任せるのに、これ以上の逸材もおらぬであろうて」


 その揺れを感じ取った瞬間、緋蓮は亀覚の言葉に目を見開いていた。凍り付いたと思っていた感情が揺さぶられたことによって動き出す。


「え、待ってよ亀覚。選抜試験前の期間、勉強時間を与えずに私に付けるってどうなの? 最後の追い込み勉強とかで大切な時期なんじゃ……」

「いらぬいらぬ。これにそんなものは必要ない」


 緋蓮が心を元に戻すのと同時に、亀覚も纏っていた冷たい空気を脱ぎ捨てた。常の飄々とした空気に戻った亀覚はヒラヒラと片手を振りながら吏善に視線を向ける。


「むしろこれは、お前に付いて月天の中を回り、少しでも月天の空気を直に感じ方が良い。今後のためにもな」


 亀覚が何を指して『今後のため』と言ったのか、緋蓮には理解できなかった。そもそもその『今後』は、何はともあれ選抜試験に最後まで合格しなければ意味がないはずなのだが、といぶかしむ視線を亀覚に向けるが、亀覚は追って説明をするつもりはないらしい。緋蓮に向けられていた視線は吏善の方へ回される。


 対する吏善は、今の言葉で亀覚が意図する所を察したようだった。相変わらずさざ波一つ起こさない静かな気配を纏ったまま、亀覚に向かって一礼を返す。


「吏善をしばらく飛天楼迦楼羅付きにしておく。良いな、。調査には必ず吏善を伴え。下働き、護衛、歯止め、勉強、使いっ走り、名目は何でも良い。決して一人で死に近付くでないぞ」


 念を押すようにあえて緋蓮を名前で呼んだ亀覚は、向けられた言葉に口ごもる緋蓮に向かって足を進めた。何とか亀覚の言葉に反論しようと必死に口をもごもごさせる緋蓮の前まで距離を詰めた亀覚は、実に無造作に緋蓮の頭に片手を置く。


「……良いな?」


 大きくて、皺が多くて、少し冷たくて、でも温かい。


 この温もりに緋蓮が弱いことを一乗院の人間は知っているから、みんな事あるごとに緋蓮の頭を撫でたがる。


「……はい」


 結局緋蓮はコックリと素直に亀覚の言葉に頷いた。それにわずかな笑みをこぼした亀覚はワシワシと容赦なく頭をかき乱してから手を放す。


 ──玲月も、こんな風に頭を撫でてくれる人って、いたのかな……?


 亀覚の手が離れていった頭に今度は己の両手を乗せて、緋蓮はそんなことを思う。


 昨晩幻のごとく現れた響術師きょうじゅつしについて亀覚に伝え忘れたと気付いたのは、殯屋もがりやを出て玲月のことを考えた、その時だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る