第3節(2/2)

 一行が動くと、遠巻きに見ている群集も同じだけの間隔を保ってついて来た。都人のこの物見高さは、いつも政綱を驚かせる。

 いつだったか、洛外から鬼神の眷属が迷い込んだことがあったが、大勢の老若男女が見物に詰めかけ、大変な騒ぎになったことがある。追儺ついなでもないのに鬼が追い回されていると洛外まで噂が届き、政綱の師匠である大天狗の鳳至山太郎坊が、わざわざ見物に来たほどだ。

甲乙人こうおつにんらが騒がしいな」

 樺崎広久は、そんな人々の浮かれ騒ぐ様子に辟易しているらしい。

 天皇や上皇臨席の儀式であっても、なんと会場内まで見物にやって来るのが、都人の古来変わらぬ生態だ。それと比べてみれば、ここに現れた検非違使の一行などには気を遣うのすら馬鹿々々しいというのに、こうして距離を置いている理由は明らかだった。乱行の多い放免たちが――政綱に遠慮がちに――群集に睨みを効かせているからだ。

「おそらく、この辺りが件の妖猫のねぐらではないかと思うのだが」

 広久の声が聞こえたが、政綱の喫緊の観察対象は見物客のほうだ。政綱たちの真似をしてのことだろうか、拾った木の棒を刀や太刀に見立て、帯に差したり、草の蔓で腰に括りつけている子らの姿があった。五月の節句につきものの石合戦では、さぞや活躍したことだろう。

 政綱を見知っているのか、少年たちは目が合うと棒切れを振って、「おーい!」と呼びかけてくる。嫌われ者の人狗に向かって、無邪気に手を振っている。

 人狗は嫌われ者だ。悪名高い天狗に育てられた異人なのだから、それが当然だった。異能の証である猛禽じみた茶色い目玉も、日出人にしては高い背丈も、人狗が人狗であるために欠かせない剣腕も、全てが忌むべきものとされた。

 それがどうだろう、あの子どもたちは。子どもの勇敢さ――正義感と言ったほうがいいのだろうか――には、時に驚かされる。政綱はためらいがちに、小さく手を振って返した。

「人狗殿」

 広久が咎めるようにそう言った。

「あぁ、すまん」

 政綱は広久に向き直ると、次いで堂の周囲一帯の地面に目を這わせた。

「あんたの言う通りだろう、樺崎殿。猫の足跡がいくつもある」

 昨日のうちに様子を見に来ていたが、余計なことを話して仕事を長引かせたくない政綱は、屈んで堂の床下を覗き込んだ。束ねた長い髪が肩を流れ、黒く湿った地面に毛先が触れたが、そんなことはお構いなしだ。

 その姿勢のまま、「誰か入ろうとした者はいるか?」と尋ねると、広久から答えがあった。

「今朝到着して早々、放免を物見にやってはみた。何やら生臭かったとは申すが、ねぐらには入れなかったようだ」

「それはそうだ。この化け猫は、小なりとは言え異界が棲み処のようだ。異界に渡ろうと思えば、おれのような者が必要になる」

 そこで身を起こした政綱は、うしろで見ている検非違使一行に向けて肩越しに言った。

「皆はそこで待て。これから行って、片づけて戻る」

 政綱が床下に潜り込もうと動き始めると、雲景は旅の空でよくそうするように、すかさず申し出た。

「わたしも同道しようか?」

「いや、化け猫の<庭>は大抵狭い。連れ立って乗り込むと、中で身動きがとれなくなるかもしれん。自慢の白い顔を引っ掻かれたくなければ、大人しくそこで待ってろ」

 こういう場合、怪我やもっと酷い結末を避けたければ、先達の言うことに従うのが最上の選択だと、つき合いの長い雲景はよく知っている。それ以上引き下がることはせず、「気をつけろよ」と送り出した。

 蜥蜴とかげのように床下に這い入る人狗を見送った後は、検非違使にも、遠巻きに見ている群集にも、せいぜい床下を覗き込むくらいで、他には何もやることがなかった。政綱の成功を疑わない雲景は、堂のまわりを見廻って、後日の参考にしようと見学に努めた。興味を惹くものは何もなかったが。

 政綱が異界に消えてしばらくすると、手持ち無沙汰の検非違使たちは早速退屈し始めた。東の空からぐんぐんと迫る分厚い雲を指差し、やがて降り始めるであろう雨の心配をしている。樺崎広久に随行の武士数名は、見物人の中に知った顔を見つけたらしく、熱心に立ち話などしているのだった。

 その中にあって、遠時は日来ふたりと交流があるからに違いないが、「大丈夫であろうか」と雲景に聞きに来たりもした。雲景は、人界と異界とでは時の流れ方が異なる場合が珍しくはなく、向こうでの一瞬がこちらでは一刻にもなれば、その逆もあり得ると説き、今度の場合はおそらく前者の例なのだと答えた。勿論、政綱の受け売りだ。

「それに遠時殿、あの〈鳳至童子〉の政綱だぞ? 正体のわかっている化け猫を相手に、後れを取るはずがない。のんびり待っていれば大丈夫だ。ほら、どうやら戻って来たようだ」

 検非違使たちから、溜息に似た声があがった。床下から、黒猫の亡骸が押し出されたのだ。続いて、黒い装束を埃まみれにした政綱が、闇の中からぬっと現れた。

 雲景は笑って言った。

「ご苦労だったな政綱。まだ雨は降り出してないぞ」

「そうか」

「中はどうだった?」

「思った通り、人間の身体には狭い異界だった。待っていて正解だったな」

 政綱は顔に纏わりつく蜘蛛の巣を袖で拭い、埃をはたき、黒猫の骸を顎で示した。

「それが化け猫だ。おれが向こうを出るまではまだ温かいままだったが、戻る間に冷えたようだな」

 化け猫を囲んで見おろしていた検非違使たちは、ひそひそと小声で話し合っている。空を見上げた政綱は、淡々と言いたいことだけを伝えた。

「用は済んだろう。後はそちらの仕事だ、使庁の人々。謝礼は早いうちに雲井小路へ届けてくれ。おれはもう帰るぞ」

「待て――」

 左衛門佐広久が、早くも背を向けた政綱を呼び止めた。

「まことに化け猫なのか? 尻尾が一本しかないが」

 政綱は、「は?」という声を抑えられなかった。

 検非違使庁には、妖に関する記録も集積されているはずだが、この男は関心がないのか物覚えが悪いのか。左衛門佐といえば、検非違使庁では別当に次ぐ地位で、別当の代理を務めることも多いのだが、この男はあまり仕事熱心とは言えないようだ。

 仕方なく政綱は振り返り、手短に講義を行った。

「あんたがいま言ったのは、猫又ねこまたのことだ。猫又と化け猫ではまるで違う。猫又は化け猫のように自在には姿を変えない。身体が大きく力も強いお蔭で、妖術に頼る必要がないからだろう。そいつが悪戯好きなだけの化け猫で、幸運だったと思うべきだ。猫又がこんなところに入り込んでいたら、何人殺されていたかわからんぞ。猫又の被害では――もう昔のことだが――磯長国しながのくにで一晩に二十人を殺した事件が記録に残っているはずだ。国府から妖討使ようとうしが遣わされたが、何人も死んだうえでようやく退治したと聞いている。使庁にもその記録があるに相違ない」

 最後の一言は雲景に尋ねるようにして言った。雲景はうなずいている。

「左様か。後で問い合わせるとしよう」

 どこか間の抜けた広久の言葉に、皮肉のひとつでも言ってやりたくなったが、横に立った雲景の小さな咳払いに免じて、腹の底に吞み込むことにした。

 検非違使たちは、化け猫の骸を荷車に乗せて菰で覆い、都の東を限る鴫河しぎがわに向けて発った。死体は河に流すつもりらしい。見物の群集は、やはり一定の距離を保ったまま、検非違使一行につき纏って河原まで出かけて行くようだ。

 それに少し遅れ、破れ寺の門を最後に潜った安田遠時が、ふたりに向けて軽く頭を下げた。応えたふたりは来た道を辿り、雲井小路の宿所へと引き揚げた。

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